- ベストアンサー
懺悔について
自分のした事について、謝らなければいけないけども謝る相手がいません。教会に行き、神様に自分の罪深さを話すしかないと思っています。こんな時に人間は懺悔をするのだと思います。クリスチャンではんかったけども、クリスチャンになろうと思っています。しかし、漠然と日曜の礼拝に行ってもしょうがないと思います。まずは取っ掛かりはどのようにすればよいのでしょうか?どなたかご存知でしたら教えて下さい。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
神に対し罪を告白する事を見出せた事実は、yume_09さんが神に選ばれている証拠です。yume_09さんは神に愛され選ばれています。ですから、その次に進む事ができます。神に対し懺悔(以後、悔い改めと記載します)するとは、単に罪を告白して終わりという事でなく、悔い改めという行動を通して、神へと向きを変え、神を受け入れ、神と共に再出発することを含んでいます。以下に聖書の御言葉と解説を記載します。参考にしてください。 マルコ1:15 そして言われた、「時は満ちた.神の王国は近づいた。*2悔い改めて福音を*3信じなさい」。 フットノート*2 ギリシャ語は、「思いを変える」を意味します。悔い改めるとは、思いを変えることであり、それは過去に対する悔いと、将来に向かうための転機を伴っています。消極面で、神の御前に悔い改めるとは、罪や誤った行ないを悔い改めるだけでなく、この世とこの世の腐敗(この世とこの世の腐敗は、神がご自身のために造られた人々を横領し、腐敗させてしまいます)や、過去わたしたちが神を捨てて生活してきたのを、悔い改めることです。積極面で、悔い改めるとは、神が人を造られた目的を成就するために、あらゆる方法で、またあらゆる事で、神に立ち返ることです。それは「神への悔い改め」であり、「悔い改めて神に立ち返る」ことです(使徒20:21.26:20)。マタイ第3章2節(マタイ3:2)のノート1と2を参照。 http://www.recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=41_1_15_0_2 フットノート*3 悔い改めは、おもに思いで起こり、信じることは、おもに心で起こります(ローマ10:9)。信じるとは、わたしたちが信じる事柄の中へと信じること、またわたしたちが信じる事柄を自分の中へ受け入れることです。福音を信じるとは、おもに救い主を信じることであり(使徒16:31)、彼を信じるとは、彼の中へと信じ(ヨハネ3:15―16)、彼をわたしたちの中へ受け入れることです(ヨハネ1:12)。それは、わたしたちが彼と有機的に結合されるためです。キリストにあるそのような信仰は(ガラテヤ3:22)、わたしたちが福音の真理の言葉を聞くことを通して(ローマ10:17.エペソ 1:13)、神によって与えられます。この信仰は、わたしたちを福音のすべての祝福へもたらします(ガラテヤ3:14)。ですから、それはわたしたちにとって尊い信仰です(IIペテロ1:1)。そのような尊い信仰を得るためには、まず悔い改めなければなりません。第16章16節(16:16)のノート1 を参照。 http://www.recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=41_1_15_0_3 神の小羊としてのキリストの血により永遠の贖いが達成されました。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=58_9_12_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=58_9_14_0_1 御子イエスの血が、すべての罪から信じる者を清めます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_1_7_0_3 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_1_7_0_5 神を受け入れる事は難しい事ではありません。 ローマ10:9 すなわち、あなたが自分の*1口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます. フットノート*1 キリストは、わたしたちが彼にあずかることを必要とされます。わたしたちは、彼を入れる器として造られたのですから、心で信じて彼を受け入れ、また絶えず口で彼を呼び求めて彼を取り入れ、彼の豊富が、わたしたちのむなしい器を満たし続ける必要があります(9:21―23)。 http://www.recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_10_9_0_1 心で主を信じ受け入れ、口で「イエスは主」、あるいは、様々な過去の罪や、つらい経験の情感をこめて「おお!主イエスよ!」と口で告白するならば、yume_09さんは救われます。もし、救われたという感覚を十分に得たいならば、「おお!主イエスよ!」と何度も告白すれば救いの感覚を受けるでしょう。これは、人間が呼吸することに似ています。人間は呼吸をする時、息を吐けば自然に息を吸い込みます。それと同じく、全ての罪、経験などの情感を込めて「おお!主イエスよ!」と吐き出すならば、自然に新鮮で聖なる主を吸い込みます。またさらに、強い罪の感覚があり、罪の清めを必要とする時には、「おお!主イエスよ!貴方の血によって清め、洗ってください!」と祈ることもできます。手を洗う時に何度も手をこする様に、何度も続けて祈ってみてください。きっと主はyume_09さんの告白を聞き、yume_09さんの痛んだ良心を清めてくださるでしょう。 悔い改め、信じ、受け入れるのに続き、クリスチャンとして外側の確認を行うためにバプテスマ(洗礼)という行程があります。 マルコ16:16 *1信じてバプテスマされる者は救われる.・・・ フットノート*1 信じること(参照,1:15のノート3)は、救い主を受け入れることであり(ヨハネ1:12)、これは罪の赦しのためだけでなく(使徒 10:43)、再生のためでもあります(Iペテロ1:21,23)。信じた者たちは、三一の神との有機的な結合の中で(マタイ28:19)、神の子供たち (ヨハネ1:12―13)、キリストの肢体となります(エペソ5:30)。バプテスマされることは、救い主の死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また、救い主の復活を通して復活させられ、神の新創造となることによって、これを確認することです。そのようなバプテスマは、ヨハネによる悔い改めのバプテスマよりはるかに進んでいます(1:4.使徒19:3―5)。信じることとバプテスマされることは、神の全き救いを受けるための、一つの完全な段階の二つの部分です。信じないでバプテスマされることは、単にむなしい儀式にすぎません。また信じてもバプテスマされないなら、内側で救われるだけで、外側の確証がありません。これら二つは並行すべきです。さらに、水のバプテスマには、霊のバプテスマが伴うべきです。それは、イスラエルの子たちが、海 (水)の中と雲(その霊)の中でバプテスマされたようにです(Iコリント10:2.12:13)。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=41_16_16_0_1 神は召した人々を群れとしたいと考えておられます。御言葉と解説中にある「召会」というのは、一般的に「教会」と言われるものですが、ギリシャ語の原文通りに訳すと、「教えられる会衆」ではなく、「召された会衆」、「召会」と訳すのが適当です。 マタイ16:18 そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの*5召会を建てる.ハデスの門も、それに勝つことはない。 フットノート*5 ギリシャ語「エクレシア(ekklesia)」は、「召し出すこと」を意味します。この言葉は、召し出された会衆という意味で用いられています。「わたしの召会」は、召会が主からのものであり、他のいかなる人や事からでもないことを示します。・・・ http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_16_18_0_5 yume_09さんがあらゆる罪、状況から救われ、同じく召された人々と共に神を信じ受け入れる生活をおくられますように、祈っております。以下のサイトも非常に分かりやすく、良いサイトです。ぜひご覧ください。 「人生の奥義」 http://www.geocities.jp/church_in_yokohama/9Gospel/Okugi/OkugiHole.html 「オンライン聖書回復訳」 http://www.recoveryversion.jp/ 「一般財団法人バイブルフォージャパン」 http://www.biblesforjapan.org/ 聖書の無料プレゼントと聖書通読グループの紹介をしてくれます。
その他の回答 (2)
- MAY1814
- ベストアンサー率71% (1816/2527)
こんにちは。一応クリスチャン(カトリック)ですので良かったら参考にして下さい。 懺悔とよく言われますが、懺悔ではなく「ゆるしの秘跡」といいます。昔の方は告解(こっかい)とも言いますが、懺悔という言葉は使いません。ゆるしの秘跡はカトリックにおける秘跡の1つで、神父に罪を告白する事により神から許しを得るというものです。カトリック信者なら最低1年に1度は受けるように勧められています。 http://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_yurushi.php←ゆるしの秘跡 前述のように秘跡ですのでカトリック信者のみ有効です。ただし自分の気持ちを打ち明けて聞いてもらう事は信者、未信者関係なく可能です。またゆるしの秘跡はカトリックのみですが、気持ちを聞いてもらうだけならプロテスタント諸派でも可能です。方法としてはまず突然言っても不在であったり忙しかったりしますので、お近くの教会や自分が行きたいと思っている所へ電話してアポイントメントを取る事が必要です。余程忙しくない限り大抵は聞いてもらえると思います。カトリックならカトリック中央協議会のHPで探せば良いですし、プロテスタント諸派なら様々な教派がありますので、そちらのHPで検索してみて下さい。 http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/ ただしこれらの事は特にキリスト教でなくても出来る事です。質問者様が何かの導きでクリスチャンになりたいというのでしたら、別に構いませんが、懺悔をしたいから、謝りたいからという理由でクリスチャンになるのは止めはしませんが、もう少しゆっくり考えてみたらどうですか?とお勧めしたいです。一生の事になりますので。 仏教でも懺悔のような事は行われています。瀬戸内寂聴さんのように癒しの法話をされる方もいますし、四国八十八ヶ所のお寺(多分愛媛だったか)はお坊さんが色々話を聞いてくれたりもします。 >漠然と日曜の礼拝に行ってもしょうがないと思います 何故でしょうか?まずは行ってみる事です。雰囲気などもありますし、それぞれ教派によって考え方もまちまちです。カトリックではミサの最初(カトリックではミサ、プロテスタントでは礼拝と言います)に自分の犯した罪に思い起こし悔い改める為にお祈りをします。そして自分の罪を思い起こしたらキリストやマリアや聖人(ここがプロテスタントと違うところの1つ)、そして教会に集っている人に自分の犯した罪を許してもらうように神に祈ってもらいます。教会は建物ではなくて、1つのコミュニティであり神の家です。私も質問者様が教会に来られたら質問者様のためにお祈りしますし、他の方も同様だと思います。まずは行ってみる事、そして雰囲気や司祭が良いなと感じたら個人的に話を聞いてもらったら良いのではないでしょうか。 クリスチャンになるのは急がなくても良いです。質問者様が今の苦しい気持ちを克服して、尚且つ心惹かれるものがあれば初めて考えれば良いのではと思います。またどの教会も半年から1年はかかります。 ご参考までにm(__)m。
お礼
大変遅くなりましたがありがとうございました。時間がかかりますが聖書を勉強します。
- jinseiwalk
- ベストアンサー率23% (372/1603)
言う対象がないから神にいうとはばかげています。 一体何をしてどう悪いと思っているのですか?具体的に言えるはずですが。 対象がなく悪いことをしたということはありえません。空想だけで心の中だけのものなら別ですが。
お礼
大変おそくなりましたが本当にありがとうございます。聖書は難しく時間がかかりますが少しずつ勉強します。