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浄土真宗なのに地域の曹洞宗に法事を‥
お願いしたり‥。 私の夫の実家では 菩提寺が浄土真宗 東本願寺なのに 地域の曹洞宗に法事をお願いしているのですが‥ こういうのは 地域的な事象でしょうか? 夫の実家は浄土真宗ですから お水を置いたりしませんが 何故か いつもあります。 気持ちの問題だと 兄嫁が言っていますが 、どのように理解すれば良いのでしょうか?
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- porepore4157
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Samantabha の返答に応えた 053018さんへ それだけご自分の意思がはっきりされているのであれば、迷うことはないと思います。次世代の方へきちっと継承していくのが良いと思います。
- Samantabha
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補足拝見しました。 何をもって正しいとするかにもよると思います。 宗派の決めごとが全面的に正しいとするならば、質問者さんがおっしゃっていることが正しいでしょう。 でも、だからといって、供養する側の気持ちを全く無視して、何が何でも宗派の取り決めのようにしなければ……というのが全面的に正しいかといえば、私はそれは疑問だと思うのです。 またわが家の話になって恐縮ですが、もうずいぶん前に亡くなった祖父は、園芸が好きで、丹精込めて薔薇を育てていました。 亡くなった後は手入れをする人がいなくなったのですが、それでも毎年、綺麗な花を咲かせています。 その薔薇を、わが家ではいつも仏壇に供えます。 ご存じのように、薔薇にはトゲがあります。「トゲのあるものを仏さまに供えるな」というのは一般的によく言われています。 しかし、祖父が丹精込めて作っていた薔薇です。「ほら、今年もおじいちゃんの薔薇が綺麗に咲いたよ」と供えることの何が悪いのでしょう。 質問者さんのご実家のみなさんも、「お水をあげることは浄土真宗のしきたりに反している」ということはご存じなんじゃないでしょうか。 それでもなお「お水をお供えしたい」というのは、「仏さんだって、お水を飲みたいだろう」という思いがあるからではないでしょうか。 あるいは、もししきたりに反しているということをご存じないのだとしても、「お水をあげたい」という思いがあるからこその行為でしょう。 私は供養というのは、「残された者の気持ち」だと思っています。 実際、仏教に「死者への供養」という思想はありません。 浄土真宗の教えも、「阿弥陀さまの教えに導かれて、浄土へ行くこと(そのために生きている我々が今をどのように生きるか)」であって、「死者を供養すること」ではありません。 真宗本来の思想から言えば、毎年お墓にお参りしたり、家にお仏壇を祀ることさえ意味のないことなのです。 それでもどのご家庭でもお墓参りはされますし、仏壇もしつらえられているのは、やはり「亡き人を供養したい」という「残された側の思い」があるからこそだと思うのです。 また少し的が外れてしまったかもしれません。 結論として、私は「宗派なんてものは何でもいい」と思っています。 質問者さんも、ご主人さまが亡くなって初めて「うちは何宗なんだろう」と思われたとのこと、なんだかんだ言って、現在の日本では宗派というものはその程度のものなんだと思います。 ご主人さまが亡くなって、質問者さんはご本家をお手本にしようとなさったわけですが、今どきの人たち、特に都会に住む人は、「よく分からないから葬儀屋さんに手配してもらおう」と適当なお坊さんに頼んでしまうことがよくあるようです。 あるいは、「もう坊さんに頼まなくてもいいんじゃないか」と言う人も増えてきています。 質問者さんのお気持ちが「宗派の決めた正しいやり方を踏襲すること」というのであれば、それはそれでいいと思います。それこそが、質問者さんの「故人に対する思い」なのですから。 でも、現在、宗派のしきたりと違うことをしていて文句を言うのは、お寺さんか、熱心な信者さんだけですよ。 >地域の昔からの付き合いで曹洞宗にお願いはしても、仏壇の中を 曹洞宗にするなら 最早浄土真宗の意味はなく そこを疑問に思っている次第です。 という点ですが、たとえばお墓が真宗の寺院の中にあるということなら、曹洞宗に転派するならお墓の引っ越しもしなければならないでしょう。 また、その曹洞宗のお寺さんでも、法要などは請け負ってくれるかもしれませんが、檀家として迎え入れるには手続きとか何とか、ややこしい事情があるのかもしれません。 また、気持ちとして曹洞宗のしきたりが好ましいと思っていても、やはりこれまで浄土真宗で来たのだから、転派するほどではないと思っていらっしゃるのかもしれません。 そういう何か理由があって浄土真宗のままにされているのでは? このあたりはご実家の方々に聞いてみないことには分かりませんが、とにかく、あまり宗旨にこだわっていないということだけは推察できます。 そして、そういう宗旨にこだわらない方は、結構いらっしゃるということは言えると思います。 長々と失礼しました。
お礼
回答ありがとうございました。 ・夫の実家の地域は曹洞宗→地域のお寺に法事をお願いしても良いのだそうです。昔からそうしてきて菩提寺側も是認している事でした。 ・私の住む地域のお寺さんは浄土真宗。 菩提寺と同じ宗派。菩提寺に我が家での法事をお願いしても 結局地域の住職、 つまりは浄土真宗の方。 我が家でも 夫の好んだ供物をあげています。しかし法事をあげるといった場合は やはり浄土真宗の正しい形式になります。 夫の実家では 曹洞宗のお坊さんがくるので 浄土真宗の正しい形式には 勿論口を挟まないですよね。 つまり、我が家の在り方と夫の実家の在り方は比べられないという事です。 供養する側の気持ちを全く無視して、何が何でも宗派の取り決めのようにしなければ……私はそれは疑問だと思うのです。 →気持ちの問題‥気持ちがあるから‥と兄嫁から言われた途端、不快、疑問になったのは何故か‥これは では浄土真宗の門徒は気持ちがないのか?気持ちがあるからと言われた途端に気持ちがないと 否定されている気がしたからです。考察すればそうなります。 宗派の対立、門徒同士の対立は 回避したいものです。 気持ちの表れが 供物によって見えるのは 物質的な形でしかなく 私は否定しません。故人を偲んでの気持ちの表れですから。しかし、私は個人的な気持ちの表れも大事だとは思っていますが 故人への私の気持ちとは 遺された私達の人生の現れだと思っています。 継承すべきものを継承していく、次世代に継がれる 我が家の仏様の供養には 親としての私の人生そのものが 現れると思うのです。次世代(今、高二)が、毎朝毎晩 私と共に仏壇に手を合わせてくれているこの事を私は感謝しています。私の生き方を通して次世代は 故人に対する気持ちを察している。 供物やお水をあげる気持ちは否定しませんが 次世代が継げないのであれば意味がない‥。 結局は そこなんだと思うんです。兄嫁を見ていて抱く違和感はそこです。気持ちの問題から始まりその先で次に繋がらなければ故人は悲しむでしょう。私の目的はそこにあり、それが私の最大の生きる意味であり人生です。今私42才、30才で夫と死別。そこからみつけた1番大切な事‥それが次世代への継承です。私の生き方を見て これ程お父さんを大切に思っいる‥次世代はその『気持ち』を継ぐでしょう。夫の実家とはまさにそこが違います。お付き合いありがとうございました。
- Samantabha
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地域的というより、個人的な問題でしょう。 特に浄土真宗の方は、言い方が悪くて申し訳ありませんが、自身の宗派に固執する傾向にあるように思います。 自分が信心しているのは阿弥陀さま(真宗)である、だから他宗派は関係ないというスタンスで、たとえば自治会が「地元の氏神さまに寄付を」なんてことを言うと、頑なに断わることが多く、トラブルになったりすると聞いたことがあります。 そういうご宗旨ですから、地域によらず、きちんと真宗に帰依なさっているのなら、他宗派の方に法事をお願いしたり、他宗派のしきたり(お仏壇の祀り方など)に従うなどということは、あまりなさらないと思います。 ですから、ご主人さまのご実家でのことは、ご実家の方々の「気持ちの問題」でしょう。 そうなさりたいからそうしている。 真宗への信心を横に置いておいて、他の宗派の法事を頼んだり、お水を供えたりしたい……その方が「故人を供養しているような気分になる」「お仏壇を祀っている気分になる」「ありがたい気持ちになる」……そんな気持ちがあるから、そうしていらっしゃるのでしょう。 どう理解すれば……というご質問ですが、特に理解する必要はないのではないでしょうか。 そうしたいとおっしゃるのですから、「ああ、そうですか」と見守っていればいいと思います。 そうすることで、阿弥陀さまがバチをあてることもないでしょう。 故人が浮かばれないこともないでしょう。 真宗以外の宗派の方なら、そんなに「家の宗派」にこだわらない場合が多いですよ。 うちの叔母など、お葬式は浄土宗、四十九日は臨済宗、入っているお墓は浄土真宗系の分譲墓と、各宗派とりそろえて「あちら」へお送りしました。 何を疑問に思われるのか分かりませんが、「信心」というものは、個人の「気持ち」の問題であって、「家」や「伝統」にしばられるものではないと思います。 質問の意図が少しくみ取りにくかったので、このような回答になりました。 ピント外れでしたらすみません。 補足いただければ、また違った回答ができるかもしれません。
補足
なるほど‥と頷きたくなる回答でした。 細かい部分を補足いたします。これも何かの御縁でしょうから 是非に‥。 私の夫が他界したのは 今から11年前。 次男に嫁いだ私は 夫の実家、つまり本家を手本とする事を 母親からアドバイスを受けました。これはお通夜や葬儀は 我が家では 勿論初めてであり、夫の実家の宗派等 全く知らなかったからです。 本家を手本とする事で 法事や日々の仏壇に関わる事を教えてもらえるのは とても有り難い事でした。 他界した当初から 菩提寺との付き合いが始まり 細かく教えて頂いて ふと疑問に思ったのです。 本家は本家として 気持ちの問題でお水をあげているのは これは理解できます。 しかし、その事が実際の浄土真宗とは やり方が違い 気持ちの問題を省けば 間違った‥つまり、正しくないやり方を 教えてもらっていた事‥。 現在は 私達分家は本家に習う事はなく 菩提寺に習っていますが 気持ちの問題だと捉えるなら 例えば 正しいやり方は 二の次でも良い事になってしまいます。 浄土真宗の仏壇に禅宗の御膳?をあげても良いなら 宗派自体なんだって良くなりませんか? ごちゃまぜの それを次世代が面倒みる時に、本当の基礎を知らず 菩提寺の住職様が我が家においで下さっての法事の場合に ごちゃまぜのそれで 御膳なんかあげるかもしれません。 私は基礎があった上で 気持ちの問題で崩すというなら いくらでも理解できます。 しかし、基礎も知らず 毎日仏飯をおあげする時、次世代の者達は 仏壇を世話している人に習う訳だから 基礎を押さえておかないと 結局間違って覚える訳ですよ。 その間違いで またごちゃまぜを継いでいく‥お寺さんのミニチュア盤が個々家庭の仏壇ですよね? 地域の昔からの付き合いで曹洞宗にお願いはしても、仏壇の中を 曹洞宗にするなら 最早浄土真宗の意味はなく そこを疑問に思っている次第です。 基礎は大切だとは思いませんか?
お礼
porepore4157さん、 ありがとうございます。 こうして質問しながら 随分自分自身を掘り下げ 私の心に宿る大切なものへ 問うてみて やっとこさ 気付いた次第です。 何か光が見えた気がして ホッとして‥ 締め切る事を ウッカリ忘れていました。 m(_ _)m 皆様にはお世話になり、大変感謝いたしております‥。 これからも層一層 頑張っていきます。 回答ありがとうございました。