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なぜ初詣に行くの?その疑問に答えてみた
- 初詣に行く理由について考えてみました。なぜ普段は行かないのに、初詣だけは行ってしまうのでしょうか?神に頼る自分や神様への感謝、そして日本の文化や社会の影響などが関係していると考えられます。
- 初詣は、目に見えない神に頼りたいという願いがあるからではないでしょうか。化学的な根拠はないかもしれませんが、神への信仰心や感謝の気持ちが人々を初詣に導いているのかもしれません。
- また、初詣は日本人の文化や社会の一環としても考えられます。回りの輪を乱さずに、周りと同じように初詣に参拝することが求められる場合もあります。社会的なプレッシャーや習慣を守る意識も初詣に行く理由の一つかもしれません。
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一人一人の心の中にいます。いない人もいます。それだけです
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- saya1955
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生き物は全て強い遺伝子を残す為に戦っているでしょう、色々な意味において、もし同じような力をもった者同士が戦うとすれば先が見えない状態だから不安になるでしょう、その不安が大きい側が負けるかもしれないでしょう、あまりの不安の場合逃げ出すでしょう、又、初めての試験に挑む時もおなじでしょう、彼女に恋心を初めて伝える時も結果を考えるとやはり不安でしょう、この様に人間は未来を考える心をもってしまったのです。地球の破滅する前にすべての生物をどこかに移動できる能力を持つ為の心とも言えますよね。不安が未来を築く=希望 ともいえるでしょう、でも、あまりひどく感じすぎるとウツになりますよね、人によっては、つまり、人は本能の中に楽になりたいが常に潜んでいるんでしょう。未来がすべてわかる存在を神とすれば、人間は全ての人が不安の中で生きていく事ですよね つまり、完全でない人間なのだから、神がいるいないに関係なくその様な神的な存在を心の中に潜ませて於いた方が、生きる上で都合が言いと思いますよ。現実は、それを集団化するから表面化させるから集団と違う集団の境界線ができる、そうするとその境界線争いがはじまる、会社対会社でも同じですよね。その戦いを阻止する手立ては、一人だけで孤島で暮らせるだけの能力をみにつければいいのですよね、でも現実そんな事出来ませんよね。総合的に考えると自分の心に強い神をもち、他人の前では軽いのりで、そこの人に反感をかわないような宗教心をみせられればいいのではないかな
お礼
自分の場合、遺伝子を残そうなど、これぽっちも思ってないですが。 遺伝子が1億匹残っても、自分は死ぬ。 まあこんな質問も結局あ死ぬまでの暇つぶしなんですよ。。 きっかけがあれば、何時でも爆発して死ねるんだが。 怒りのストックはまんたんで、減る事は無い。 死ぬのを待ってるだけの屑です。神がもしいるのならば、全てお見通しでしょう。 自分が自分で怖い。そして誇らしい。そして情けない。まあいろんな顔がある。
- hrf92747
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物理的にはいません。 空気だって目に見えないけど、それと同列には論じられないでしょうね。 神という人格が地球が成立した時から一貫して存在しているとしたら、世界中の紛争とか意味のない宗教論議とか、ひどい殺人事件とか、なんであるんでしょうか。人同士でなんとかしろと言っても、どうしようもない悲劇ってありますよね。それこそ神を頼るしかないようなのが。 神がいるとしても、それは人とはまったく感覚の違う存在で、地球の生命体はすべて実験台のようなものではないかと私は思います。地球は道のそばの石のようにそこにあり、観察されているだけ。だから人生のなかでどう生きるかは人の力にかかっています。運も含めてね。だけどうまくいかない時、人って誰かのせいにしたいじゃないですか。そういう時、神って便利なんですよ。 私は人の歴史、文化、哲学といった観点から神学を考えています。 人を考察する上で、神話や信仰ほど、あからさまに人間性が分かるものはありません。 逆にいえば、人が神を利用しているのです。 信仰は、人の歴史です。 神話を詳しく調べれば、人がなにを思ってどう考えるのか、とても興味深いですよ。 いってみれば自分たちの手に負えないこと、どうしようもないこと、分からないことが、「神に近いこと」です。そうやって、人は自分のさだめや運に折り合いをつけてきたのです。 宗教は良い方にも悪い方にも転びます。妄信が悲劇を産むのは歴史が証明するところですね。 だから、間違っていると思うこと、正したいと思うことは、堂々と言えばいいのです。言えないならば、言わせない社会がおかしいのです。 でも、神を信じている人は信じているのだから。 信仰は人の自由です。 精神性、内面に関しては、どこまでも個人の問題です。 私はあなたの感覚に近いところにいます。 まあ、はっきりいって信じてません。神という存在を考えだす『人』こそ面白いなあと思っているくらいなので。 信じてないなんていうと罰あたり(と思われる)だから、黙っていますが。それも処世術ですよ。恥じることはないと思います、だって不信心は、人によってはひどい侮辱と捉えられるから。余計な争いの種をまきたくないから黙っていよう、そんな感じです。無難に世間を渡っていくために、初詣が必要なら行けばいいし、必要ないならいかなくていいです。 あなたは自分の心の疑問として、「普段信じてないのに初詣に行ってしまうのはなぜか。神はいるのか」とお聞きになっていますが、 他の方もおっしゃるように、いないと思う人にはいません。いる人にはいる、それだけのこと。 だから、いないと思い決めるのなら、その道を行くしかないと私は思います。 いない神を頼るなんて矛盾しているでしょう。それこそ情けないから。 いると思うなら信心して頼ればいいし、いないと思うなら頼らなければいいんです。 まず「初詣に行く」ことがイコール神を信じるということなのかどうかから考えてみては? 質問文からは処世術のようにも聞こえるけれど、1人で行かれるようだし、要するにあなたがどう考えたいのかということですよね。 それは、書いたように、あなたご自身の問題です。 神を信じるか信じないかはあなた次第。 こと神に関しては、物理的にいるかいないかが問題ではないのです。 あなたがなにをどう考え、どう生きてなにを信じるのか、それだけです。
お礼
まるで、神は自分だと勘違いしてます。 自分は神だ。そうなんだ。おまえら祈れ。願いを叶えて・・・・・・屑思考になる。 今年一年は神は自分をどうやら無視したようだ。 来年こそ神を振り向かせるしかない。 どうせいないけど。 いないものを振り向かすなど不可能。 周りの馬鹿に神が舞い降りたと 言わせたら良い。 良い意味でも悪い意味でも神を後輪させてみせる。 まあいないんだけど。 周りが運が良かった悪かったと神をちらつかせる馬鹿具合を見るのが楽しい。
「天照大神」、「やおよろずの神々」はあなたの心にいます。あなただけでは無い、日本人ならば誰でも心に「安らぎ」として存在する、それが「神様」です。 初詣は単に「正月に今年も良い事がありますように」という、普段神社に参拝しない人でも1年の初めという「区切り」の良い時に参詣する「行事」です。とにかく「願い事」があれば「神頼み」という様に、絵馬を奉納したり、おみくじを引いたりする。学問の神、縁結びの神、商売繁盛の神・・・まさに「やおよろずの神々」です。 神に対する参詣は「正月」、「節分」、「七五三」、「安産祈願」、「新車のお祓い」など「目出度い事」や「縁起担ぎ」に関してのみ、行われるものです。 しかし中には「丑の刻参り」で、わら人形等を木に五寸釘で打ち付ける様な「呪いの儀式」にも「神」は利用されてしまう事もあります。悪い事とは言え、それも神に対する信仰から生まれたもの。 やはり神は「心の中の存在」と定義付けて良いのではないでしょうか。
お礼
今自分の心には(二十歳超えたくらいから)神はいません。 いるのであれば、願いは全て叶うはずです。 そもそも、他力本願な所がいけないのですが。
お礼
そうですか・・・・・・・回答として、重いのか軽いのか・・ そんな風に思った事はなかった。