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人を疑ってしまう…
今、色んな事に自信がなくて… 自信がない分、人に対して疑う気持ちが出てきます。 自分がイヤな人間になりそうで… 既に自分がどうして良いのか? 見失いそうになっています… 早く安心がほしい 優しさがほしい などと、思ってしまいます。 人を疑う気持ちが なくなるには、どうしたらいいでしょうか?
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疑うことだけじゃなく、根拠があることかどうかも考えてください。 人を疑うのは簡単です、自分じゃないのですから、何を考えているかが分かりません。どんな行動をするか予測出来ません。 でも、疑いが生じたとき、どこか一部分しか見ていないことが多いです。それは自分の立場からの見える部分だけ。 相手の立場に想像を働かせてみましょう。「どうしてそう感じたのか」「どうしてそんな風に思ったのか」は両面を見てみないと正しい判断は出来ません。 疑うものだと思います、誰でも人のことは良くわからないから。 無くなるものじゃなく、考え次第です。物事を自分の側と相手側の二面を見ることを意識する。それだけでも今抱えている疑いの数が半分に減ると思います。
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私の夫がいつも言っていました 子供は親を裏切る為に生まれて来ると思えって。 それまで素直に言う事を聞いてくれていた子供が、ある日突然親に刃を剥き、親の期待に背く日がやって来ます。 いわゆる反抗期ですね。 これは親にとって何よりも辛く悲しい裏切りであり、親としての自信なんて吹っ飛んでしまいます。 掛けて来た愛情が大きければ大きいほど苦悩も大きいものです。 母親としての全てに自信を失くし落胆します。 自分は母親としてどうして良いのか、子供の信頼を取り戻す術が無いまま、ただ子供を信じてその場をやり過ごすしかありません。 でも現象に惑わされず子供を信じて待てば、必ず信頼を取り戻せる日が来ます。 親の信じる態度次第で、反抗期は長引きもするし早くも終わります。 人はみな人に信頼され愛されたいものです。 それは老若男女全てに言える事です。 でも人を疑う気持ちを持っていると、人からは信頼されません。 決して人が貴方を裏切っているからではないです。 どんな時も貴方を信じているよと発信していれば、相手も必ずこちらを信頼してくれます。 もし思うように行かなければ、その相手とは相性が合わないのです。 この時は努力は逆効果になるので、そっと離れた方が良いです。 人間は確実に自分が一番大切です。 自分を守る為には人を裏切ります。 自分を守ることで精一杯で生きています。 だから人に多くを求め過ぎないことです。 人を信頼しなければ信頼は得られないし、人を愛さなければ愛は得られません。 人は自分の合せ鏡だと知ると、生きるのが楽になりますよ。
おはようございます。 nonchieseさんの >どうしたらいいでしょうか? に対して即効性のある具体策は回答できかねますが、 『少しでも何かのヒント』になればと思い書き込みさせて頂きます。 『自信、疑う』…という二つのキーワードがありますね。 自信それは、『自らを信じる』事ですね。 そして『疑う』とは『信じていない状態』だと思います。 その二つの『信じる』と言う事は、何を持ってそうなるのでしょうか…? それは『知る』と言う事だと思います。 しかし『ただ知る』のではなく、『全的に且つ正確に知る』と言う事です。 例えば、何かを部分的に『知っている』と言う事は『知らない部分がある』のですから、 結局は『誤解、知らない』のです。 知らないモノを『信じる事』は生理的に無理な事です。 『自信が無い』のはまだまだ自分自身の『未知なる可能性』や、 『気づいていない魅力』を知っていないから…。 また、『疑ってしまう』のは、やはり『まだ知らない部分がある』からでしょう。 その2つの問題点は、注意深く観察、洞察する事で日々刻々、 『新しい発見(気づき)』が生まれ、より知る事ができ、 信じる度合いが深まっていくとは思いませんか? ですから、二つのキーワードは『注意深く生きる事』によって、 日々のなかで『消えつつある過程』なのではないでしょうか。 それでは、失礼いたします。
お礼
ありがとうございます 注意深く生きること。この言葉が響きます。
- まさしろ(@masasiro)
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どんな人間も自分より愛おしいものは見つける事は出来ません。絶対に自分が一番可愛いのです。人を愛す前にまずしっかりご自身を愛さなければなりませんね。そうやって愛を体験されてご自分が大事なのと同じようにお相手を思う事へ繋げて行く事がお互いを思い合う関係へと導いてくれます。 では、愛とはなんでしょう? 愛とはひたすら「与える」事です。 与える事を「喜び」、喜びで心を満たして「恐れ」を消していく事です。 与えるとは何かを「する」という意味です。 誰か特別な人にだけに「する」事が愛ではなく、自分がする全ての行動を愛と言い換える事が出来ます。食事をしたり、勉強をしたり、睡眠も、植物への水やりも、トイレの後のお尻拭きでさえ「愛」という言葉に置き換える事が出来ます。お尻を清潔に保つ為にする事ですが、お尻への愛が私をそうさせていたのです。 ちなみにその逆に依存があります。 依存とは「自らの為に与える」事です。 自分の思いを相手にべったりくっ付けて、素直でありのままの相手の姿を見ない事です。 見返りを求めて、全てをむなしくする事です。 「愛」はただひたすら「する」事です。仏教では「慈悲」です。 「依存」は「自らの見返りを求める為にする」事だと思います。仏教では「渇愛」です。 どんな事でも何かをする時は、見返りを求めなければ「愛」に変わると言う事を理解し、意識を持つ事で、とても愛情深い人間になることが出来ますので、是非お勧めです! ある盲ろう者の弁論大会でこのような事を聞きました。 「絆」 絆とはなんだろう? 目の見えない、音の世界で生きる僕らはまず、音の響きで言葉を感じ取る。(盲ろう者の世界はひらがなの世界なのです。漢字ももちろんありますが) きずな、きずな。きず・な。「傷名」傷の名前? 人は人と付き合う為に、どうしても相手を傷つけてしまう。 嘘でも正直でも、相手への言葉は時にグサッと相手を傷つける。 ある時、友人に正直に辛らつな反省点を指摘した。 相手は凄く怒ったけど、後になってお前の言う通りだと仲直り出来た。 相手に傷をつけると、もっと仲良くなれるの? 絆とは結ぶもの。糸で結ぶもの。糸に必要な物は「針」だ。 針に糸を通し、自分と相手とを縫い合せる。 それは痛みを伴うけど。 絆とはそういうものだと思う。 >早く安心がほしい 優しさがほしい 安心を得る為には相手と自分とをしっかりと結ばなくてはいけませんね。しかもそれは痛みを伴うものなのです。結ぶのは針の力なのですから。優しさとはその痛みを受け入れる事ではないでしょうか? どうしても人は人を傷つけてしまうものです。生きるのは痛みが伴います。しかし、痛みがあるから人は自分を保っていられるのではないでしょうか? 痛かった事はせず、痛くない事を好んでするのですから、痛みはいつも自身と共にあって自分を導いてくれていた大切な相棒ですよ。 そういう事に気がつくと、痛みはとても大切な経験になります。大切な他者との絆を結ぶには痛みが伴うのですから、痛みを「絆」、あるいは「ご縁」と言い換える事も出来ますね。 他人を疑うのは他人が原因ではありません。 ご自身を疑っていらっしゃるから、他人を信じられないのです。 まずはご自身の神秘性にお気付きになって、それを大切にしてしっかり愛して下さいね。ご自身を救えるのはやはりご自身だけなのですから。 ご参考になれたら幸いです(*^_^*)
お礼
ありがとうございますo(^-^)o 自分に自信がないから、相手も信用できず… 依存なのか? 依存しているから不安になるのか? それが不安に… でも自分を愛することから始めます。
お礼
勉強になりました。人を愛する気持ちはあって、愛しているし、色んな意味でやりきっています。 もう何もでてこない位に… 多分。自分の気持ちに疲れてきたのかも…