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信仰というものは?
信仰というものは、団体に属さなければ実践できないものなのでしょうか? とくに仏教などは、本来、形式に囚われないものなのではないのでしょうか? 信者どうしのつながりは、ネットを通しても十分可能だと思えますし、とくに団体に属さなくても、個人で信仰することも十分可能だと思えるのですが。 どう思われますでしょうか?
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ニーチェは「信じる神は踊る神だけでいい」と言いました。つまり、自分の生活にとって、なにかしら縛りがあるものは信じるなということです。 例えば、もしゴルフをしている人にとっての踊る神はタイガー・ウッズであり、バスケットボールをしている人であればマイケル・ジョーダンであるように、いわゆる「憧れの対象」として「踊る神」とニーチェは語りたかったでしょう。 宗教を信じるということで、これまでごちゃごちゃになったのが、「神個人(釈迦やキリスト、日蓮など)への信仰」か、「宗教団体への信仰」かということです。 宗教団体に対する信仰に疑問を唱えた人物として、世界史にも出てくる、マルチン・ルターがあげられます。彼は、免罪符の売買という経済活動と、教会に対する宗教活動をごちゃごちゃにしていた当時のローマ教会を痛烈に批判し、後の「無教会主義」などへと発展しました。 経済活動が主で、宗教活動はその経済活動のための手段でしかなかった例は「法の華」でした。 日本でも、親鸞や一遍などは、自分の学問の研究と庶民への活動、弟子の教育を行っていましたが、彼らは別に自ら独立した宗派を作ろうとは思わず、むしろ死語は墓を作ることを禁じたりしました。 (しかしその後、浄土真宗や時宗となっていきましたが) おもしろい例として、創価学会があげられます。元々、日蓮正宗の信者の集まりとして、法華経の研究を目的とした「創価教育学会」から始まり、それから独立した宗教法人格を取得し、そして現在性格が変化し、公明党の大スポンサーまでになりました。 あくまでも主体はあなた自信です。宗教を信じるまず第一歩は「神個人への信仰」であり、その目的のために宗教団体に入ったり、もしくは信者同士でグループを作るのはかまわないと思いますが、その主と副が入れ違えると、なにかしらのトラブルに巻き込まれてしまいますので、そのことだけきちんと見失わず、信心を深めていってください。
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- SCNK
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信仰とは、自らのすべてをその宗教のために差し出すこと、つまり帰依することでしょう。 団体に属するかどうかは、あまり関係ありませんね。ただ神と交信できる者を、組織の者に限定している宗教もあるにはあります。でも自らその能力があると信じればそれまでです。
- kyuukeityu
- ベストアンサー率31% (62/198)
信仰を個人の内面のこととして考えれば、経典や行を通じて、ひとりで信仰は出来ると思います。 ただ、宗教は書かれた経典などではなく、信仰してるその人の中にあるものだと考えれば、道を共にする人がいてくれることは心強いですね。元は教団もそういうところから出来たのでしょう。 実際、宗教を信仰している人にきっかけを聞いてみると、その教義に魅かれたという人よりも、信仰している人に惹かれたという人が意外と多いですし。 一人での信仰も出来るかもしれませんが、教団など信仰を支えあうつながりがあると、信仰心は養われやすいと思います。
- north073
- ベストアンサー率51% (536/1045)
社会生活そのものが「信仰」であるとする宗教もあります。 そういった宗教では、団体というか、共同体に属すること自体が信仰の現れになるでしょう。 あるいは、仏教でも、師について学ぶということは古来から一般的に行われています。 座禅などを見てもわかるように、宗教は文字や画像の情報だけでなく、五感での体験を重視することもあります。 個人で信仰することが可能な宗教もあるかもしれませんが、教義によってはそのようなことが不可能な場合もあるのではないかと思われます。
- sukesan2
- ベストアンサー率25% (58/230)
信仰は教義の実践など正しい導きという点で、ある程度の組織がないと難しい面があるかと思いますが、逆に巨大組織化された時点で本来の姿から微妙にずれ始めることもあるような気がします。 特に教義を深める以外のところで、宗教団体として強力に組織化された集団というのは、周りから隔絶した異様な集団になってしまうことも多いのではないでしょうか。 一人で導きがなければ信仰を深めることは困難ですし、組織化が進むとゆがんでしまう、そんな気がします。 何も宗教団体に限ったことではなく、例えば学校だって本来知的好奇心を追求する楽しい学習・学問のはずが、学校として組織化された時点で、組織の中の学習・学問となってしまい、「評価」が生まれ、純粋な知的好奇心が損なわれがちになります。 組織と個人の永遠のテーマなんでしょうね。
- ryuyen316
- ベストアンサー率22% (4/18)
「信仰」と言うものを論議するには、日本では一般的にまだまだ根付いていないし、無知過ぎるのでは無いかと思います。大きな世界でみれば「信仰」を持っていない人の方が少ないのが現状です。 宗教が生きていく上での哲学としても重要であり、その宗教を信仰していこうと考えた時その中で、個人で、又団体で実践する事に意味があるのかと言う事も自ずと解るものなのではないでしょうか? 学校、会社・・色々な団体(集団)の意味も考えると 同じ様な気もします。
- kaorunaka
- ベストアンサー率28% (50/178)
自分の中の信仰は、別に形式に囚われなくても出来るはずです。 困ったときだけ神頼みしますよね。 あんな信仰もあります。
- maruru01
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こんにちは。maruru01です。 No.3の人の意見にもあるように、教義の伝承ということでは、一定の集まりは必要でしょう。 しかし、いわゆる宗教法人というものは、その目的は力を得ることです。 経済力、政治力、武力・・・。 その団体に所属する一般信者はともかく、その団体の上層部は、より大きな力を得るために団体を大きくしようとしているのです。 そして、そのような行為は、もちろん純粋な信仰とは何ら関係がないものです。 本来、教えを受けるのも与えるのも、団体に属している必要はないはずですから。
- neue_reich
- ベストアンサー率21% (138/647)
宗教の信仰、であれば、通常は団体に属して実践しますが、 (団体の主教(神父・牧師・住職・神主など)から教えを受ける形式であるため) 自分自身で「こうあるのがよい」と考え、実践していくことは 一人で実行可能ですよ。 極論してしまえば、宗教というのはある人の哲学(複数の人の場合もアリ) を組織的に学び、解釈している集団に過ぎません。 だから、自分自身(もしくは身近な人)だけでも成立しますし、 考えを伝え合うことが可能であれば成立すると思いますよ。
- taknt
- ベストアンサー率19% (1556/7783)
信仰するもしないも本人の自由です。 団体に所属しても しなくてもいいでしょう。 宗教をやってない人でも 困ったときに 神様、仏様と 祈るのは、信仰の一種だと思います。
- 55mph
- ベストアンサー率23% (9/38)
無信仰という信仰もあります。