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満州国崩壊と日本人開拓民の悲劇
- 満州国が崩壊し、日本人開拓民は中国人による残忍な虐殺を受けました。
- 多くの日本人入植者は、土地の買収が半強制的であったことを知らずに入植していました。
- 森村誠一さんの作品『夕映えの殺意』には、この悲劇的な出来事が描かれています。
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中国人による日本人開拓民虐殺は遺憾の極みです。 しかし置き去りにされた日本人乳幼児を育てた心優しき中国人もいた 事は忘れないでください。 日中友好のためお互い過去は反省しなければなりません。 醜い行為は日中双方にあったと思います。 日本人開拓民の犠牲者の皆様に対しては本当にお詫びもうしあげます。
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メディアが少なく、統制されていた時代の悲劇です。 実際に酒席で、「おやじがスイカを拾ってきた。という袋を家族の前に放り投げるときまって 満州人の有力者の首がゴロゴロと出てきた。」と聞いたことがあります。 半強制的というのは詭弁で、有無を言わさずといった強制で、満州人の綿入れの冬服一着分で 一家族を追い払って、小作人にしたと聞きました。 正しく情報が伝わっていれば、別の途が開けたと思います。
お礼
>実際に酒席で、「おやじがスイカを拾ってきた。という袋を家族の前に放り投げるときまって 満州人の有力者の首がゴロゴロと出てきた。」と聞いたことがあります。 あたしは満州に関する本をかなり読みましたが、そんな話聞いたこともないですよ。いくら満州人でも有力者が何人も殺されれば、警察は絶対に問題にします。そもそも首とスイカを間違えるなんて不自然ですし、酒席に人の首を出して平気な日本人の「家族」などいる訳ありません。スイカと言えば夏ですが、首が腐らないのも不自然です。 >半強制的というのは詭弁で、有無を言わさずといった強制で、満州人の綿入れの冬服一着分で一家族を追い払って、小作人にした あたしの調べた限りでは、安いと言えども相当のある程度の金額や代替地が渡されていました。冬着一着分なんて話はどの本にも載っていませんでした。そんな事を続けたら満州人たちは生活できなくなり暴動を起こしますから、明らかに変です。 黄文雄氏は、著書『日中戦争 真実の歴史』(徳間書店)の中で次のように述べています。 この地がもともと馬賊上がりの軍閥に支配され、住民は塗炭の苦しみに喘いでいた。満州国が樹立されると、まず関東軍、そして新設の満州警察によって治安がもののみごとに確立された。満州事変の前年である1930年、満州の匪賊の数は奉天省3万人、吉林省1万人、熱河省1万4000人、黒龍江省6000人の計6万人に達し、そして事変後は、そこに敗残兵、逃亡兵が入り込み、軍備を充実させながら十数万にも膨れ上がったが、これを軍警が一体となって一掃したのである。 満州国に関しては関東軍の内面指導というものがあり、そのためこの国は傀儡国家、偽国家だとの見方が定着しているが、ひとり立ちできない国家を、他国が全面的に指導するという例はいくらでも見られる。それよりも日本人が全面的に国家指導を行なったことで、匪賊の消滅という中国近代史上の奇跡がもたらされたことに着目するべきだろう。 かくして治安が確立された満州では、近代的な法体系が持ち込まれ、東亜大陸史上初の法治社会が生まれ、社会は安定へと向かったのである。 軍閥時代には財政予算のほとんどが軍備や内戦に消え、インフラ整備といえば何もなく、せいぜい張学良時代に数軒のダンスホールが建設されただけだった。ところが満州国時代になると、日本の優秀な人材を招聘(しょうへい)し、新都市・新国都の建設と、既成都市の改修が行なわれた。新京は実に先進的な100万人都市として建設された。路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用された。 また産業の面では、それまでは鍋釜しか製造できなかった満州が、自動車や飛行機まで製造する一大近代産業国家、一大重工業国家となったことは特筆に価する。1936年に決定された満州国産業開発5カ年計画では、総電力257万キロワットが目標に掲げられたが、潜在的発電力としては750万~1000万キロワットが可能と推定された。これに対して1928年の中国の総発電力は38万キロワットにすぎない。終戦後の1947年における総発電力は100万7000キロワットだったが、もちろん多くは満州に集中していた。 民政の面で特筆すべきは教育の普及とともに風土病の駆逐が上げられるだろう。中国と同様満州も、もともとは不衛生な土地であり、各種の風土病、伝染病が蔓延していたが、日本人の指導でそれらの撲滅が図られた。 満州の人々は、それまで夢にも思わなかったような近代文明に浴することになったのである。そこはまさに政府から、あるいは軍閥、匪賊から搾取、略奪を受けることのない、そして生命、財産が確実に保護される平和郷であり、王道楽土だった。 満州国建国以降、ここへは年間100万人を超える人々がなだれ込んでいる。つまり長城以南の略奪、虐殺、貧窮に満ちた大地を逃れ、この平和な桃源郷を目指したのである。このため満州国の人口は、1932年の建国当時に3000万人だったものが、終戦時の1945年には4500万人にまで膨れ上がっていた(満州国の国務院総務長官だった星野直樹の著書『見果てぬ夢』には5000万人まで増えたと記述されている)。 もし今日の中国人が言うように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象は見られなかったはずである。 ・・・・・・満州の人口は統計も出ています。黄文雄氏の主張が仮に誇張だとしても、統計の数字はごまかせません。少なくともかなりの数の中国人が、「中国より満州の方が暮らしやすい」と満州にやって来たのです。
- dayanvanilla
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ano4です。 江沢民がなぜ反日教育をしたか。 彼は私と同じ上海人ですが彼の父は対日協力者でした。 上海人は誰でも知っている事です。 反日傾向の強い北京でのし上がる為の方便だったのですね。 実は毛沢東先生も周恩来先生も親日だったのです。 ただ江沢民の親分は天安門の虐殺を命じ中国は動揺します。 内政で問題が生じると国外に人民の目を向かせるのが中国 の政治パターンです。 かつてのアジアの強国いまは平和国家の日本は彼にとって は絶好のターゲットでした。 私は今は日本人ですが台湾に逃れ国籍が三度変わりました。 日本人は今の日本に感謝すべきです。 日本は特攻隊の英霊が護る神の国です。
お礼
>反日傾向の強い北京でのし上がる為の方便だったのですね。 そうだったのですか。民衆の機嫌を取るための方便だったんですか。 >内政で問題が生じると国外に人民の目を向かせるのが中国の政治パターンです。 そうすれば、自分たち為政者への非難をかわし、人民の非難の矛先をそらせることができますね。 >実は毛沢東先生も周恩来先生も親日だったのです。 これは初耳でした。あれほど対日批判を繰り返していた二人が。 >かつてのアジアの強国いまは平和国家の日本は彼にとっては絶好のターゲットでした。 自衛隊しか持たない軍事小国の日本だから叩いたんですか。戦前だったらもう戦争になっちゃいますよね。
- ShiroganeMadam
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開拓民は国にだまされて満州へ行ったのか。 それとも一旗揚げようと助平根性で行ったのか。 以上のいずれかで感じが違ってきます。 満州人の土地を取り上げて入植したのですから恨まれるのはやむを得ないと思います。
お礼
両方の事情の日本人がいたでしょうね。ただ本当に悪いことをした人間は、敗戦前に日本に逃げ帰っていました。 虐殺されたのはそれほど悪い事をしていない無辜(むこ)の開拓民の方々でした。満州国の発展のために身を捧げようと大陸に渡って行ったのに、さぞ無念だったでしょうね。
- kendamakun
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>大日本帝国は満州(中国東北部)の農民から、土地を安い金額で半強制的に同意させ買収しました これのソースは?。
- nacam
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日本が他国を侵略したむくいです。 それを教訓とし、他国への侵略行為は、許されないものとの決意をしましょう。
お礼
確かに他国への侵略は許されませんが、さほど罪のない開拓民をこんなにむごく虐殺するなんてひどいです。 特に満州の農民の土地ではなく荒地を開墾して入植した、何の罪もない開拓民の方々を飢えた狼のように虐殺するなんて許せません。 日本に強制送還すれば良いだけの話なのに。殺された方々は、本当に痛くて苦しかったでしょうね。 とりわけ自分の子供たちを殺さざるを得なかった母親の悲痛な心情を思うと、涙が出てきます。
お礼
中国人の方でしょうか? そうですね。日本、中国の双方がそんな気持ちになってくれれば、明るい未来が訪れますね。 ただ気になるのは、旧満蒙開拓団の慰霊碑撤去です。不安です。 ★反日教育のつけ 中国、旧満蒙開拓団慰霊碑撤去 産経新聞 8月6日(土)22時10分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110806-00000569-san-int 【北京=矢板明夫】中国の黒龍江省方正県が建てた旧満蒙開拓団の慰霊碑が、国内世論の反発と過激派による破壊行為を受けて撤去されたことは、江沢民時代に実施した反日教育をうけた世代が中国の世論を形成する主流となりつつあることをうかがわせたと同時に、民族感情を法律より優先する中国の一面を露呈している…