文章が長いので、次のようにします。
1)トリビアが、私たちに、へーと云わせた。
2)トリビアが、私たちを、へーと云わせた。
この二つの表現が成立するが、しかし、2)の「を」の場合は、違和感を感じ、文法的に間違っているのではないかと感じるという質問だと理解します。
そのための説明として、
3)トリビアが、私たちを、感心させた。
こういう例文を造っておられる訳です。そして、この場合だと、
4)トリビアが、私たちに、感心させた。
このような表現は確かにおかしく感じられます。
それは、「感心させる」というのは、「感嘆させる」と同じような動詞で、使役動詞であり、目的語が一つ(誰を・何を)の場合は、「感心させた相手・対象」つまり、この場合「私たちを・美しさを」となるのですが、目的語が二つ(何を・誰に)の場合、「誰に、何を」という風に、「を」と「に」の使い分けが起こるのです。
5)トリビアが、私たちに、美しさを、感心させた(感じさせた)。
「感心させた」という動詞では、何か不自然さが残ります。この場合、
6)トリビアが、私たちを、その美しさで、感心させた。
こういう「で」を使った表現が妥当に思えます。これは、「感心させる」という動詞の用法・意味からして、こういう表現が妥当・自然と思えるのです。「感じさせる」だと、5)の文章で自然に感じます。
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そこで、2)の文章の「私たちを、へーと云わせた」が何故、不自然な感じをもたらすのか、説明します。私見ですが。
これは、「へーと云わせる」とは、どういうことなのか、という解釈・理解の問題になります。「へーと云わせる(へぇーと云わせる)」は、単一の動詞(感嘆させる、など)ではないのです。これ自身で、文章であり、「へー+と+云わせる」という構造で、「へー」という言葉が、格助詞「と」を伴って、「云わせる・云う」に続いて文章を作っているものです。
「へーと云わせる」の格助詞「と」は、「きっぱりと云った」の「と」と用法的に同じだとも云えるのですが、他方、違う用法だとも云えるのです。つまり、この格助詞「と」は二重の意味解釈ができるのです。
「きっぱりと」の場合は、「云った」時の状態が、「断定的な言い切り」だったということです。文字通り、「『きっぱり』という言葉を言った」のではありません。
ところが、「へーと云わせる」の場合は、「へーと」というのが、【1】「感心している状態」の「副詞的な修飾」とも取れれば、【2】まさに、感心して「『へー』と云った」とも取れるのです。
【1】の場合だと、「へーと云わせた」が、一つの動詞のようにも考えられるのです。そこで、「2)トリビアが、私たちを、へーと云わせた(=感嘆させた)」という表現が成立します。
しかし、【2】の場合の解釈、または読みとりだと、まさに、「『へー』と云わせた」のです。そこで、「1)トリビアが、私たちに、『へー』と云わせた」という表現が成立します。
『へー』がもっと長い言葉だと、この違いが、もっとはっきりします。例えば、『どういうことだ』を考えると、
「1a)トリビアが、私たちに、『どういうことだ』と云わせた。」……これは、トリビアが何か不審や驚きがあり、「どういうことだ?!」と云わせているので、自然なのです。しかし、
2a)トリビアが、私たちを、『どういうことだと云わせた』。……これは、文法的におかしいです。(「私たちをして、『どういうことだ』と云わせた」でなければなりません)。
「へーと云わせる」という表現が、これで一つの動詞、例えば「感嘆させる」というようなものとして使われている場合、「私たちを」は、不自然ではないのです。しかし、これを、「『へー』と云わせる」という表現だと読むと、「私たちを、『へー』と云わせる」ではなく、「私たちに、『へー』と云わせる」のはずだということになり、「私たちを、へーと云わせる」は、何か不自然に感じられるのです。
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追記)「へーと云わせる」は、二つの用法の中間にあって、両方の解釈が可能なので、混乱してきます。同じような表現で、慣用となっている表現と、慣用になっていない表現を比較するとはっきりします。
「トリビアは、彼女を、きゃーと云わせた」は、「彼女に」では変です。
「トリビアは、彼女に、これはどういうことなのと云わせた」は、「彼女を」ではおかしいです。
「きゃーと云わせる」は、これで慣用的に、一つの動詞に対応するように理解されるのです(「驚かせた」というような動詞に対応します)。しかし、「これはどういうことなのと云わせる」は、「これはどういうことなの+と+云わせる」で、まさに、「これはどういうことなの」と云わせるのです。
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「ヲ使役」と「ニ使役」の区別は、これは、「使役」の場合、西欧語では、一般に、「対格」を名詞が取るに対し、日本語では、自動詞の場合、「Aは、Bに、~させる」と「Aは、Bを、~させる」の二つの表現があり、「……を」を「対格」、「……に」を与格として理解した場合、訳が分からないので、こういう表現が日本語にあるという説明で、一種の方便的な説明だと思います。
この「トリビア」の例では、「Aは、Bを、~とさせる」「Aは、Bに、~とさせる」で、「と」という格助詞の用法と意味を無視して、この表現の理由は理解できないのであり、「と」の用法への言及なしで、説明が完結しているのはおかしいのです。
実際、「母親が、子供に、散歩に行かせる」という表現は、日本語として、奇妙に響きます。非日本語スピーカーを納得させるための便宜的な(多分、用法説明のための)例文だからだと思います。
「歩く」「努力する」は、自動詞です。しかし、「母親が、子供に、歩かせる」とか「母親が、子供を、努力させる」とは、日本語としておかしいです。
反対に、「母親が、子供を、歩かせる」「母親が、子供に、努力させる」は、おかしくありません。この例からも、「ヲ使役」とか「ニ使役」は、動詞ごとで、使い分けがあるのを、簡略文法として、「ヲもニも可能」と、とりあえず説明しているのだということになります。
(「子供に歩かせる他方、母親は自動車を使って駅まで行った」という表現は、勝手な母親がいるなとは思っても、何か事情があるかも知れず、文章としてはおかしくありません。「ニ使役」と「ヲ使役」は、状況の「意味モード」で決まって来るので、これは、与格か対格か、というような考えでは、理解が難しいので、簡単に、こういう説明があるのだと思います)。
お礼
とても詳しい御説明をありがとうございました。 『を』についてのナゾがはっきりと解けました。 私の質問文では >「どんなトリビアが 私達を へぇ~と > 言わせてくれるんでしょうか」 と、『へぇ~と』と『言わせて…』の間で改行しています。 つまり私は質問をした時点では、 >【2】まさに、感心して「『へー』と云った」 と、捉えていたようです。 『へぇ~と』を副詞的な修飾だと捉えると 【2】のような解釈もあることに気づけません。 他の方の御説明で文法的には正しいことが理解できたのに 変な違和感が拭いきれなかったのは このせいだったんですね! >『へー』がもっと長い言葉だと、この違いが、もっとはっきりします。例えば、『どういうことだ』を考えると… この説明がとてもわかりやすかったです。