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よいこと、わるいこと
良いこと、悪いことの起源は生物学的にいえばどうとらえられているのでしょうか? 分子生物学、脳科学の視点やこれまでの研究の結果、どのような視点が妥当とされているのか知りたいです。 よろしくお願いします。
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全く関係無いとは思わないけど別物と考えるべきでしょう。 善悪は社会的規範に属する物だから時代によって変わります。だから時代時代で善とはこれだというような宣言や憲章が出されるのでは。 また色々な社会変革も社会正義を謳って行われます。 生物学的な悪を行なう者は精神医学の対象とされるのでは。 まあでも社会的動物としての高度な発達は人類の特色ですからそういう意味では生物学的なのかもしれませんよね。 遺伝子に書いてあるとしたら善悪を規範とするような心理構造であってその中身ではないでしょう。
- 雪中庵(@psytex)
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生物として、人の生きる目的は、生きる意志に依拠し、真の価値はその意志を充たしているかどうか(人生を通算した精神的充足量の最大化)にあります。 善悪や正義といった他律的価値は、自己の生命性の社会化(分業化&組織化)において、自律的社会行動(助け合いとしての労働=愛による生)を可能にする認識(自己の社会生命性の把握)の育成を怠り、自己チューなまま他律的に社会性のコースを走らせるための“飴(お金、出世)”や“ムチ(法規やモラル)”といった社会的虚構を発達させたものの一環です。 それにより精神的充足は、短絡的な欲求による希薄なものか、苦痛から逃げるだけのネガティブなものかの、物質的な繁栄に比例しない粗悪なものとなる。 その詳しい定義は以下のようになります。 悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。
- ruehas
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こんにちは。 「我々人間の善悪」といいますのは、本質的には「生物学的利益に基づく判定」がその起源と考えて良いのではないでしょうか。 古典心理学では従来より、食欲や性欲といった生物学的欲求を一次欲求とし、これに対して人間の社会活動におけるお金や地位といったものを二次欲求と定義してきました。二次欲求といいますのは一次欲求の実現を生後環境に適応させるためのものです。 欲求といいますのは行動選択の動機であり、我々の脳が下せる判定といいますのは「利益と不利益」、この二種類しかありません。善か悪か、YESかNOか、判定がふたつに分かれるのはこのためです。従いまして、何れの場合でありましても、欲求の実現は良いこと、そうでない場合は悪いこと、利益と不利益、果たして、これが全ての判定の原則となります。 一次欲求といいますのは本能行動を選択するための生得的な動因であり、二次欲求といいますのは生後学習によって獲得されます。我々動物にとって学習とは、与えられた生後環境に適応し、本能行動の実現による生存と繁栄をより有利に行うためのものです。 このサイトでは何度もご紹介していますが、我々の脳内で行動選択を司る中枢といいますのは以下のような三系統に機能分化しています。 「本能行動:生命中枢:無条件反射:本能行動」 「情動行動:大脳辺縁系:情動反応:学習行動」 「理性行動:大脳皮質:認知・思考:計画行動」 そして、ここに良いことと悪いことを割り振りますと、 「生物学的利益」 「経験的利益」 「計画的利益」 ということになり、我々が持ち得る価値観の形態といいますのは、概ね上記のような脳の解剖学的構造と一致します。 本能行動の系統には我々動物が生命活動を維持するために必要な最低限の判定基準が遺伝情報として定められています。ここでは、環境からの入力が定められた閾値を超えたか超えないかにより無条件で利益・不利益が決定されます。 では、我々が生まれたとき、学習記憶は白紙状態です。このため、生まれたばかりの赤ちゃんといいますのは、まずこの本能行動の基準に従って様々な判定を下し、その結果に基づいて良いことと悪いことの学習を始めます。この結果は情動反応を司る「大脳辺縁系の偏桃体」に学習され、ここでは感覚や認知器官からの入力に対し、学習結果に基づいた判定が行われます。これにより、我々は生後体験の結果を行動選択に反映させることができるようになります。 このように、我々が生まれたときに持っているのは生物学的欲求に従う反応基準だけです。ですから、言葉も知らない赤ちゃんが良いことと悪いことを試してみようとするならば、これを用いる以外に手段はありません。そして、この反応基準といいますのは全人類に共通であり、生涯に渡って変更されることは絶対にありません。では、我々の生後学習が必ずやこの本能行動を基準に行われるのであるならば、世界中、何時の時代、何処の国に参りましても、死ぬことは良いことだ、などといった、生物学的利益に真っ向から反する学習結果が獲得されるということは幸い間違ってもあり得ないわけです。そして、何びとにおいても本能行動を手本とする以外に別の手段が与えられていないとしますならば、我々人類の長年に渡る文化的進歩も、本質的にはこれと同様の起源を持ち、必然的に、そこに動物としての様々な価値観を共有することなります。 食料を獲得するのは良いことですが、奪うことは悪いことです。 このような判定の対立が発生するのは、上記で述べましたように、我々の脳内では本能行動と学習行動の中枢が機能分化しており、それが並列回路として働いているからです。 奪ってはいけないというのは、仕返しをされればそれが自分の不利益となるからです。そして、このような「未来の結果」いうものを予測して選択されるのが大脳皮質の「理性行動(計画行動)」です。我々の脳が複数の価値判断を使い分けることができるのは、機能分化したそれぞれの中枢が並列処理を行うからです。このため、果たしてこれによって発生する必然的な判定の対立を、我々は人類の苦悩、即ち「悩み」と呼びます。 このように、我々人間が必要とする善悪とは相対的な価値観でしかありません。ですが、生物学的利益といいますのは変更することのできない絶対的な価値であり、法律や道徳、宗教といいますのは、その秩序を保つために経験的に作られたものです。そしてこの経験とは、即ち他ならぬ我々人類の先駆者たちがその飽くなき生物学的利益の追求から学び取ったものです。