アイデンティティを「伏せる」ことが強要される日本
わたし自身は外国につながりをもつ日本人ですが、多くの日本人は、「外国につながりをもつ日本人のアイデンティティ」を、どのように受けとめているのでしょうか。
(1) 外国につながりがあっても、日本のアイデンティティも分かちあっているのだから、日本のアイデンティティを「最重要視」あるいは「最優先」してほしい。
(2) 外国のアイデンティティと、日本のアイデンティティ、これらを「両立」できるようにしてほしい。日本と当該国の友好のために、何らかの「貢献」をしてほしい。
(3) 少なくとも、日本社会で生活をしている限りは、外国のアイデンティティを表向きにしてほしくない。日本のアイデンティティにのみ向きあってほしい。
(4) 日本社会で生活をしているわけだから、外国のアイデンティティと向きあうべきではない。完全に日本社会に「同化」することが望ましい。
(5) その他
先日、ある地方公共団体の市会議員が、このようなことをインターネット(ツイッター)をとおして主張しました。
“日本という一つの国で同じ教育を受け、同じ言葉、同じ法制度で生活する中で
アイヌであることをわざわざ証明する必要もないのが現状です。”
わたし自身は外国につながる日本人であり、アイヌではありません。
しかしながら、外国につながる立場から、このようなコメントは、外国につながる人々の尊厳を著しく傷つけるものであると、受けとめています。
“日本という一つの国で同じ教育を受け”
たとえば、この部分については、わたし自身は日本教育を受けた経験があり、そこでは管理教育とう名の「同化の強制」が存在しました。わたし自身、みずからの日本教育時代は、教育そのものが嫌だったことや、心無い日本人からの嫌がらせ、イジメ行為に耐える日々でした。外国につながりをもつ立場の人々のなかには、日本の教育制度、日本の社会制度に「疑問」をもち、それらを批判する人々は少なくありません。多くの日本人が考えているほど、日本社会、さらには、日本の教育制度は、いまだに多様性の包摂という点において、さまざまな問題をかかえています。
“アイヌであることをわざわざ証明する必要もない”
この市会議員のコメントは、アイヌにたいする「不理解」のあらわれだと、解釈することができると思います。そして、このようなコメントは、外国につながりをもつ人々にたいしても、当てはまるものではないでしょうか。“わざわざ証明する必要もない”という言葉から、アイヌの人々のみならず、外国につながる人々にたいしても、みずからのアイデンティティについては、それを証明すること―たとえば、具体的にはそれについて語ること―を控えるべき、してはならないというのが、この市会議員の「ホンネ」なのかもしれません。
わたし自身は、「半分しか日本人」という立場です。どんなに頑張っても、「ガイジンの血」がはいっている以上、「半分しか日本人」です。それでも、ほかの、大多数の日本人以上に、日本のことを学び、日本社会のなかで受けいれられるための「努力」を積み重ねています。アイヌの人々についても、同様のことがいえると思います。
さらには、「半分しか日本人」という立場ですから、残りの半分は、外国のアイデンティティです。日本のことを、外と内から、客観的にみることができます。そういった「アドバンテージ」があるので、日本のこと、日本人について、さまざまなことを学ぶことができました。そして、日本について学べば学ぶほど、日本にたいして「特別な思いいれ」をもつようにもなりました。わたしなりに、「愛日」という言葉で、このことを説明しています。(愛国ではなく、日本のアイデンティティを大切にするという意味の「愛日」です。)きっと、多くの日本人からみると、わたしは、ある種の「知日的存在」にみえるのかもしれません。
今回の、この市会議員の「失言」は、外国につながりをもつ立場からすると、みずからのアイデンティティの「否定」につながりかねない、極めて危険な発言だと、受けとめています。
わたし自身は、外国のアイデンティティを分かちあいながらも、日本のアイデンティティを大切にしています。この市会議員は、わたしのような存在のことを、あまり理解していないのだと思います。
お礼
あー、なるほど。最初にそういうシーンがありましたね。一体どういう繋がりがあるのか全くわかりませんでした。ありがとうございました。