- ベストアンサー
荒れたお墓へのお墓参り
お墓参りに関して質問です。20年ほど前に両親が離婚して以来父や父方の親戚とは疎遠になっているのですが、最近お墓のことが気になっています。 人づてに聞いた話ではお墓は草が生え放題、お墓に行くまでの山道ですら草で遮られ、前に進めないような状態だそうです。父の実家も現在誰も住んでおらず家の鍵を締め切っているため、中にある仏壇もここ数年開かれていないとのこと。 それでも祖父、祖母が眠るお墓なので一度お墓参りに行きたいと思うのですが、その話を知り合いにすると、「きちんと祀られていないお墓に行くと悪い霊に取り憑かれるから行ってはいけない」と止められました。 それならば自分で草むしりや掃除をすればとも思うのですが、とても1日2日できれいにできるような状態ではないし、また諸事情により父や父方の親戚と連絡を取ったり会うことはしたくありません。 たとえ先祖が眠るお墓でも、荒れている状態では本当にお参りしないほうが良いのでしょうか?またお墓参りの他に先祖を供養する方法はありますでしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
僕は勝手に浄土真宗の信者を名乗っているものですが、先祖供養と御利益は関係がないと思います。 明治以降に立ち上げた<新興宗教>は、現生御利益と先祖供養を旗印にして勢力を伸ばしましたが、仏教を都合よく利用しているとしか思えません。 ただ、あなたが先祖のお墓に行ってお参りをしたいという気持ちは、立派な<御縁>だと思います。 輪廻転生ということからすれば、今生で父母親子であっても、前世や来生において確約されたものではないというのが本筋ですから、先祖という繋がりを特別視しないのが仏教とも言えます。 でも、祟りがあるとか御利益があるとか、そんなことには拘らないであなたがお墓に参りたいという気持ちが起きたことを大切にすればいいと思います。 あなたに起きた心の変化は、それはそれで必然と言えます。でも、これをしたからどうのという浅知恵で判断しないでください。 「歎異抄」にこういうことが書かれています。 「この世に起きる出来事は(鳥の羽根先につく塵までも)、前世の因縁によらないものはない」と。つまり、ご先祖様の影響ではなくあなた自身の前世の因縁によるものだということです。 亡くなられたご先祖は、仏様になられてあなたを見守っているでしょう。 つまり、煩悩多き我々が御参りをしたからといって、仏様になられたご先祖の位をあげることなんてできるわけがありません。 でもね、あなたが先祖のお墓に行って掃除をしてあげたいと思ったのですから、そうすべきですよ。
その他の回答 (3)
私は、日蓮系仏教宗派の1つである、日蓮正宗の宗教団体の一人の者です。 私の回答は、そういったものの考えが根底にありますので、御了承ください。なお、参考になればと思い回答致しますので、必要なければ読み飛ばしてください。 仏教の目的は、成仏です。成仏とは何かと説明すると、収集がつかなくなるのですが、簡単に言うと「救い」です。 人は、 自分の身から生じる気持ち、 自分の身から生じる力(能力) その他、運命的な縁や因縁 によって幸福にも、不幸にもなります。 これらは、自分の意識では、どうにかなるものではないと私は感じているところです。多少の人生の経過や、自分の努力で変わりますが、周りめぐって根本的な苦というものは解決できないのではないかと思います。 根本的な苦や幸というのは、仏性に大きく関係があります。仏性を開くためには功徳という徳が必要です。功徳の徳の反対が業であり、業があるが故に、無明(解らない、迷い)、煩悩・執着(のちのちで破綻する考えや条件に応じて適切・不適切を考えない思い込み、苦から逃げようとして、さらに追いつめられるような選択をしてしまうことなど)があり、苦であるとされています。 生まれ変りも、今生の自己の変化も、功徳と業の量が関係していて、功徳が多ければ、良い環境や良い師、良い親、良い内在する力を持ち、幸と感じ、 業が多ければば、悪い環境、悪い師、悪い親に巡り合わさたり、無力さを感じることがあり、苦と感じます。 仏教の境涯・境地に、縁覚(えんがく)というものがあり、自然現象(実体験)として悟りを得る境涯があります。修業をしていけば、実体験として知恵や気持ちの生じ方が変わってきますが、修業をしていないものに理解しろと言っても到底無理なことなどで、信じて貰えるとは思っていません。 前置きが長くなりましたが、 仏教に詳しくない人でも、先祖を供養するということは、先祖が少しでも幸せになって欲しいと思うからだと思います。死後、苦しみもがくよりも、安穏として欲しいという願いからだと思います。 日蓮正宗的解釈言えば、 先祖を供養するということは、功徳を与え、業を消滅し、 少しでも仏さまの境地、境涯に近づく(成仏に近づく)ためであり、 少しでも苦を消滅し、幸を生じさせるため さらに、生前に、日蓮正宗に縁のない方や、修業をしなかった者、この宗派の教えを去っていったもの先祖ならば、自ら苦を消滅できる境地や環境に至って欲しいという願いから するものです。 私は日蓮正宗の供養の1つでは、お塔婆というものがあり、お墓の後ろの供え、御経を上げます。 ですので、お墓はきれいにし、行ける環境も整えた方が良いと思います。また、無理なら、お墓を移し、1月の命日には行けるようにしたが方が私は良いと思います。先祖のことを思うならなおです。 >きちんと祀られていないお墓に行くと悪い霊に取り憑かれるから行ってはいけない 私の宗派の解釈や実体験からすると、ありえることです。 救われる環境、愛がある環境、心地よい環境、良質な環境というのは、あります。逆に言えば、その逆もあると思います。 汚い家や部屋に住めば、気分も暗くなる、そういったものがあります。 しかし、それを変えていくのは、基本的は、自分しかありません。辛いかもしれませんが、臆せずに、変えていくことが大事だと思います。 仏壇に関してや上記に関してなのですが、仏教には教えの勝劣や効果があるなしがあります。日蓮正宗の修業をしない人には決して解ることはないのは、上記で書いた通りです。 私はすべてを悟ってはいませんが、この時代において、功徳を積む根本的な方法は、日蓮正宗の3代秘宝に対し、信じ(後利益を願い、自分の人生の時間を費やす、賭ける)、南無妙法蓮華経をと唱えることだとされています。 この宗派だけなのか、他の宗派にもそういったものがあるのかどうか解りませんが、私自身、長い修業の果て、この宗派では功徳を得られると感じているところです。 この日蓮正宗の教えには、3代秘宝に対し、信じ(後利益を願い、自分の人生の時間を費やす、賭ける)、南無妙法蓮華経をと唱えることが、最上であり、他宗、念仏宗、律宗、禅宗、天台宗、法華宗、日蓮宗、真言宗では、功徳を積めないと言われています。(私自身、他宗の修業をしたことはないので解りません) ですので、その解釈からすると、日蓮正宗以外の御本尊様や曼荼羅を拝むことは、業を深め、功徳を減らし、自らの境涯を下げると言われていて、それに基づいた先祖の供養もするべきではない(してはならない)とされています。 何度も書くように、普通の人は信じれないし、そのなの嘘と思われて当然だと思います。もし、そう思うなら、それはそれで良いと思います。ただ、何かのきっかけに思い出していただけたら幸いです。 質問者さんがこの周派に入信したところで、私には何の価値もありません。質問者さんが救われたり、先祖が救われればそれに越したことはありません。ただ、私も含め、それがよく解らない(無明である)と思います。 ただ、この話を聞いて、何か思うところがあれば、日蓮正宗のお寺にも電話して聞いてみてください。 宗教団体なので、怪しい感じもあると思います。もし、怪しいと思えば、質問をたくさんした方が良いです。なお、お金のことは最も、明確に聞いておいた方が良いです。良くない宗教団体は、金儲けであることが多いですから。 最後に、自分の人生を大切にしてください。私は、仏教の最大目的は、「救い」であると感じています。そのために、しなければいけないことがある。それが教えである訳です。修業は行動であって目的はでない。 健康な生活を送るためには健康になる生活をしなければならない。 それと同じように、自分の力ではどうしようもないことから救われたいと思ったなら、そうなることをしなければならない。 ただ、私たち人は、それが何なのか確証を持つことができない。 だから、自分のすべての感性を最大発揮して、それを見つけ、探して、それに残りの人生を賭け(信じ)ないと、救われない。 ただ、見つかるかどうかも解らない。報われるかどうかも解らない。 ただ、しなければ諦めるしかない。諦めの境地になるしかない。 何かの参考になれば幸いです。
お礼
ご回答どうもありがとうございます。 自分の人生を大切にする、という言葉に考えてしまいました。 頂いたご意見を参考にさせていただきます。
>きちんと祀られていないお墓に行くと悪い霊に取り憑かれるから行ってはいけない」と止められました。 そんなことはないでしょう。 あなたが邪悪な心を持っていれば寄って来ることはあるでしょうが。 悪い霊なら酒場や繁華街などどこにでもいます。 墓というのはただの石です。死んだ人は墓石の中に入っているわけではありません。土の中に居るわけでもありません。 この世とは別の次元の世界で、今もしっかりと存在しています。 草が気になるのであれば掃除しましょう。 そもそも供養とはなんなのでしょう? 墓石を水で濡らすと故人は癒されるのでしょうか? 意味不明な呪文でも唱えてもらうと故人は嬉しいのでしょうか? 墓参りをする気持ちは大事だと思いますが、墓参りなんかしなくても供養はできるのです。 気持ちが一番大事なんです。 目を閉じて心の中で語りかければその想いは確実に故人に届いています。目を開いていてもいいですが。 墓に行かなくても想いは通じています。おじいさん、おばあさんに心配をさせないような生き方をするのが一番の供養です。 草をむしり取るより、仏壇を磨くより、あなたが笑顔で幸せに生きている方がよっぽどおじいさんおばあさんは嬉しいでしょう。 草を引っこ抜いてくれ! 仏壇を開いてくれ! 墓石に水をかけてくれ! 花を置いてくれ! なんて怒ったりしないでしょう。 心配をさせない、安心させる、それが一番の供養です。 と私は教わりました。
お礼
ご回答有難うございます。 正直自分でも気になるものの、自分ひとりではなんともならないこともあり 考えるうちに形式にとらわれて本来の気持ちを見失っていた気がします。 頂いたご意見で、それに気づきました。 心配させない、安心させるように日々をすごしたいと思います。
- misaemasa
- ベストアンサー率16% (87/532)
あなたは正しいです。 大変でしょうが、」実行してください。 祟りなんてありません。 お墓参りと掃除をして、供養しましょう。 きっとびっくりするようないいことが起きるでしょう。
お礼
ご回答有難うございます。 いいことが起きるかどうかは分かりませんが、近々お墓参りには行ってみようと思います。
お礼
ご回答有難うございます。 そうですね、お墓に行きたいと思う気持ちがあるなら、その気持ちを大切にしてまず行ってみたら良いんですよね。 ご意見いただいて、お墓の状態が聞いている以上にひどかったら、、、とか、父方の親戚に会ってしまったらどうしようと考えてうじうじしているほうがよくないと思いました。 近々時間を作って、とりあえずお墓参りに行ってみようと思います。