- ベストアンサー
日独
日本とドイツは、政治・学問・文化などの諸分野においてどんな関係を結んできましたか? 具体例あると嬉しいです☆
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
1889年制定の大日本帝国憲法は英仏ではなくドイツ憲法を手本にしたものです。 1940年には日独伊の三国同盟を結び欧米の列強に対抗しました。 下記サイトに詳しく出ています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E9%96%A2%E4%BF%82 http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20080720-385902.html スポーツでは日本サッカーがメキシコ五輪で銅メダルを獲得した功労者がドイツ人コーチのクラマー氏の存在です。 日本サッカーの父と言われています。 http://www.microbes.jp/hiwa/Japanese/esprit/report2.html ドイツのコッホ研究所で学び世界的な細菌学者となった北里柴三郎氏は は有名です。世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功し、 ペスト菌を発見しました。
その他の回答 (2)
- drmuraberg
- ベストアンサー率71% (847/1183)
司馬遼太郎の「坂の上の雲」がTVドラマ化されるのでそのテーマから。 日本陸軍の部隊編成と参謀本部システムが今日の会社組織にまで 影響しています。 部ー課ー係りー担当の実動部隊とスタッフ部門の分離です。 最近ではリストラで実動部隊の階層も不明確になり、スタッフ部門も 縮小されていますが、間違いなく高度成長期を支えたシステムです。 発端は明治維新後、政府が陸軍を仏式から独式に変え、明治13年 (1885年)に陸軍大学の教官としてドイツ陸軍参謀少佐メッケルを 招聘したことがきっかけです。 メッケルは3年間、現地(戦場)を良く知り、敵に勝る兵力を集中し、 大会戦で一挙に殲滅すると言うことを徹底して教えました。 その生徒はこれを忠実に実行するように勤め、日露陸戦を勝ち抜きました。 ドイツに帰っていたメッケルは開戦直後に、日本の事を何も知らない記者に 私の生徒が勝つだろうと断言して記者を驚かせました。 実際は国力不足で兵も武器も足りず、志気の劣るロシア軍に辛勝したという ところです。 勇ましい公式戦史を補う意味で出された「日露陸戦新史」(大正12年、 岩波新書昭和15年)には、動員力補給力不足により集中ができず教えに 添えなかった点が繰り返し反省されています。 しかし、多勢のロシア軍に勝ったことは「寡兵善く敵を制す」とか 「精神力」とかの強調に繋がり、その後の陸軍の方向を誤らせ、特に 参謀本部の暴走の布石となります。 敗戦でこれらはご破算に成りました。しかし、その後の復興期には 通産省=参謀本部、企業=実動部隊の形で復活し、現在に至っています。 下記URLはメッケルに付いてのエピソードです。メッケルはドイツ一の 名参謀と言われたモルトケの秘蔵っ子で、ひよこの様な国に一番弟子を 送ったドイツ側の新興帝国としての意気込みを感じます。 http://asyura2.com/sora/bd19991/msg/520.html
- hiroki0527
- ベストアンサー率22% (1101/4910)
日本の医学は戦前はドイツを手本にしていた。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012962385 だからカルテをドイツ語で書く風習が出来た。 カルテ=ドイツ語 (Karte) クランケ=ドイツ語(Krank) 最近は英語全盛だそうですが。