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40歳でやりたいことは何もない?ただ生きているだけで良いのか
- 40歳でやりたいことがなくても、ただ生きていくことは十分に良い選択です。しかし、やりたいことや成し遂げたいことがないと感じるのであれば、新たな可能性を探ることも大切です。
- 過去に精神的なダメージを受けた経験があり、仕事もできない状態になっている場合でも、自分にできることを見つけることができます。例えば、趣味や興味を追求すること、新しいスキルを身につけることなどが挙げられます。
- また、体調の悪い日がまばらで予測が難しい場合でも、柔軟な働き方や自己啓発に取り組むことで、自分なりの充実感を得ることができます。限られた状況でも、自分に合った方法で毎日を過ごしましょう。
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質問者が選んだベストアンサー
再度です。#5です。 >私の役割はそれ全部です。 よかったです。 質問者様の文章を読んでいて、 いい妻でありたい努力、いい母でありたい努力を感じられず、 何に焦っているのか、社会へ出なくてはいけないという意識だけが強く感じられました。 世の中の人全てがしたいことをしているわけでは無いと、よくご存知だと思います。 でも、それぞれが与えられた役割を果たそうと頑張っていますよね。 その中で、こうありたいという青写真を描いているかと思います。 質問者様も、働きたいと思っていらっしゃるのなら、 ただ働きたい。なにかをしたい。ではなく、 どんな妻で、どんな母で、どんな女性でありたいか 頭に思い描いてから、 次にどう行動するのかじっくり考えてみては如何でしょうか? 別に働くという手段だけではなく、 習い事に案外輝いているのかもしれませんし。。 何をしたいかではなく、何をするべきが見つかると 開けてくるかと思います。 焦ることなくゆっくりと、ご家族と向かい合う時間を持ってみませんか?
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- vansancan
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カウンセリングのつもりはありませんが、 質問者様に問います。 あなたは何ですか? 妻ですか?母ですか?ただの女ですか?
補足
私の役割はそれ全部です。
こんにちは。 どういう風に苦しいのかあまりわからないので方向がずれていたり厳しく感じたらすみません。 あなたがたとえば自殺してしまったとしても、お子さんは確かに成長できるかもしれませんが、きっとすごく悲しむと思いますよ。 それに、それによってお子さんがものすごく生きていきづらくなる可能性は充分に高いと思います。 お子さんも自殺してしまったりするとしたらどうでしょうか。 そういう責任まで放棄してしまうことがはたしていい事とは思えません。 また、「やりたいことはもうひとつもなんにもない」と思われているようですが、手の届く範囲に知らないことでやったら面白いかもしれない・興味深いかもしれないモノがたくさんあると思います。 多分40年くらいで達観できてしまうほど世の中は狭くないと思います。 ご家族の助けがあってやりたくないことをやらないようにしていていい、という風にしてもらえているのだと思います。 そのことに感謝を返すことに生きがいを見出してみてはいかがでしょうか。 他の方の回答へのお礼にも「家族に喜んでほしい」と書いてあります。 その気持ちを家族に向けることを追及してみてはいかがでしょうか。
お礼
自殺は絶対にしてはいけない事だと思っていますのでその点は大丈夫です。 ただ今のままだとあまりに空っぽで、何にも笑ったり泣いたりの感情もわかず、興味もやる気もない、私に見えている世界だけがすべてではないと思っているので。からっぽでも出来る事や、空っぽから抜けたきっかけを知っている人がいるのではないかと思って質問したのかもしれません。 ただ家族が健康で、ご飯が食べれ、家に暮らしているだけでありがたいこと。空っぽじゃなくなり、家族にも幸せだと思ってほしいのかもしれません。
補足
丁寧に回答いただきましてありがとうございました。(お礼欄に書くのを忘れてしまったので補足欄で失礼致します)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
元来、物質には「目的」などありません。 しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。 「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。 もし、あなたが行動する必然を見出せなければ、あなたは淘汰される側になります(別にそれが悪い訳ではありません)。 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。 生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 (先に「悪い訳ではない」と書きましたが、自分にとっては損(充足量の減少)な訳です) 「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。 であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。 (その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙) その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。 さて、あなたにとっての愛とは何でしょう? 近所をそうじしながら近隣の方にあいさつすることかも知れませんし、家庭菜園で無農薬野菜を育てて家族に食べさせることかも知れません。
お礼
あまり長い文章を理解しながら読む事ができず、お礼が遅れて申し訳ありませんでした。 まだよく読み取れていないかもしれません。お許し下さい。 私にとって愛とはなにかと問われれば、依存せず見返りを求めずです。 行動や具体例はちょっと思い浮かばず抽象的かもしれませんが。 アドバイスありがとうございました。
私の父は鬱病で私が小学生の時から無職でずっと家で寝ていました。 最近、病状がマシになってきたみたいで、庭で野菜を育てはじめました。 庭に出ていると近所をうろうろしているご近所さん、だいたい皆さんご老人の方ですが、あいさつとちょっとした世間話などしてるみたいです。 できた野菜を家族に自慢するのが嬉しそうです。 もし、庭作業に興味があればいかがでしょうか?
お礼
今のところ何にも興味も関心ももうないので、では野菜でもっ!という気持ちにはすぐにはなりませんが、お父様の状態を受け入れて育っていらっしゃった感じがして、優しさを感じました。アドバイスを本当にありがとうございます。 先ほど、たとえば沢山お金があったとしたらなにかしたい?....と考えてもみたのですが、もう買いたい物も行ってみたい場所もなにもありませんでした。 ただ、出来た野菜を家族に食べさせたり見せたりして喜びを感じる。その気持ちはとてもよくわかりました。 やはり、家族に喜んでほしいので。
- MOMON12345
- ベストアンサー率32% (1125/3490)
やりたいことが無く、何もやらずに生きていけるのは幸せかも知れません。 私など、やりたくもない仕事をせっせとやる毎日ですから。
お礼
おっしゃる通り、幸せだと、ありがたい事だと思っています。 しかし私と一緒に暮らすみんな(特に夫)は大変だとも思い。上記のような質問をしてしまいました。 わたしも、仕事をせっせとやったあげくにこんな抜け殻のようになってしまいましたが、嫌でも無心になれる瞬間を持っていた事もまた幸せだった気もしています。 どうぞお体にお気をつけて。 アドバイスありがとうございました。
お礼
そうですね。 よく考えてみます。ありがとうございました。