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共感力は高い人が偉くて、低い人は程度が低いのか?

良く「共感力が大事」「いくら優秀でも共感力が低い人はダメ」みたいなこと見聞きするのですが、では人間の程度とは共感力で決まってしまうのでしょうか? 学歴やスポーツ能力と同じように、共感力も生まれ持ったモノや環境で決まるモノだと思いますが、それによって何か「共感力差別」みたいなモノが社会の中に形成されつつあるのを感じます。 学歴やスポーツ能力などは会っても困るモノではないですが、共感力はあればあるほどいいというモノではないように感じます。共感力がありすぎて共感力のない人とのコミュニケーションにストレスを感じたり、傷つきやすいように思います。 共感力は単なる人の個性で、共感力が高い人が偉くて、低い人は努力不足、人格が低いといった議論はおかしいと思うのですが、どうなのでしょうか?

みんなの回答

noname#132068
noname#132068
回答No.7

共感力が高い人は 極普通の考え方ができ 共感力が低い人は 自分の考えが強く個性的なだけだと思います

  • jsapp
  • ベストアンサー率29% (55/184)
回答No.6

いわゆる「アオリ文句」に 嫌気がさされておいでのご様子です。 自己啓発関連でよく見かけます。 自己啓発するときは、この場合なら  共感力=人間力 と極端な単純化をかけて考えた方が モチベーション維持が楽なのです。 A「これから自分の共感力を磨くぞ!」 B「共感力はあればあるほどいいというモノではないよ」 A「やる気、削がないでくれないか?」 ・・となってしまいますよね? もちろん、共感力=人間力 でない事は自明です。 共感力を磨こうと頑張る人のための方便(嘘)です。 ただ、本や雑誌を売りたいあまり 自分磨きを考えていない人にまで方便を押し付けてくるのは、 ちょっと問題(不愉快)だと私もよく感じます。

  • b-cool
  • ベストアンサー率30% (82/269)
回答No.5

「共感力」って言葉、私は初めて聞きましたが、偉いかどうかうんぬんは別にして、評価という観点から考えてみましょう。 自分に対して評価を下すのは他人です。 当然他人の気持ちがわからない人は、好感を得ないわけですから、高評価を受けません。 (自己中の人が批判されるのも当然でしょう) 今でも震災のニュースで、政府のお偉いさん(どっかの知事とか)が、自衛隊員の気持ちや震災の人々の気持ちを理解しているのか?と言った批判があったりしてますよね。 確かに共感力の感度が高い方が、仕事なりプライベートの人づきあいなりうまくいく方が多いです。それをコミュニケーション能力といいます。 だけど作家とか、職人とか、芸術家とか人間的な共感力が低くてもその作るものがが傑出している場合は高い評価を受けて先生と呼ばれる人もいますので、 共感力があればそれだけ社会的評価が高くなるとは限りません。逆に共感力が低く、鈍感力で社長までいくビジネスマンもけっこうしますし。 あなたのいうように、確かに共感力がありすぎて共感力のない人とのコミュニケーションにストレスを感じたり、傷つきやすい人もけっこういるみたいですね。 そういう人は精神的に強くなる考え方などの訓練が何かしら必要なように思います。 共感力って要するに、相手の立場に立って考えてみる、人の気持ちを思いやるということを頭の中で想像できるかどうかということですから、生まれつきな能力なわけがありません。 教育されて獲得されているものだと思います。成人しても健常者であればいくらでも自分の努力次第で得られる能力だと思います。 その辺の感性が不足している場合は親の教育が悪かったり、親自体がその辺に無頓着なタイプだったりするケースが多いのではないでしょうか。 さっきも出ましたが、日本で一番偉い立場の首相だって、適切な共感力を発揮できないと批判されるわけですから、共感力がないと多くの人から嫌われる。 それだけは確かなように思います。 特に日本は和をもって貴しとする国ですからね。「思いやり」は一番大事と考えています。私はその点は大賛成です。(それがなくなれば人類は死滅するしかない)それが嫌なら中国などの自己主張が強い人が幅をきかせる国へ行かれる方が生きやすいかもしれません。 求める答えになっているかよくわかりませんが書いてみました。

回答No.4

>共感力は高い人が偉くて、低い人は程度が低いのか? そんなことはないですね。人にはそれぞれ向き不向きがありますから、共感力をあまり必要としない仕事、対人関係の少ない仕事などその人にあったものが選べればいいのです。人格が低いとか、努力不足とかは論外です。仮に発達障がいなどがあった場合など努力云々ではなく、個性ととらえないといけないこともありますから、ご指摘の通りこの議論はおかしいと思います。 私は精神疾患をもっていますが、何気ない不理解と差別的発言を受けることあります。同情はされますが、すべての人に正しい理解をしてもらうことは難しいと思いますし、私も別の障がいをお持ちの方に差別的発言をしているかもしれません。相手の認識を改めることの難しさを実感します。 最低限、障がいや疾患に対して悪意的な表現や差別的発言は避けたいと心がけています。

回答No.3

人の程度は、共感力のみで決まるものでは無いと思います。 社会は、人との関わりを避けては成り立ちませんから、他人の気持ちを想像する能力は、その中で生きて行くには、大きな優位点に成り得ます。 ですが、他人の気持ちが分かったとしても、それをどう生かすかは、その人次第でしょう。 共感力は、その他の能力があってこその能力で、それのみで人の程度を決めるのは、早計であると思います。 一方で、共感力が低い人は、人との和を崩す傾向にあるので、社会の一員として生きて行くなら、共感力を高める努力は必要ですし、人格が低いと言うのは妥当だと思います。 高める努力をしなくとも許される人は、極端に高い能力が他にあって、共感力の低さを補って余りあるからでしょう。 ですが、社会からその能力を必要とされなくなれば、途端に阻害されてしまう、危うい立場の人だと思います。 よって、共感力の高低では人の価値は決まらず、その他の能力を加味するべきであるが、社会で生きて行くには必要な能力であるので、低い場合、高める努力を社会から求められる、と言った議論は正しいと思います。

回答No.2

他人に共感だけしていればすむほど単純な仕事ってあるのかな? 相手の言わんとするところを理解して、その上できちんと自分の主 張を順序だてて説明できればいいんじゃないでしょうか。 他人に迎合だけしていてどうにかなるような年功序列型の企業は これからどんどん無くなっていくのではないかと思っています。 ただし、共感力なるものがどうであれ、生まれつきで決まるものと 決め付けるのはよろしくないですね。

noname#129222
noname#129222
回答No.1

はい、あなたのおっしゃるとおりでございます。 日本人は何かにつけて比較したり格付けしたりして、レベルの低い人を見下して「ああ、自分はあんなんじゃなくて良かった」とかいいます。ご存知かと思いますが、江戸時代には穢多非人という文化が形成されていました。その名残が今も残っているのでしょう。 ですからコレは、もやは日本の文化なのです。どうにもなりません。 あきらめてください。

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