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他者の賞賛や関心を第一に生きてきた

私は今、自分の生き方に疑問を持っています。 私は幼少の頃から他人の賞賛を得るために様々な物事を考えてきたように思えます。 何をするにしても動機の根源に、他人から見た自分(理想像)があった気がします。 もちろんそういう欲は誰しも多少なりは持っているとは思いますが、私の場合、その欲が、人生の生きる活力のほぼ全てを占めているように思えます。 私の生きる意味はそこであると言っても良いのかも知れません。 こういう欲で突き進んでしまう人も中にはいるのでしょうが、私の場合「熱しやすく、冷めやすい」性質を持っているため、あまり持続しません…。 無遅刻無欠席にしよう!と心の中で決めても、結局それは「無遅刻無欠席である真面目で信頼のおける僕」という他人の評価を得たいからそう決心しているんです。 一体僕は何がしたいのでしょうか…。もうこの欲を価値観に生きていってしまえばいいのでしょうか。 今は気分が良いほうなのでまだいいのですが、関心を得たいためなら犯罪とか、そういうダークで変態的な側面からでも攻めてやってもいいぞという、恐ろしい野心がある気もします。 とても自意識過剰な性格なのですが、このまま生きていっていいのでしょうか。

みんなの回答

回答No.3

>とても自意識過剰な性格なのですが、このまま生きていっていいのでしょうか。 いんじゃないすか? ただ、謙虚さを忘れないことだね。 賞賛を受け続けると得てして人は、横柄な人間になるので・・・ 政治家なんかいい例でしょう。

noname#97232
質問者

お礼

横柄になる気はしません…。 謙虚ではないと思いますが、そこまで堂々と出来る自信もないし、快楽も得られないと思うので。 回答どうもです。

  • umemints
  • ベストアンサー率50% (7/14)
回答No.2

貴方のおっしゃっていることは本当によくわかります。私がまるでそうだからです。 他人の評価を得たいから行動するんですよね。 心の中に常に第三者の目線があって、自分の行動の最終的な判断はその第三者の思う是非に任せられる。 例えばどれだけ個性的でお洒落なファッションをしても、それは自分が心からしたいと思っているからそのファッションをしているのでは無くて、他のお洒落な人から見て、自分のことを個性的でお洒落だ、と思われる為にやっている...と言ったところでしょうか。 私の場合、その第三者というのは自分が所属しているグループにより異なるから(大学やバイト先など)、グループによって様々な自分が形成されて、結局本当の自分なんていないんじゃないか、いやむしろこのように他人の評価に任せて生きているのが本当の自分なのでは...?と自己嫌悪に陥ることもしばしばです。 しかし皮肉にも、私は心の中の第三者の目線のお陰で、他人の心中を察するのは得意な方だと思っています。だから、どのグループにおいてもそれなりに上手くやっていっていると思います。 私が思うに、貴方もその周囲の方々と一般的に言う良好な関係を築いておられるのではないでしょうか? だとしたらこれは社会的な利点とも言えますよ。せっかくの自分の性格なのだから、利点も見出さないとつき合ってられません。 >関心を得たいためなら犯罪とか、そういうダークで変態的な側面からでも攻めてやってもいいぞという、恐ろしい野心がある気もします。 と仰ってますが、貴方にはそれは出来ませんね。何故ならその行為はダークで変態的な側面のある人間からは支持されると思いますが、貴方の周囲の方はその行為を支持することはまずないでしょう。 それに気づいた貴方はそのような行為はしません。 熱し易く冷め易い性格とのことですが、やはり私もそうで、色んなことに興味を持ち、少しかじっては飽き...を繰り返しています。 でも色んなことに興味を持つことは決して悪いことではありませんよね。その内本当にしたいことが見つかれば、きっと私も本当の自分の意志、動機で行動できるようになると信じています。 また最近は、自分の意志、行動に所属グループに関わらず、一貫性を維持する様努めています。 貴方もこのようなところから努力を始めていけば良いのではないでしょうか。 大丈夫です。きっと変われますよ。お互い頑張りましょうね。

noname#97232
質問者

お礼

私も、他人の心の痛みなどは、人よりかは少し敏感に感じれるのではないかと思います。 たしかに、利点も見つけ出していかないとやっていられませんね。 しかし、利点を見つけて何か意味があるのでしょうか。 はっきり言って私はポジティブとか、前向きとか言う言葉にうんざりします。 ネガティブの中から生まれる強大なエネルギーを信じれば良いじゃないかという変テコな思想に陥っています。 ただの天邪鬼なのかもしれません。 何も、信じれないのです。 良心もモラルも何も信用できないのです、だからやらないんです。 少し実績してみて、清く生きようと思ったこともあります。 しかしどうも力んでしまうし、なんだか面倒くさくてくだらないと思って、また今の状態に戻ってしまうのです。 あなたは考え方がピュアなところがいいなと思います。 別に僕の方が大変なんだと言っている訳ではありませんが、 私は何も信用できるものがないのが悲しいです。 考えてばっかりいて、何もしないからいけないとも言われますが、実際やってみてもなんかくだらなく思えてしまいます(続いて1週間程ですが)。 回答ありがとうございました。

回答No.1

芸能人を考えてみるとわかりやすいのでは お客様の拍手の質量で自分の価値を確認するんですよね それがなければ芸能人できません 拍手や歓声があり、売り上げの数字が目に見えれば、それで安心して活動を継続できます しかし、それらが無くなってきた場合、その理由を自分のふがいなさとするか、事務所の力のなさとするか、お客の感性にするのか、そこで道は分かれるんでしょうね 他人のせいにできる人は犯罪方向に向いてしまう可能性高いですよね 自分が悪いわけではなく、社会が悪いということですから、社会に対して牙を向きはじめます怖いですね 一方、自分のせいだと考える人は猛勉強に走ります 再生に向けて自分で動き出すんでしょうねこれもある意味では怖いですけど。 数字が下がってきた場合にいちばん簡単で健康的なのは、他人の知恵や力を借りることです

noname#97232
質問者

お礼

私は幼少の時から割りと、自分のイライラの矛先を他者に向ける性質があると思います(親だったり、先生だったり…) 結局他の人から説教されたりすると、それが自分の責任であったと思うのですが、その説教されている自分がなんだか格好悪くて、もういいや、ぐだぐだ理屈言ってる奴らがうざってぇ、感覚でむかつくと思ってるから奴らはむかつくんだよ、それで何がいけないんだ、と開き直ってしまいます。 しかしそういう考えもどうせ後に自己嫌悪に陥るのですが…。 猛勉強か…羨ましいですね。僕も猛勉強はしたいと思いますが、「猛勉強しているストイックな自分」というキャラを得たいがために猛勉強したいなと思ってしまいます(野口英世の本を見てそう思いました) どうも私はヒーローに強い憧れを抱きます。 そして大勢の人たちの賞賛が欲しいのです。 賞賛や、特異の眼差しで見られることにたまらない快感を覚えるのです。

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