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プライドが高すぎると生き辛いですが

プライドが高すぎると生き辛いですが 生きるためには自尊心も大切ですよね? 自尊心を保てるという術といいますか 自尊心をたもつために意識して やっていることは何かありますか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • ueue3131
  • ベストアンサー率51% (208/405)
回答No.5

 自分の場合、自尊心を保とうと、努力をしたことはないと思います。 ただ、自尊感情(=自己有用感)を感じることができる時って、どんな時かな?と 考えたとき、答えはこうでした。   人から 感謝されたとき 人から 信頼されているなあと 実感できたとき 人から 必要とされているなあと 思えたとき …です。 つまり、自尊感情って 人からの「評価」によって 感じることが多いように思います。 考えると 確かに 人に感謝してもらうと 嬉しいので できる親切を 進んでしたり 信頼されるように 悪口や無責任な噂を流さないようにしたり、 人に必要とされるような 仕事(家事や子育ても含め)を 頑張ったり…という 地味な努力をしていることが 私が自己有用感を感じるために 役立っていると思います。 ただ、普段はそういう「地味な努力」を 周りは認めてくれて 感謝してくれたり  信頼してくれたりしていても、 仕事で不運や失敗が続き さらに 上司から 厳しく言われるのが 続いたりすると 自分に自信がなくなり  自尊感情も感じられなくなくなってしまうことが、 あると思います。 自尊感情をもてなくなった状況を抜け出すために 私がやっていることがあります。それは次の通りです。 (1)自分で自分の頑張ったところを誉める (2)自分が誰かのために頑張って 感謝してもらったことを思い出す。 (3)今は自分がトンネルの中にいるようなイメージをもち、必ず抜け出す日がくるというイメージをもつ (4)掃除など、体を動かしながら すぐにできることをやる。 (1)と(2)は、自分のいいところを思い出すので自分を好きだと思う気持ちになります。 (3)は、今置かれている状況が、一時的なものだと認識でき、自尊感情をもてない現在の状況についても冷静に受け止めることができるようになります。 (4)は、自尊感情をもてなくなったときは、たいてい頭で考えて答えが出なくなっている場合が多いので、掃除や簡単な運動が有効なことが多いです。 リズムよく体を動かすことは、自律神経の働きもよくするからです。 さらに、掃除で周囲がきれいになると 気分もよくなり、がんばった自分を誉めたくなるからです。 ということで、自尊心を保つため…というより 頑張っている自分を保ち、ストレスに負けない工夫をし 周りの人から 必要とされたり、信頼されたり 感謝されたり… という状況を 続けることで 自然と 自尊感情がもてるようになるかな…と思います。 参考にならなかったら ごめんなさい!

bossa12
質問者

お礼

とても参考になりました。 >人からの「評価」によって感じることが多い >地味な努力をしていることが私が自己有用感を感じるために役立っている >頑張っている自分を保ち、ストレスに負けない工夫 やはり他者からの評価が得られる状態を維持する努力ということですね。

その他の回答 (5)

  • goodist
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.6

とにかく人間も動物ですから(岸田秀氏的には「本能が壊れた動物」で、本能の代わりに自我を持つそうですが)、優勝劣敗の競争の中で自他の比較において生きているという現実があり、自尊心は人間の本能的なものだと思います。だからこそお互いに尊重されなければなりません。誰だってバカにされない生き方を求めています。自尊心がなくなったら人間らしい生活も失われてゆきます。恥を知らぬ者となるからです。マズローの欲求階層説の4階は一般には承認欲求などといわれますが、esteemという意味では尊重されたいという欲求であり、承認とは少し違うと思います。 さて、プライドは端的に言って「誇り」ですが、これは必ずしも他人に対して自慢するということではなく、自分自身の中で誇りを持つということがあります。たとえば職業に貴賎はないとはいいますが、実際には社会的評価の低い仕事ってあるじゃないですか。自分の仕事がそれにあたるとしても、その仕事が自分にとって親しむもの、やりがいを感じられるものであれば、そこにプライド(誇り)を持てるわけです。しかし他人から尊重とか尊敬を、その仕事を通して得ることは難しいということになります。一般に「プライドが高い」というのは、ふつうに人が本能的に持っている自尊心よりも過度の尊敬欲求を持っている場合であり、それは「過ぎ」ているのですから人間関係において支障もきたすでしょう。だからプライドは程々に、他人に対してよりも自分の内に向けるようにする工夫が必要だと思います。私自身が自尊心を保つために意識してやっていることは自分を表現してゆくことです。これは自分の社会的定位と関連します。つきなみですがアイデンティティーの事柄ですが、自分が社会の中でどのような役割を担い得ているのかを自分なりに形にして表現するのです。社会の中で自分はこのような者としてありたいし、あるのだということを、主観にとどめて自己満足するのではなく客観化し、社会化してゆくために、自分の立場を表現するのです。もっともweb上では本名は名乗りませんので客観化にはなりませんので、別の方法で表現します。その手段については、たとえばエッセーなどの文芸手段など色々、あろうかと思います。

bossa12
質問者

お礼

人から認められるように 自己実現をしていけということですね。 エッセーをやってらっしゃるわけですね。 有り難うございました。

  • h24855
  • ベストアンサー率38% (5/13)
回答No.4

自尊心は必要ですがプライドは必要ないですね。 自尊心を持つということは相手をも尊敬するという事です。わたしはクリスチャンなのでイエスキリストの示された生き方を手本にし聖書を読みその賢智に授かっています。信条、信仰をもつという事は人間が人間らしく生きていくには大変必要なものです。はっきりいって必要不可欠です。何か困った時でもこの場合イエスならどのように対処しただろうかと一瞬止まって考え、お祈りし、それでもまだ回答がない時はクリスチャンの友人に相談したり牧師に相談したりしています。大抵は聖書を熟読すれば答えはみつかります。後、毎朝早起きして祈りと瞑想にふけています。正直に自分の気持ちを祈りにゆだねる事で自然に答えが帰ってきます。信じがたいでしょうが、私は自分の欲した事が成就しなかった事はありません。社会正義と平和をこの世にもたらす事がキリスト教の最終的な目標です。そのためには正しいことをして、世俗的な欲や名誉、地位、金銭的報酬を高望みすることは意味ないのでしません。 だから職場や近所で合点の行かない不義や欺瞞の生じている時はいつも私が率先して交渉し解決しています。でも解決の良策とか、どこの見識者に連絡をとるとか、すべて不思議な方向からいつも助けの手が差し伸べられてきます。本気持ち悪いくらい私は恵まれています。怖いもの知らずの度胸が大きく、他の人が拉致があかず困っている事でも、私の出番となると交渉成立。自分でもあっぱれです。 宗教、信仰でないにしても信条をもたれて、他人にされたら嫌だと思う事は他人にも自分にもしないようにし、少しでも他人に、社会に貢献できる、思いやりのある人にお互いなるよう努力しましょう。

bossa12
質問者

お礼

>お祈りし回答がない時はクリスチャンの友人に相談したり牧師に相談したりしています 私はクリスチャンではないので聖書についてはわかりませんが ひとに相談してコミュニケーションを図ること自体には何かしら 元気になる効果はありそうだとおもっています。 >世俗的な欲や名誉、地位、金銭的報酬を高望みすることは意味ないのでしません。 私はまだ未熟者なのでこの考えまでは到着してません。 >職場や近所で合点の行かない率先して交渉し解決しています 仲介にはいってひとのために動いていると 自然と自尊心も保たれるということでしょうか。 有り難うございました。

noname#132831
noname#132831
回答No.3

 何かこう、根本的な考え方だと思うのです。同じ言葉を使っていても、自尊心に対する意味が違っていれば、伝わらないのかなって思うのです。だから、自尊心が高かろうが低かろうが、どうだっていいのです。悔しければ、くやしいいで構わないのです。それが人間の性〔さが〕だと確信を持って肯定していれば、悔しがった(=他人によって不機嫌にさせられた悔しさ)ことでさらに悔しがることもないのです。  他人の思惑に振り回されないことです。思惑(他人を変えることで自分がどうにかなると信じている)があるのが人間の自然な感情です。死刑制度だってそうです。犯人を死刑にすれば、少しは気が晴れるだろうという非合理的な倒錯に陥ったとしても、責める人は少ないでしょう。人間の感情というのは非合理的なものです。競合関係にない人の不幸を喜んで取り上げるのが日本の週刊誌やワイドショーです。「他人の不幸は蜜の味」って言います。逆に、「隣の芝生は青い」とも言います。なんて、非合理的な信念でしょう。  仕事に関係なく宅建の資格を持っていたとして、その資格のなんたるかを知らない人に『すごいですね』と言われても喜べないわけで、逆に不動産鑑定士の資格を持っている人に『すごいですね』と言われれば、これはもう皮肉にしか聞こえません(笑)。というわけで、人から褒められるにせよ、けなされるにせよ、何の意味もなさないのです。  「自分がどんな人間か」を知るのは、他人を鏡にしてしか知ることができない。ジャック・ラカンはそう言うのです。幼児期に大切に育てられた人は、「自分はかけがえのない大切な存在だ」という信念を持ちやすいのです。それだけのことです。ピグマリオン効果の信奉者に育てられた人は、遠回りをしなければなりません。過度の自尊心を植えつけられたことを自覚し、みずから修正しなければならないからです。  自分が「何を普通としているか」に注意せねばなりません。「他人は自分のことを理解してくれて当たり前」と思っていたり、「何かしてくれて当たり前」と思っていると、それは「当たり前」か「不幸」しかなくなるのです。いつまでたっても幸せにはなれません。過度の自尊心を持った人は、「ちやほやされて当たり前」と思っている人です。だから、辛いのです。

bossa12
質問者

お礼

感情に振り回されないということですね。 有り難うございました。

  • Giova
  • ベストアンサー率8% (19/230)
回答No.2

プライドと自尊心は別物だと考えます。 プライドは私が思うに、もっともくだらない物の一つです。

  • conntian4
  • ベストアンサー率40% (318/787)
回答No.1

「矜持、自尊心、誇り」、「傲慢、虚栄心、驕り、自惚れ」などの意味。 プライドで調べたらこのように出ました。 「傲慢、虚栄心、驕り、自惚れ」こちらの方は邪魔ですね。 「矜持、自尊心、誇り」こちらはとても大切。 常にスタンスを変え無い話し方。 たとえ目下でも子供でも丁寧に、男性女性関係なく、権威があろうが無かろうか態度を変えない、諂わない、媚びない。 品格を重んじ、揺らがない哲学を持ち、健康に良く寝て、よく働き、よく稼ぎ、よく食べ、よく笑いよく遊ぶ、家族も健康第一。 仲間を大切に、感謝を表す。 他人の悪口、汚い言葉使いをしない、人には親切に。 このくらいかな、私の自尊心。 因みに有職主婦、50歳です。

bossa12
質問者

お礼

やはり基本的なことをきちんとする ということですね。 有り難うございます。

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