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クラシック音楽の作曲者と編曲者の表記
クラシック音楽のCDやプログラムなどの曲目表記で、作曲者とは別の人が編曲した版が演奏される場合、作曲者と編曲者の表記が曲によりまちまちのように思えます。たとえば、展覧会の絵なら、 『ムソルグスキー(ラヴェル編曲):展覧会の絵』 といったように、ほぼ例外なく作曲者と編曲者が明記されますが、4台のチェンバロのための協奏曲(BWV1065)なら、 『バッハ:4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065』 と、あたかもバッハが作曲した曲であるかのように書かれ、解説でヴィヴァルディの作品の編曲であることが書いてはあっても、 『ヴィヴァルディ(バッハ編曲):4台のチェンバロのための協奏曲』 とは普通書かれません。一方、ラプソディ・イン・ブルーでは、グローフェが編曲した版が演奏される場合でも、 『ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー』 と書かれる場合が多く、 『ガーシュウィン(グローフェ編曲):ラプソディ・イン・ブルー』 とはあまり書かれないようです。 3曲とも作曲者とは別の人が編曲した版が演奏されるという点では全く同じなのに、このような違いはどうして起こるんでしょうか。何か曲目表記に関する決まりや慣習でもあるんでしょうか。クラシック音楽はよく聴くんですが、業界のことなどは詳しくないので、よろしくお願いします。
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権利関係がからんでいます。 バッハの例では、作曲したヴィヴァルディも編曲したバッハもバロック時代の作曲家であり、この時代は「著作権」という意識はありません。ですからバッハに限らず、多くの作曲家が他人の曲を編曲して「自分の作品」として出版しました。これは罪でもなんでもなく、普通のことだったんです。 ロマン派(ブラームス以降)になると著作権が意識されるようになり、他人の作品を勝手に取り込むことは、泥棒と同じと考えられるようになりました。ですから編曲した場合は作曲者と編曲者を併記するのが常識となりました。 ロマン派以降の編曲作品でも、著作権の切れたものを使う時は例外です。たとえばプロコフィエフの「プルチネルラ」は、ペルゴレージやガッロなどのバロック時代の作品を編曲したものですが、ふつう「プロコフィエフ作曲」となっていますね。 逆もあります。あまり有名でない作曲家が、自分で作曲したものなのに、曲を売る為に昔の作曲家の名前を使って、「有名な誰それさんの曲を編曲しました」と言って出版するものです。有名なのがクライスラーです。クライスラーの作品は今でこそクライスラー作曲で通りますが、発表当時は有名な昔の作曲家の名前を拝借していました。 アルビノーニ作曲ジャゾット編曲の「アルビノーニのアダージョ」もそうです。ジャゾットさんが「アルビノーニの作品を繋ぎ合わせて作った」として売り出したわけですが、アルビノーニはそんな曲を作っていないし、第一アルビノーニの作風とは全然違いますよね。結局完全なジャゾットさんの作品なのに、売る為にわざわざそうしたわけです(つまりバロック音楽ではないということですね!バロック名曲集によく収められているんですが、、、)。 ラプソディ・イン・ブルーに関しては、、、なぜでしょうね?
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- Ta595
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こんにちは。 特に業界事情(?)に詳しくもない素人ですが。 この曲は編曲者を書く,こっちは書かない,ということに対して絶対的な決まりはないようで,慣例/慣習や個々の事情により,都度判断されているような気がします。 資料としてならば,最大限正確に記載すべきと思いますが,音楽鑑賞のため,作品の識別のため,ということでしたら,記載した人(団体)の,「誰の作品として鑑賞して欲しい(されるべき)か」「どのような表記だと作品の識別がしやすいか」についての考え方が(あいまいな)基準になっているのではないかと思います。 例えば, 「四台の~」は,オリジナルはヴィヴァルディであってもバッハの音楽精神をよく表した作品である。 「展覧会の絵」は,管弦楽法の名手であったラヴェルのオーケストレーションが作品の非常に重要なポイントになっている。 それに対し,「ラプソディ~」は,クラシックとジャズを融合しようとした,ガーシュウィンのシンフォニック・ジャズというコンセプトが作品の本質であって,オーケストレーションを助けたグローフェの役割はさほど大きくない。 あるいは, ヴィヴァルディ作曲/バッハ編曲と書いたり,ガーシュウィン作曲/グローフェ編曲とすることで,一般に知られている楽曲とは違うものではないのか?という余計な誤解・混乱を招く可能性がある。 といった感じでしょうか。 (なお,それぞれ,そう書いた人がそのように考えた,という意味で,そうではないと考える人もいるとは思います。また,同じ人/団体でもケース・バイ・ケースで記載の方法を変えることもあるかもしれません⇒余談参照) ---(余談)--- 私はアマチュアオーケストラ経験者でラプソディ・イン・ブルーをやったことがありますが,ファミリー向けのカジュアルなものだったので,演奏会プログラムには,「グローフェ編」とは入れませんでした。でも,もう少し硬派?な演奏会で,聴衆にグローフェの存在を多少なりとも意識して欲しいと考えるならば,入れていたかもしれません。 ちょっと脱線しますが,プログラムの記載にアカデミックな正確さを求めるか,あるいは,一般に通用している慣例・慣習に従うかは,なかなかに悩ましい問題だったりもします。編曲とは関係ないですが,例えば,「運命」って入れるかどうか,とか,「未完成」は交響曲何番なのか,とか,モーツアルトの交響曲第40番か交響曲ト短調K.550か,とか。作曲家の表記も難しいところですね。 ---
お礼
ご回答ありがとうございます。 音楽資料じゃないから、というのはなるほどと思います。 「一般に知られている楽曲とは違うものではないのか?という余計な誤解・混乱を招く可能性がある。」 確かにそうかもしれませんね。このことは全然思い至りませんでした。 演奏会の趣旨によっても表記が違うものになるかも、というのもなるほどと思いました。作曲家以外にも、曲名表記では確かに迷うこと結構あるんだろうな、と思います。
前の方も書いているように、権利関係や著作権が関係しています。編曲にいかに創造性を盛り込んだか、それを権利として主張しているか、その権利が生きているか、という3つのことが関係すると思います。 バッハやヴィヴァルディは、著作権という概念のない時代なので、要するに「どうでも良い」状態でしょう。もともと、バッハの時代には他人の曲を使っても、何ら問題はなかったのです。音楽は使い切りで、録音だとか再利用なんて誰も考えませんでしたから(再利用したければ楽譜を筆写するしかなかった)。バッハの有名な「マタイ受難曲」にも、当時広く歌われていたコラールがたくさん取りこまれています。 ラヴェルの場合は、楽譜出版や演奏に著作権が関係する時代になっています。ラヴェルが亡くなったのは1937年で、著作権が没後50年まで、さらに第2次大戦で権利が行使できなかったという「戦勝国特権」で著作権が10年延長されているので、1997年まで著作権が生きていました。現在は著作権も切れましたが、ついこの間まで、「展覧会の絵」を演奏したり録音するときには、そう書く必要があったのです。もっとも、指揮者のストコフスキーやアシュケナージ、その他の管弦楽編曲もあったので、他と区別する、という意味もありました。 「ラプソディ・イン・ブルー」の場合は、確か管弦楽法に自信がなかったガーシュインが、グローフェに依頼して管弦楽部分を編曲してもらったはずです。つまり、オリジナルとは別にグローフェが編曲したわけではなく、グローフェの編曲がオリジナル、ということ。忙しい作曲家の場合、オーケストレーションを弟子や他人に頼む、ということは良くあったようです。詳しくは知りませんが、グローフェがガーシュインに「編曲料」をもらって権利を譲っていれば、いちいち「グローフェ編曲」という権利を放棄したということなのでは。 以上、必ずしも根拠を確認したわけではありませんが、こんなところではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「録音だとか再利用なんて誰も考えませんでした」 確かにそうですね。全然関係ないんですが、クイーンIIが作られた時、まさかCDというのができて、A面B面がなくなるなんてことはクイーンの4人をはじめ、誰も全く想像できなかっただろうな、なんてこと思ってしまいました。 展覧会の絵の明快な解説、ありがとうございます。ラヴェルなんてずいぶん昔の人みたいに思われがちですが、つい最近まで著作権生きてたんですね。 グローフェは権利を放棄したかもしれない、とのことですが、私も真実を知りたいところですね。
- blastma
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業界人ではありませんが。 多分決まりはないと思います。 ごくごく一般的にすぐ分かるように記載されているだけと思います。 例えば『展覧会の絵』元来ピアノ曲ですが、オーケストラで演奏されることが多く、 (ラヴェル編曲)とあれば、それだけでオーケストラ演奏と分かるためでしょう。 『4台のチェンバロのための協奏曲』はヴィヴァルディの作品の編曲なんですか、知りませんでした。 『ラプソディ・イン・ブルー』は(グローフェ編曲)以外はオリジナルのジャズ版ですが、これはグローフェ編曲があまりにもメジャー過ぎて書かないのかもしれません。 以上勝手な思いこみかもしれませんが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、ラプソディ・イン・ブルーで、ピアノと大オーケストラだったらグローフェ編曲に決まってるだろ、となるでしょうね。演奏されるのはほとんどグローフェ編曲版だから、いちいちグローフェ編曲と書くまでもない、ということなんでしょうか。しかし、グローフェは亡くなってから50年たってないから、曲目にグローフェ編曲と書かなくて大丈夫なのかな?という気もします。 展覧会の絵は、ピアノ原曲も有名だし、ラヴェル以外にも管弦楽版に編曲した人も何人かいるから、ラヴェル版であることをはっきり書く必要があるのかもしれませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 一番疑問だったバッハのことがよくわかりました。バッハが自分の作品として出版したから今でもバッハなんですね。 著作権の切れたものの編曲、言われてみればたしかにそうですね。確かにプルチネルラはストラヴィンスキーの作品(プロコフィエフとありますが、勘違いでしょう。ごめんなさい・・・)で、リュートのための古風な舞曲とアリアはレスピーギの作品扱いですね。アルビノーニのアダージョは私も変だと思いますし、「ハイドンのセレナーデ」で有名な四重奏曲は、今でもハイドン作曲みたいになっているCDが、まだかなりあるようです。 こうしてみると、曲目表記は結構いい加減だな、と思います。これだけ著作権のことがやかましく言われている時代だから、たとえ著作権が切れたものであっても、正しい作曲者、編曲者名を明記すべきじゃないかと私は思います。