- ベストアンサー
mistakenについて
I am mistaken for my brother.「私は兄と勘違いされる」 は分かります。しかし I am mistaken about you. 上の英文が、下の英文の意味だと(辞書に)言われても、はいそうですかという素直な気持ちにはなれません。 I am wrong about You 「私はあなたを誤解していました」 「I have mistaken」という事態がほとんど形容詞化して「be mistaken」が受動態ではなく理解されるようになったのでしょうか。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
興味深いご質問ですね。 ご回答#2の方の「気分」のご説明がいいですね。ご質問者さんの「転義」ということばは私も気に入りました。 >「mistaken」はあくまでも「間違えらている」という形容詞であり、そこからどうして「間違っている」という形容詞へ飛躍したのかという疑問なんです。「間違っている」という辞書の定義を認めずに、なぜそういう「転義」が論理的に可能なのかということなんです。「mistaken=wrong」という等値が成り立つ前の、それうより一呼吸前のところが、どうも解せないで、もやもやしています。 お気持ちはよくわかります。 こういうときにmistakenのように、本来他動詞である動詞の過去分詞が受け身の意味ではなく、能動の意味を表すのは一見不合理に思えますが、実際には語の用法として歴史的に「能動的な意味に受けとられる」ようになって(=「転義」されて)いったものがこのmistakenも含めて他にも例があるとするならば、少しは「もやもや」が減るように思いました。 そこで先駆者がこの問題をどのように記述しているかを今回ちょっと調べてみました。するとこのような例がこのmistakenも含めていくつかあることに先人も気づいていました。 (1) まず、I was mistaken. の意味は次の1の意味で解釈するのが確かに普通でしょうが、nativeでも文法家の中には2の意味であると主張している人がいるそうです。おもしろいですね。 1. I made a mistake. I made a mistake. I was in error. 2. I was improperly interpreted. I was misunderstood. この点はB. Evans & C. Evansの_A Dictionary of Contemporary American Usage_に触れられています。 (2) さて、このmistakenのように「他動詞のあるものの過去分詞は、起源的には受動的であったのですが今日では能動的な意味に受けとられる」(石橋幸太郎『英語語法大事典』大修館のp.806)といったものがいくつかあり、他には、 3. The man is “drunk”. (= The man has drunk too much.) 4. He is “read” in the classics. (= He has read much in the classics.) などが同書に挙がっていました。 具体的な説明としては上の4のreadは以下のように説明されています。 「このreadは元来他動詞として受動的な意味をもっていたもの…ですが、現在では形容詞として能動的な意味に変わっているということができます。それはさらに叙述的(Predicative)用法から限定的(Attributive)用法となり、a well-read clergyman(博学の牧師)のようになるわけです。」 (以上はPoutsmaの_Grammar_などをもとにした解説だそうですが、Kruisingaの_Handbook_のようにこの過去分詞のreadを自動詞の過去分詞だと考える人もいるそうです。) (3) 上の(2)の「叙述的(Predicative)用法から限定的(Attributive)用法となり」の部分が気になって寺澤芳雄『英語語源辞典』(研究社)で形容詞mistakenを調べてみました。 2.(1601-2) 「思い違いをした」(つまり、上の(1)の1の用法?) さらに、「人の意見・行動について『誤った』の意で用いられるようになるのは17C後半から」とあります。 どうも「叙述的(Predicative)用法から限定的(Attributive)用法となり」という歴史は形容詞mistakenにも当てはまるようで、 「思い違いをした」 ⇒ 「人の意見・行動について『誤った』」 と用いられるようになったようですね。 この限定的(Attributive)用法の同様の例としてPoutsmaは次のようなものも挙げています。 a cultivated man (= a man who has cultivated many acts and sciences) a learned man (= a man who has learned much) a practiced man (= a man who has practiced something very much) 余談ですが、語義の1には (1540-1744) 「取り違えられた」(つまり、上の(1)の2の用法)が挙げられていますが、そこには†(ダガー)が付いていますので「廃語義」扱いです。上の(1)でご紹介した硬い文法家の主張はわからないわけではないですが、実際にはすでに用いられなくなっているということなのですね。 以上周辺部分についてのレポートでしたが、今回は私も勉強になりました。
その他の回答 (4)
- KappNets
- ベストアンサー率27% (1557/5688)
No.3です。他も同じですが、例えば a mistaken assumption (間違った前提) はわかると仰った筈ですよね。この mistaken の意味は決して「間違えられた」ではなくて「間違った」です。
お礼
何度も恐縮です。 この文を発している人の念頭には、「間違った前提」というからには「正しい前提」が想定されていると思います。 「間違った」は「取り違えられた」結果「間違った」のでしょうから、(発言者の観念の)どこかで「取り違えられたという操作」が起こっているはずです。 「間違った前提」ならばその操作をして意味が成り立つ(だから「わかる」と申し上げた)のに、「間違ったわたし」の場合はその操作がそもそもできないのですから、すこし論理構造に違いがあると思ったわけです。 「初めに〈間違った〉ありき」というのではなく、「間違った」の意味が固定される一瞬前の「論理の操作」が……こう言い換えてみます、むしろ「I am mistaking」なら理解できると。「mistake」が「AをBと取り違える」が原義ならばです。 回答者さまがおっしゃるように、結果として「間違った前提」等々という表現が長年使われている間に、「mistaken」という形容詞が独立してできて、それの意味は「wrong」だということになったのだと思います。そう割り切るべきなのでしょう。(割り切れなくて質問したわけなのですが、しつこくてすみません) (もう「mistake」とは別個のものと見るべきで、だから英英辞書なども別項にしているのかもしれません) わたしは「interested」や「excited」との連想から、どうしても「mistaken」の形が腑に落ちないのでしょう。 いずれにしても、お陰様で、「転用」(この理解が間違っていなければ)だということはだいぶはっきりしました。 ありがとうございました。
- KappNets
- ベストアンサー率27% (1557/5688)
No.1 です。 私が挙げた例が納得いくのなら、当然下記も納得いきますね? 形容詞 (mistaken = wrong) を後置にして、さらに that is をつけて関係詞に変えただけですから。 a mistaken view of the situation = a view of the situation that is mistaken/wrong a mistaken assumption = an assumption that is mistaken/wrong それなら、 That is mistaken. や I am mistaken about it. は納得いくのでは? いきませんか?
お礼
ありがとうございます。 順に訳してみます。 「正しい状況判断(A)が先行的にあって、それを勘違して得られた判断(B)が後発的にある、AがBに取り違えられたその判断は間違っている」→「間違った判断」 「間違った思いこみ」も同様です。「正しい思いこみが間違った思いこみに取り替えられた」→そこにあるのは結果として「間違った思いこみ」 「これは(何かと)取り違えられている」→「これは間違いだ」 以上の三つは違和感なく理解できます。 だが、です。 「わたしは」(何と取り違えられて)「間違っている」ことになるのかという点に悩まされているわけです。 「mistaken」はあくまでも「間違えらている」という形容詞であり、そこからどうして「間違っている」という形容詞へ飛躍したのかという疑問なんです。「間違っている」という辞書の定義を認めずに、なぜそういう「転義」が論理的に可能なのかということなんです。 「mistaken=wrong」という等値が成り立つ前の、それうより一呼吸前のところが、どうも解せないで、もやもやしています。
- grand
- ベストアンサー率39% (43/110)
鋭いご指摘ですね。 >「わたしがわるうございました、誤解してました」という状態を表現しようとして「be」が出現し、 私もそんな感じだとおもいます。 >それから完了したという気分で過去分詞「mistaken」を思いついた 「完了」というより「受け身の気分」で思いついたんじゃないですかねえ。 何らかの作用を受けて私は間違ったんだと。 それが欧米人得意の「神の意思」なのか「デステニー」なのか良く分かりませんが。 確かに普通、間違いというのは自ら進んで積極的にするものではなく、 何らかの要因によって、しょうがなく間違ってしまうわけで、 「わざとじゃないよ(この誤解の真の行為主体は私じゃないよ)」 というところは言い訳しておきたいところではあります。 「でもそれなら「私」はmistakeされたんじゃなくてmisleadされたんだろ」といいたくなる気持ちは良く分かります。 この問題私にはこれ以上論理的に答えられません。
お礼
真っ向勝負のご説明に感謝します。 あくまでも「受け身」なんですね。 「完了」ではなく「受け身の気分」というご指摘も味わい深く受け止めました。 「I am wrong」なら自分の過ちを100%認めたことになるが、「I am mistaken」はどこか言い訳めいて、逃げ道をつくっている、と。「本来の私」は「間違った私」に(神によって?)取り違えられた→「I am mistaken」→「間違ってるけど、悪意はありません」という推理ですね。どうも、そんなところが真相のような気もします。 「mislead」。 うーむ。 これはまた悩みが増えそうです。とまれ、ありがとうごさいました。
- KappNets
- ベストアンサー率27% (1557/5688)
(何故と聞かれても困りますが...そうですね...) 下記はすべて mistaken = wrong (inaccurate, misinformed) と置き換えられます。自然に思えますか? a mistaken view of the situation a mistaken choice a mistaken question a mistaken name a mistaken protest a mistaken impression a mistaken transfer of money a mistaken assumption 思えれば I'm mistaken about it. はそのちょっとした応用動作ですね。
お礼
ありがとうございます。 多くの的確な例を挙げて下さり恐縮です。 例はどれも自然に理解できます。 ところが例を見れば見るほど「I am mistaken about it」は受け身に見えてしかたありません。どこから見ても受動態じゃないか!と。 「this book sells well」と同じで、主語と目的語が反転しているのかとも思います。 「I made a mistake about it」ならすっきりしていますが、これでは一回きりの行為ですから、「わたしがわるうございました、誤解してました」という状態を表現しようとして「be」が出現し、それから完了したという気分で過去分詞「mistaken」を思いついたのでしょうか。 誤用なんだけど、それが慣用されるにいたったという説明であれば納得できるんですが(ご都合主義ですけど)。 いま辞書をみると、「mistakenly」という副詞が「間違って、誤解して」というふうあり、「ly」をとれば、問題の例文の用例になるようにも思われます。 でもそうすると「it is mistaken that I took ---」となるのが筋じゃないのと意地になるわけです。 いいたい意味を優先するという力学が働いているのだと納得することにします。
お礼
お礼おくれて大変失礼しました。 じつは管理人から2週間もほったらかしでどうするというお叱りメールを昨日いただくまで失念していました。 こんなに的確精緻な回答をいただいていた(have pp)とは知らず、ほんとうに申し訳ありません。 でも、ねばった甲斐があって、これですっきりしました。 「a learned man」という語例にはおもわず唸りました。 やはり、にらんだとおり(?)「転義」でしたか。 でも、受動から能動への「論理」がいまひとつ納得しがたいですが。英語学者の胸中では、その論理が解けているのでしょうが、書物のなかで述べるには証拠不十分とみているのでしょう。 ここは、そこをぶっちゃけて本音をきくという場所であれば理想です。 「I am」と切り出しておきながら、「I have mistaken」という視点が、切り出した文頭に「上書き」されてできたものとわたしなりに理解します。 ありがとうございました。 追伸 ここで言うのも変ですが、石頭の質問者を再三説得してくださった他の回答者さまにも深く感謝申し上げます。 敗戦記念日の翌日 蝉の声を聞きながら 2009年8月16日