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森の熊さんがサディストなら
教育的歌曲である?「森の熊さん」ですが、これが教育的なゆえんは、この熊さんが、非情に善人(善獣?)であると言うこと以外にはないと思われます。怖がるからそのまま逃げろと、しかも、落し物をしたから、そのまま逃がしてやると言う予定を変更してわざわざ追って届けるという、人間にもこんな善人はいないだろうと言う徹底振りです。 これがもし、全くの獣性であり、しかもそれプラスαの存在だったら同なのでしょうか? つまり、人間を襲って殺して食う、という獣として当然のことを行うというほかに、わざわざ逃がして、おびえて逃げ回っているのを楽しんで、結局捕まえて惨殺してしまう、それをしかも楽しんで行うというようなサディストそのものだったらば、いったいどうなのでしょうか?これは教育的ではありません。 ではなぜ、前者が教育的で後者は違うのでしょうか?いったい、「教育的」と銘打っているものはどういう資質を持っているものなのでしょうか?
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おもしろい。考えてみます。 基本的に「教育的」というものは、ヒト的です。熊さんと言いつつ、この熊さんは擬人化されたモノであると考えられます。なぜなら、理性的に教育されるのは人間だけであり、他は本能的に教育されます。理性が絡むなら、熊さんはすでにヒトの扱いであるとするのが自然です。故に熊さんは立ち姿で描かれていることがほとんどですし、「知らないヒト」と置き換えると考えやすいでしょう。 対して、獣的に教育される場合もあります。同じ熊でも、獣として扱われれば、「熊に襲われたおじいさんが木の根元に半身埋められていた」事件などは、半身埋められている事実はほとんど報道されませんし、ひどい姿であることも、熊がひどい動物であることも話されません。熊は本能として、ヒトを食料と認識し、それを実行しただけであるからと考えます。また、シャチなどは、アザラシを半咬みで、もてあそぶようにしますが、その姿は、ひどい仕打ちとは言わずに「教育的に」子シャチに狩り教えると説明されていることがあります。これも、自然としては当然なのを、ムリヤリ親的に解釈している表れと考えます。 要は、親的ヒト的にすべて解釈可能かどうかにかかっていると思われます。
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- DQragnarok
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それでも問題は無いと思います。 大事なのはそれを「どのように使い、何を教えるのか」ということです。 今の教育の問題は人間社会の汚い部分を子どもに教えないことです。
森のくまさんは、アメリカ民謡で、もともとの話は、熊はあぶないよ、とい喩えの無い、森で熊に会えば逃げよ、というそのまんまの「教育的」なもののようです。日本版では、熊は喩えであり、差別などを題材にした「教育的」なものと思われます。サディストまで行くと、「教育的」とは言えず、「病的」だと思います。この世は、そんな猟奇的人間が中心の社会ではありません。
お礼
まさに然りですね。くさい物を蓋しない!という大判風呂式を広げてこそ、真の教育的成果があるのです。