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神社の地域分布について?

以前どこかで関東では稲荷神社が多いと聞きました。 (まず、この情報が正しいかどうかについてもお聞きしたいです) そこで気になったのですが、 関東以外で神社の数と種類に露骨に偏りのある地域はありますか? また、関東の場合何が原因でそのような違いが生まれたのでしょうか。

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  • michael-m
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回答No.1

以下は様々な説を自分なりにまとめ、更に個人的意見を取り入れたものです。 まず神社の数についてですが、古来からの神社数は明治時代の合祀令により多くが合祀されてしまったので、なんともいえない状況だと思います。 全国およそ2万社を統括すると神社本庁は言っていますがあくまでもおよそだし、全てが神社本庁に所属しているわけじゃないので、小さな祠まで数えた人は恐らく居ないでしょう。 それに今もなお、神社が壊されていますからなんともいえません。 ただ、二つの事が言えます。 日本の現在に繋がる文明は西からやってきました。従って多くの神社の発祥は西であり、東の神社はその分霊です。稀に春日大社のように、東からの神様が祀られている場合があります。 更に山岳信仰によって広まった神社信仰もその多くは「山」ですから今度は月山や御岳山のように地方から広まっています。東京に尤も近いのは筑波山と三峯信仰でしょう。 関東と言っても東京近郊は家康以降に急速に、且つ意図的に開拓された場所です。それまでの集落は数えるほどでした。 西側や地方の荘園などでは移り住む事で広まっていったので、一つの地域が広く、そこに祀られる神社も少数で住みましたが、江戸に入って開拓が盛んに行なわれると多くの人が多くの地域に入ったので、一つの集落の大きさが小さく、それだけに祀られる神社も多くなったと考えられます。 それに昔は北関東辺りから北は「蝦夷」でしたからさほど神社は勧請されなかったという事もあります。 大雑把に言ってしまえば西は古い人が自ら興した村に神社を祀っているので増えなかったものの、東では村ごとにそれを勧請して祀ったので、村ごとに神社があるから多いということです。 さらに時代が下がるとご利益信仰が強くなります。開拓の地には守護として八幡や諏訪神社が、村が出来て火災などを防ぐ為に秋葉神社や三峯神社を建てる。また流行り病が起きればそのための神社を建てる等という具合に増えていったわけです。 稲荷信仰も同様にご利益信仰から生まれたもので、西では既に地元の神様に全てを一任していたのであまり増えませんでした。 江戸では女子供は外に出れませんから、講を作り、講が分霊を分けて頂いて自分の町内や村に神社を建てたというのが数の多さの原因です。 例としては東京内の富士塚や浅間神社の数を見てください。 特に稲荷は現在で言えば通販の発祥でもあるそうで、申し込めば飛脚が御神体を運んでくれたそうです。 その所為で急速にその数を増やし、町内ごとに一つの区分をされていた江戸では町内ごとに稲荷が建てられるようになりました。 その上「辻」の守りとしても稲荷が建てられるようになり、稲荷は急速にその数を増したと思われます。 近年では古くて何の神様だかわからないけどせっかくだから直そうとリニューアルした際に稲荷を勧請したという例も少なくありません。 稲荷はもはや他の神社のように神主がいて独立したものではなく村が管理していたので、明治の合祀令に影響される事もなかったと推測されます。 合祀令は氏子制度を利用した戸籍登録だという研究者が居ます。 氏子として登録する神社は当然神主が居て氏子帖を管理しなければならない。かといってあまり多くに神社が管理を任せると逆に国の手間がかかるから、合祀するなり神社に格差をつけて氏子管理(戸籍登録)する神社を分けなければならなかったというのが合祀令の実態だという事です。なので、神主不在の祠でしかない稲荷社はその対象外だったということです。 また神仏分離令の影響も受けなかったので、今でも寺の境内に稲荷社がある事が多いのです。 日本の稲荷の元といえば伏見ですが、実際には伏見と豊川に分けられるでしょう。つまり神社である伏見と寺である豊川に稲荷があるわけです。 表面だけではどちらとも判りかねる事から、神仏分離令が招いた「廃仏毀釈」の荒波を越えて稲荷は生き残ったとも考えられますし、明治以降も強いご利益進行の基づいた稲荷信仰は個人、公的の区別なく広がり続けたのでしょう。 更に都内では諸藩の武家が故郷から勧請した崇敬神社を周辺住民に開放したという事例もあります(神田周辺の秋葉神社など) 実際神社の祭事を資格のある神主がしなければならないという慣習を植えつけたのは明治以降の話ですし、定着したのは昭和に入ってからです。 それ以前は村長や地元の神社の神主の家系が独自に守ってきていました。 大まかに言うと 西では数が少なく、東では神社の数が多い。 旧地域や明治以前の一つの行政区が広い地域では神社数が少なく、小さな区域が合併した地域では神社数も多い。 古くから人が居る地域では少なく、江戸時代以降開拓された地域では多い。 珍しい例では、都内でも合祀令に抵抗した大田区などには比較的多くの神社が残されています。 それに「神社」という呼称も神社本庁に拠れば「神社本庁に所属している神社」に限られるのでそれ以外の神社は神社として数えていません。 しかし、一般的には神を祀る場所を神社と言うので、祠を含めて全て神社となります。 さらに、明治時代に政策変更に反対して分かれた神道があります。これらは仕方なく新宗教となったわけです。 実は天理教などもこの類であり、“新興宗教”とは異なります。 これを含めると現在でも“神社(かみやしろ)”の数は増え続けていることになりますから神社の数の把握は難しいといえます。

dobadoba12
質問者

お礼

合祀令、江戸幕府の成立、稲荷信仰が庶民に馴染みやすい性質だだったこと、等々の要素が絡み合ったことで、こうした偏りが生まれたんですね! >稲荷はもはや他の神社のように神主が~ ここのところもものすごく納得しました! 貴重な時間をいただきありがとうございました!!

その他の回答 (1)

回答No.2

 隅田川をわたると(松戸あたりまで)、まだ少し古いものが巷に残っています。  祠も多いです。  お百姓さんは大きい家が多くて、必ずお稲荷さんがあります。  新田を開発するとお稲荷さんが起ちます。今もつづきます。  子どもの頃、“しんでめ”という地名にもなっていない地域がありました。  広い新田が開発された地域の一部だと大きくなってからわかりました。  だからその新田の開発者の大地主さん、今も大地主さんですが、さかいめにしんでめいなりを祀りました  大きくなって、扁額が読めて、新田前稲荷とかいてありました。  友人の家は陸中の三陸です。大きな網元ですが、そういうところもお稲荷さんはあります。  私たちの家の周りは本当にせまいのですが、お稲荷さんがお庭にある家が10軒ほどあります。同じ丁目の区域です。  取り留めなくてすみません。 

dobadoba12
質問者

お礼

新田ができると稲荷神社が作られるのですか。勉強になりました!

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