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初詣の際に・・・

初詣の際に色々と写真を取ったのですが改めて見ると何処を取ったか分からなくなり いてもたっても居られなくなります。 自分は強迫性があり、好きな数字に合わせる(巡回行動)をもっており 神社には10回行けない事になりとても心が苦しいです。 好きじゃない数字で終わったら自分の中でいい事が無くなる・・・ 神社の取った写真を見つけるまで確認行動しなければ神様に見放される などと言った恐怖感でいっぱいです。 何か良いアドバイスありますでしょうか? 宜しくお願い致します。

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  • zebura23
  • ベストアンサー率30% (252/820)
回答No.2

私たちは多かれ少なかれ、 誰でも皆、何らかの条件付けに翻弄されて生きています。 ですからあなたの強迫性はよく理解できます。 数字を揚げておられるので数字で述べてみようと思いますが、 ある数字に対してどのような意味付けをするかは、 それぞれの文化によっても違います。 たとえば 4や9を日本語と重ねることから、日本人はこの数字を忌み嫌います。 しかしこの数字を聖なる数とする文化もあります。 13という数もそうですが、実は13という数字は最高の中の最高の数字で、 それをよく知る人々がある時代から、一般に使わせないために キリスト教と結びつけて忌み嫌うようにさせたことがわかっています。 また私たちは、 きちっと割り切れる数字や理解しやすい数を好む傾向がありますが 神の叡智の顕れである自然界はそうはなっていないのです。 たとえば海の巻貝の巻き方は0,382で、植物の葉の並び方は0,618の比率を 持ってできています。 それらの数の特徴は直線ではなく螺旋(らせん)を描きます。 つまり、1本の枝に生える葉っぱの数や花びらの花弁の数まで、すべてが この比率で創られているのです。 自然界の現象はこの1,618という比率を持って変化しており、 これは黄金比といわれるもので、フィボナッチ数と呼ばれています。 この比率は現在ではさまざまなものに適用されていて、 はがきやノートの縦横の比率だけでなく、 ほとんどのものに応用されています。 私たち人間は勝手な思い込みで自分を縛る傾向がありますが、 神の叡智による大自然は偶然ではなく、 さまざまに数を駆使し尽されて創造されていることがわかります。 そのような万物の創造主は、あなたが10回神社に行かなかったくらいで あなたを見放したりはしないのです。 あなたは神から愛されているので、こうして生きています。 今度から数字を考えるときは、 少数点を入れた数字についても気にしてみてください。 神がそうされているように。

kina_pipi
質問者

お礼

詳しい情報有難うございます。 小数点の数字ですね。

その他の回答 (1)

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.1

>初詣の際に色々と写真を取ったのですが改めて見ると何処を取ったか分からなくなり、いてもたっても居られなくなります。 初詣ではないですが、私は神社めぐりが趣味なので一日に何社も回ります。あちこち撮っているとどこの神社か分らなくなったり、小さな神社ではどこの神社を撮ったのか分らなくなることもしばしばありました。 その結果同じ神社に何度も足を運ぶことになったりもします。 最近は広い範囲と目標物を取るようにしています。例えば手水舎を撮る場合、鳥居の外から見える風景を撮り、鳥居と手水舎を含む風景を撮り、最後に手水舎だけを撮れば、手水舎がどこにあるか分ります。人物でも背景に分りやすいランドマークを入れ、そのランドマークがどこにあるか分る風景を撮ればどこで撮影したかが分ります。 有名な神社であれば、サイトを持っていて境内案内が掲載されている場合もあるし、誰かが位置関係の分る写真をサイトに載せていることもあります。 また、社務所で神社の案内があれば必ず頂いて帰ります。 数字に関しては正直どうしようもないでしょ。 私もいろいろ強迫観念を持っていますけど、自分で変えなければ解決などしません。 ただ自分なりに言える事は、正しい知識がないと正しい判断ができないということです。 世間で言われている事や自称専門家、事情通などの言っていることはほとんどが嘘ばっかりです。 正しい知識を得ようとしていると、常識が常識でないことが理解できます。 すると多くのことの見る目が変わります。 いい事って何だろう、何が真の幸せなんだろう。そこから始まり、そこに至ります。 『神は否とは言わない』神は人間が何を言おうと、何を望もうとダメとは言いません。 でもその結果は実にシビアです。自分が為した事が自分に帰るのです。 神が見放すのではありません、見放されたと思った瞬間、自分が神を見放すのです。神の手を自分が振り払ってしまうのです。 神はバチを与えますが、バツは与えません。バツは自分自身が招くだけです。 バチとは、むかし三味線の師匠が弟子に対し、間違えると手を三味線のバチで叩いた事に由来します。 師匠は単なる金づるに対してはバチは与えません、煽てていい気持ちにさせ金を引き出します。 師匠は見込みのない弟子にバチは与えません。さっさと破門するだけです。 師匠がバチを与えるのは見込みのある弟子、意気込みのある弟子だけです。 だからバチなどいくら受けても辛くはありません。逆に間違っても何も言わなくなったとき、それこそが神が見放した瞬間です。だからバチを受けたら「有難うございます」と感謝します。 神には一生懸命すがるしかないのです。努力しない自分は自分自身でもイヤです。だから見放されるかもなどと考える以前にもがき続けるしかないんです。

kina_pipi
質問者

補足

回答有難うございます。 自分と似た強迫性がおりびっくりしました。 確かに数字に関しては自分自身を変えないと無理ですよね。 初詣でと言うことでちょっと神経質になっていて この1年無事に過ごせるのかが不安になってしまうのです。

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