「中間種がいない」という認識がそもそも誤っています。
その理由としてまず1つめは、「種はそもそも人間が分類のために創造した概念」だからです。
つまりどんなに中間的なものであろうと、我々はそれを「分類」せねばならず、ひとたび分類したならば、それはどんなに中間的であろうと門外漢には「明確に別のモノ」として認識されてしまいます。
チンパンジーと我々人類の共通祖先から人類が「分岐」した時代から現在に至るまで、いわば全ての世代が「中間種」ですし、私たちも未来の人類へ続く「中間種」です。でも、「分類」すれば「類人猿」と「人類」のどちらかに、全て分けることができてしまうのです。というより無理にでも分けてしまうものなのです。
でも、仮にその「全ての世代を代表する個体」の化石が残っていたなら、「類人猿と人類」の境界は決して明確に引くことはできないでしょう。全ての世代で、親と子はどう見たって「同種」に分類せざるを得ないほど似ているだろうから、です。
現実のように化石と化石の間に数十万年の隔絶が存在してですら、どれをどちせに分類するかは議論の余地があり、事実しょっちゅう分類が変わっています。
進化がなく、全ての生物は現れたときから完成形だったとすれば、人類が分類にこんなに困るはずがないですよね。
「中間種」というのは、「種」という概念と真っ向から相反するものなんです。「分ける」のが種の定義ですから。
もう1つは、今現在の私たちは気が遠くなる進化史の「ほんの一瞬」を見ているから、です。
1本の巨大な木を想像してみてください。
最初は1本の幹から始まり、それがいくつかに枝分かれして、それぞれの枝がまた枝分かれして・・・ということを無数に繰り返している木です。これが生物の進化史です。
今現在私たちが見ている世界は、その木をある高さで水平にばっさりと切った「断面」を見ているわけです。
細かく枝分かれしているところは枝と枝が接近してほとんどくっついている枝同士もあるでしょうし、枝と枝の間隔が離れているところもあるでしょう。でも、私たちがこの世界を「枝」として見ている限り(生物を"分類"している限り)、枝と枝の「中間」はあり得ません。どんな「中間」が存在しても、私たち自身がそれを「枝」としているわけですから。
それと「枝と枝の中間」は存在しないですよね。枝と枝は下に辿ればどこかで「合流」します。一番下まで遡れば全ての枝は1つに辿り着くわけです。だから「中間種」というのは、「過去」にしか存在しません。今見ている枝と枝の間、を考えること自体が無意味なことです。
だから「中間種が存在しないことが進化論が間違っている証拠」などという議論は、進化論そのものも基本的な分類学の概念も理解していない議論です。
枝と枝の間に何もないことは、「これらの無数の枝が遡れば1つに辿り着く」という推測の反証にはならないでしょう?
もし中間種が存在しないことが進化論の反証だ、というのなら、1本の木を地上5mで水平に切って、「枝の枝の間には何もないから、これらの枝はそれぞれ全てが地面から直接生えてきているのだ」というようなものです。
もう1つ。
「中間種」は存在しませんが(というより中間種という言葉そのものがここで言う意味では成立しない)、「中間形」であればいくらでも、ほとんどあらゆる形態や性質について存在します。
いくつかは既に他の回答者の方が挙げておられます。
なので私はここで生息域が隣り合っているいくつものカモメの例を挙げてみます。
A,B,C,D,E・・と何種類ものカモメが、それぞれAとB、BとCというように北極を囲むように隣り合っています。
それらの生息域は微妙に重なり合っているので、AとB、BとCというように隣り合うカモメ同士は交配可能で、実際に交雑していることが確認されています。ところが、AとEは自然条件下では交雑しませんし(生息域が隔絶されているので当然ですが)、人工的に同居させても交雑しません。
これ、「交配可能か否か」を「種の定義」としてしまうと、非常に扱いに困ります。AとB、BとC、CとD、DとEは「同種」なのに、AとEは「別種」になってしまうという矛盾が生じますから。
「繁殖」という性質にも「中間形」が存在する、という事例でした。
生物はそんなにすっぱり分かれているものではないので、分類も苦労するのですよ。
言い方を変えれば、「全ての生物は中間種」ということです。
お礼
成程、良く判りました。生物の分類は人間の作為であって自然とは無関係ですね。「全ての生物は中間種」な事で理解できました。