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「トリビアの泉」(国語の文法について)
今日初めて「トリビアの泉」をみました。 そこでタモリさんが冒頭、 「どんなトリビアが 私達を へぇ~と 言わせてくれるんでしょうか」 と、言っていました。 『私達』につく助詞が『を』ではとても違和感を感じませんか? これが仮に『に』だったらしっくりきます。 また、 「どんなトリビアが 私達を 感心させてくれるんでしょうか」 でもしっくりきますよね? 助詞『を』と『に』の違いはなんでしょうか? タモリさんの日本語は間違っていないんでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします。
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文章が長いので、次のようにします。 1)トリビアが、私たちに、へーと云わせた。 2)トリビアが、私たちを、へーと云わせた。 この二つの表現が成立するが、しかし、2)の「を」の場合は、違和感を感じ、文法的に間違っているのではないかと感じるという質問だと理解します。 そのための説明として、 3)トリビアが、私たちを、感心させた。 こういう例文を造っておられる訳です。そして、この場合だと、 4)トリビアが、私たちに、感心させた。 このような表現は確かにおかしく感じられます。 それは、「感心させる」というのは、「感嘆させる」と同じような動詞で、使役動詞であり、目的語が一つ(誰を・何を)の場合は、「感心させた相手・対象」つまり、この場合「私たちを・美しさを」となるのですが、目的語が二つ(何を・誰に)の場合、「誰に、何を」という風に、「を」と「に」の使い分けが起こるのです。 5)トリビアが、私たちに、美しさを、感心させた(感じさせた)。 「感心させた」という動詞では、何か不自然さが残ります。この場合、 6)トリビアが、私たちを、その美しさで、感心させた。 こういう「で」を使った表現が妥当に思えます。これは、「感心させる」という動詞の用法・意味からして、こういう表現が妥当・自然と思えるのです。「感じさせる」だと、5)の文章で自然に感じます。 ---------------------------- そこで、2)の文章の「私たちを、へーと云わせた」が何故、不自然な感じをもたらすのか、説明します。私見ですが。 これは、「へーと云わせる」とは、どういうことなのか、という解釈・理解の問題になります。「へーと云わせる(へぇーと云わせる)」は、単一の動詞(感嘆させる、など)ではないのです。これ自身で、文章であり、「へー+と+云わせる」という構造で、「へー」という言葉が、格助詞「と」を伴って、「云わせる・云う」に続いて文章を作っているものです。 「へーと云わせる」の格助詞「と」は、「きっぱりと云った」の「と」と用法的に同じだとも云えるのですが、他方、違う用法だとも云えるのです。つまり、この格助詞「と」は二重の意味解釈ができるのです。 「きっぱりと」の場合は、「云った」時の状態が、「断定的な言い切り」だったということです。文字通り、「『きっぱり』という言葉を言った」のではありません。 ところが、「へーと云わせる」の場合は、「へーと」というのが、【1】「感心している状態」の「副詞的な修飾」とも取れれば、【2】まさに、感心して「『へー』と云った」とも取れるのです。 【1】の場合だと、「へーと云わせた」が、一つの動詞のようにも考えられるのです。そこで、「2)トリビアが、私たちを、へーと云わせた(=感嘆させた)」という表現が成立します。 しかし、【2】の場合の解釈、または読みとりだと、まさに、「『へー』と云わせた」のです。そこで、「1)トリビアが、私たちに、『へー』と云わせた」という表現が成立します。 『へー』がもっと長い言葉だと、この違いが、もっとはっきりします。例えば、『どういうことだ』を考えると、 「1a)トリビアが、私たちに、『どういうことだ』と云わせた。」……これは、トリビアが何か不審や驚きがあり、「どういうことだ?!」と云わせているので、自然なのです。しかし、 2a)トリビアが、私たちを、『どういうことだと云わせた』。……これは、文法的におかしいです。(「私たちをして、『どういうことだ』と云わせた」でなければなりません)。 「へーと云わせる」という表現が、これで一つの動詞、例えば「感嘆させる」というようなものとして使われている場合、「私たちを」は、不自然ではないのです。しかし、これを、「『へー』と云わせる」という表現だと読むと、「私たちを、『へー』と云わせる」ではなく、「私たちに、『へー』と云わせる」のはずだということになり、「私たちを、へーと云わせる」は、何か不自然に感じられるのです。 ---------------------------- 追記)「へーと云わせる」は、二つの用法の中間にあって、両方の解釈が可能なので、混乱してきます。同じような表現で、慣用となっている表現と、慣用になっていない表現を比較するとはっきりします。 「トリビアは、彼女を、きゃーと云わせた」は、「彼女に」では変です。 「トリビアは、彼女に、これはどういうことなのと云わせた」は、「彼女を」ではおかしいです。 「きゃーと云わせる」は、これで慣用的に、一つの動詞に対応するように理解されるのです(「驚かせた」というような動詞に対応します)。しかし、「これはどういうことなのと云わせる」は、「これはどういうことなの+と+云わせる」で、まさに、「これはどういうことなの」と云わせるのです。 ---------------------------- 「ヲ使役」と「ニ使役」の区別は、これは、「使役」の場合、西欧語では、一般に、「対格」を名詞が取るに対し、日本語では、自動詞の場合、「Aは、Bに、~させる」と「Aは、Bを、~させる」の二つの表現があり、「……を」を「対格」、「……に」を与格として理解した場合、訳が分からないので、こういう表現が日本語にあるという説明で、一種の方便的な説明だと思います。 この「トリビア」の例では、「Aは、Bを、~とさせる」「Aは、Bに、~とさせる」で、「と」という格助詞の用法と意味を無視して、この表現の理由は理解できないのであり、「と」の用法への言及なしで、説明が完結しているのはおかしいのです。 実際、「母親が、子供に、散歩に行かせる」という表現は、日本語として、奇妙に響きます。非日本語スピーカーを納得させるための便宜的な(多分、用法説明のための)例文だからだと思います。 「歩く」「努力する」は、自動詞です。しかし、「母親が、子供に、歩かせる」とか「母親が、子供を、努力させる」とは、日本語としておかしいです。 反対に、「母親が、子供を、歩かせる」「母親が、子供に、努力させる」は、おかしくありません。この例からも、「ヲ使役」とか「ニ使役」は、動詞ごとで、使い分けがあるのを、簡略文法として、「ヲもニも可能」と、とりあえず説明しているのだということになります。 (「子供に歩かせる他方、母親は自動車を使って駅まで行った」という表現は、勝手な母親がいるなとは思っても、何か事情があるかも知れず、文章としてはおかしくありません。「ニ使役」と「ヲ使役」は、状況の「意味モード」で決まって来るので、これは、与格か対格か、というような考えでは、理解が難しいので、簡単に、こういう説明があるのだと思います)。
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- tttt23
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文法(ただし日本人が学校で習った文法ではなく、外国人に日本語を教えるための文法)的には「ヲ使役文」と「ニ使役文」として説明されています。 使役の基本形は「A が B に C を D させる」です。 例えば「母親が子供に服を着せる」です。 使役形になる動詞が他動詞の場合 B には助詞「に」が付きます。つまり「ニ使役文」です。 「母親が子供を服を着せる」とは言いません。 これが自動詞の場合は「ヲ使役文」、「ニ使役文」の両方が使われます。例えば、 「母親が子供に散歩に行かせる」、 「母親が子供を散歩に行かせる」です。 タモリさんの冒頭の言葉の「へぇ~と言う」は自動詞なので「ヲ使役文」、「ニ使役文」の両方が使えます。つまり、 「どんなトリビアが私達にへぇ~と言わせてくれるんでしょうか」、 「どんなトリビアが私達をへぇ~と言わせてくれるんでしょうか」 どちらでもいいことになります。 ただし自動詞であってもどちらかしか取らないという例外もあるようですがこれ以上のことは分かりません。
お礼
外国の方にはこんなふうにして日本語を教えるんですね。 私達が英語のグラマーの授業で四苦八苦したように 外国の方も日本語のグラマーで苦しんでいるんでしょうね。 でも、日本人にはとてもわかりやすい御説明でした。 どうもありがとうございました。
- madoushi
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タモリさんの日本語は正しいと思います。「~させる」という受身の表現では、「○に△を~させる」が通常の言い方になります。質問者の方の表現をお借りするならば、「どんなトリビアが私たちに感動をもたらしてくれるのでしょうか。」のようになると思います。助詞「を」は英語でいう第3文型の直接目的語(人・物両方OKです)や第4文型の間接目的語(主に人を表わします)に付きますが、ただし日本語にはこの文型の概念はないので、「~させる」の直前に来る名詞(目的語)には助詞「を」が付くと考えてよいと思います。
お礼
使役の文章では、『を』を用いるほうが より一般的なんですね。 よくわかりました。 ご回答ありがとうございました。
- Ganbatteruyo
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Gです。 では、チョットやってみましょうか、 どんなトリビアが、をWhat kind of triviaとして、 へぇ~と言わせる=impressとして、 >どんなトリビアが 私達を へぇ~と言わせてくれるんでしょうか I'm wondering what kind of trivia is Tamori going to use to make us impressed.として、私たち「を」関心させます、と解釈しました. >どんなトリビアが 私達に へぇ~と言わせてくれるんでしょうか I'm wondering what kind of trivia is Tamori going to use to give impressive enjoyment to us.と言う事で、へぇ~と喜ばしてくれるんでしょうか、と考えます. つまり、私たち「に」その喜びをくれるのでしょうか、と解釈しました. かえって分かりにくくしてしまったかな.
お礼
再びのご回答ありがとうございました。 英語圏の方が >私たち「を」関心させます、 >私たち「に」その喜びをくれるのでしょうか、 と解釈されるということで 助詞一文字の微妙なニュアンスの違いが 英訳の仕方をこんなに変えるということを とても興味深く拝読いたしました。 ところが悲しいことに、せっかく英訳していただいた英文がが よくわからなくて・・・ごめんなさい。 あした早速、留学経験のある友人に Gさんの英文を見てもらおうと思います。
簡単に言うと、 「を」だと 私達が自然に「へぇ~」って言うかんじ。 「に」だと トリビアが私達に「へぇ~」って言わせるかんじ。 「を」は目的で「に」は方向だから。 自信ないですけど。
お礼
簡単な御説明ありがとうございました。 『を』と『に』に対するurpkさんのかんじ方 なんですね。 文法的にはどちらでも構わないようですので タモリさんの意図がより適格に伝わる助詞を 選べばいいみたいですね。 urpkさんのかんじでいうと トリビアの泉というのは 視聴者が自然に「へぇ~」と言ってしまうような そんな番組 ということになるんでしょうか。
こんばんは。#1で回答した者です。 自分も文法が専門な訳ではないので、うまく説明できるか分かりませんが…。 質問者さんが疑問に思われているのは 「を」のあとに来る言葉が「感心させる」だとしっくり来るのに 「へぇ~と言わせる」だと「ん??」となる、という事だと思いますが これは「を」と「に」の区別よりも、「言わせる」と「感心させる」の違いに因る所が 大きいと思います。 「言わせる」は単独だと意味が通らなくなってしまう、つまり、 「AがBを感心させる」は意味が通りますが、 「AがBを言わせる」だと意味が通りません。 これは「言わせる」という言葉(言うという言葉)が それだけでは事実を表すのに不十分であるからです。 「~と言った」の「~」が不可欠です。 同じように、 「AがBを働かせる」 「AがBを遊ばせる」 などは意味が通りますが 「AがBを聞かせる」 「AがBを気づかせる」 などは意味が通りません。 これは自動詞と他動詞の違いで、元来他動詞は 目的語をとりませんが自動詞は目的語を必要とするという 性質の違いがあります。 そこで、御質問の文章を見ますと、「言わせる」の前に 目的語が入っているのでOKとなります。 また、「を」と「に」の違いですが、 「Bにへぇ~と言わせる」 では「「へぇ~」と言わされたのはBである」 とBを強調する文に、 「Bをへぇ~と言わせる」 では「Bを「へぇ~」と言わせた」という 「へぇ~と言わせた事を強調する文になります(ここら辺うろ覚えで自信ありません)。 拙い説明で申し訳ありませんm(__)m
こんばんは。#1で回答した者です。 自分も文法が専門な訳ではないので、うまく説明できるか分かりませんが…。 質問者さんが疑問に思われているのは 「を」のあとに来る言葉が「感心させる」だとしっくり来るのに 「へぇ~と言わせる」だと「ん??」となる、という事だと思いますが これは「を」と「に」の区別よりも、「言わせる」と「感心させる」の違いに因る所が 大きいと思います。 「言わせる」は単独だと意味が通らなくなってしまう、つまり、 「AがBを感心させる」は意味が通りますが、 「AがBを言わせる」だと意味が通りません。 これは「言わせる」という言葉(言うという言葉)が それだけでは事実を表すのに不十分であるからです。 「~と言った」の「~」が不可欠です。 同じように、 「AがBを働かせる」 「AがBを遊ばせる」 などは意味が通りますが 「AがBを聞かせる」 「AがBを気づかせる」 などは意味が通りません。 これは自動詞と他動詞の違いで、元来他動詞は 目的語をとりませんが自動詞は目的語を必要とするという 性質の違いがあります。 そこで、御質問の文章を見ますと、「言わせる」の前に 目的語が入っているのでOKとなります。 また、「を」と「に」の違いですが、 「Bにへぇ~と言わせる」 では「「へぇ~」と言わされたのはBである」 とBを強調する文に、 「Bをへぇ~と言わせる」 では「Bを「へぇ~」と言わせた」という 「へぇ~と言わせた事を強調する文になります(ここら辺うろ覚えで自信ありません)。 拙い説明で申し訳ありませんm(__)m
お礼
再びの御回答ありがとうございました。 わたしの違和感は自動詞と他動詞の違いからきていたんですね。 『を』と『に』の違いもよくわかりました。 これで胸のつかえがすっととれました。 とても納得のいく説明でした!
- Ganbatteruyo
- ベストアンサー率63% (4601/7273)
アメリカに35年ほど住んでいる者です。 日本語はうまくないですけど、私なりに感じた事を書かせてくださいね. これを英語になおそうと思うと、理由がわかると思います. つまり、「を」を使うと、させて(言わせて/感心させて)、の目的語を作る. そして、「に」は、私たちにくれる、の目的語を作る、 ですから、言う・読む人が、どちらを強調して取るかで、「を」にするか「に」にするカで代わってくると思います. 外人サンだったら、私と同じように感じると思います. <g> これでいいでしょうか。 分からない点がありましたら、補足質問してください。
補足
遠くアメリカからのご回答どうもありがとうございました。 英語から日本語へのアプローチなんてとってもおもしろいです! 目からうろこが落ちた気がします。 でも、私は英語がニガテで・・・ 「トリビアが 私達を へぇ~と言わせる」 「トリビアが 私達に へぇ~と言わせる」 をそれぞれ英訳するとどうなるんでしょうか? それを教えていただけると おっしゃっている『を』と『に』の違いが よりわかると思います。 よろしくお願いします。
たもりの言葉に違和感は感じません。 日本語の文法用語でうまく説明出来ませんが、目的を取る動詞(他動詞)には一般に目的語に助詞「を」をつけますね。問題は「に」の使用の方だと思います。 「に」は動作の終わるところを指す場合が多く、方向を示す「へ」と対比されます。 学校へ行く(行く方向に重点がある) 学校に行く(行く先、目的地に重点がある) 例文の場合、「私たち」を目的語と捉えれば「を」が正しいことになります。一方「言わせる」という動詞の動作が終わるところ(及ぼすところ)は同じように「私たち」ですから「に」でも良いことになると思います。 母親が私を驚かせた。 母親が私にへ~と言わせた。 犬が猫を押さえ込んだ 犬が猫にじゃれついた。
お礼
『を』と『に』の詳しい使い方をどうもありがとうございました。 また『に』と『へ』の違いは初めて知りましたが どちらもとてもよく理解できました。 助詞って、微妙なニュアンスを含んで選び方が難しいけれど より的確で意図が伝わりやすいものを選ぶということは とてもおしゃれですてきなことなのかなぁと感じました。
こんばんは。 文法的には 、間違っていません。 主語は「トリビア」 述語は「言わせる」 「言わせる」のは「トリビア」で、対象は「私達」です。 「言わせる」は使役です。 つまり 「AがBをCさせる」と言う形になるので、「を」を使うのはおかしくありません。 他の言葉を当てはめれてみれば分かると思います。 「に」でも間違っていないと思います。
補足
ご回答ありがとうございました。 文法的に間違っていないことはよくわかりました。 そこで補足なのですが・・・ 「AがBをCさせる」という使役の形はわかります。 「トリビアが 私達を 感心させる」なら私にもしっくりくるんですよね。 ところが 「トリビアが 私達を へぇ~と言わせる」だと なんだかしっくりきません。 文法的に正しいのだとすれば この違和感は何かしら?ということで 『を』と『に』の違いにまで 言及していただけると有り難いと思います。 よろしくお願いします。
お礼
とても詳しい御説明をありがとうございました。 『を』についてのナゾがはっきりと解けました。 私の質問文では >「どんなトリビアが 私達を へぇ~と > 言わせてくれるんでしょうか」 と、『へぇ~と』と『言わせて…』の間で改行しています。 つまり私は質問をした時点では、 >【2】まさに、感心して「『へー』と云った」 と、捉えていたようです。 『へぇ~と』を副詞的な修飾だと捉えると 【2】のような解釈もあることに気づけません。 他の方の御説明で文法的には正しいことが理解できたのに 変な違和感が拭いきれなかったのは このせいだったんですね! >『へー』がもっと長い言葉だと、この違いが、もっとはっきりします。例えば、『どういうことだ』を考えると… この説明がとてもわかりやすかったです。