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挨拶ってそんなに正義?

一般に挨拶をするのは、良いこととされていますよね? でも、これは一種の押し付けのような気がするんです。 私は子どもの頃、かなりの人見知りでした。 親しい友人や、先生にしか挨拶をしませんでした。 それ以外の人間に挨拶をすると、 「なんで自分は親しくもない相手に挨拶してるんだろう…」 と感じてしまいます。 私にとって挨拶とは「親しさの確認」であって、 面識も接点もない相手にするのは、不自然だとしか思えません。 生理的な気持ち悪さがこみ上げてきます。 もう社会人なので、挨拶が礼儀の一種だというのは理解できます。 ですが…挨拶をさせたがる人って、なんでああも 「オレが正義だ!」みたいな態度が多いんでしょうか? あちこちの相談サイトを見ても 「挨拶が返ってきません。相手はいったい何を考えてるんでしょう?」 「親に躾られなかったのよ。育ちが知れるわ」 「挨拶もできないで、仕事ができるか!」 「はぁ?挨拶なんて当たり前じゃん。根暗キモっ!」 こういう、相手を見下したような返事が多くないですか? 特に「大きな声で挨拶すると、気持ちがいい!」と主張する方がいますが、 私は「そんなの人によるだろ。押し付けるなよ」と思います。 アンタは気持ちいいかもしれないが、人見知りとか、 苛められて人間不信とか、親しくない相手にするのは変じゃないかとか、 挨拶を「気持ちいい」と感じない人間もいるのに。 そういった相手の心理を、なんで誰も配慮しないのでしょう。 仕事などで、相手への心象が大事だということは分かります。 ただ、あまりにも挨拶を主張する人たちが、 「挨拶は気持ちいいに決まってる!」 「そう思わない人間は変だ!」 みたいな、カルト宗教並みの信仰を持っている気がしたので。 なんで「挨拶は気持ちいい!」と思う人は、 そうでない人も自分に合わせて当然だと思うんでしょうか?

みんなの回答

  • Vwiyoonn
  • ベストアンサー率35% (162/455)
回答No.9

 えー、あいさつというのは自分と相手の双方が同じ集団の一員であることを確認するための一番最初の合図なんです。  ですから、集団の一員としてふるまわねばならない立場にあってもなお、あいさつがちゃんとできない、もしくはしない、というのは集団の一員ではない、もしくは集団に属することを拒否している、と表明しているのとおんなじことなんです。  つまり、いいとか悪いとかではなく、そうした手順を踏むことによって人(以外もなんですが)は初めて集団の一員として認められるんです。逆にそれを否定しときながら集団の一員としてふるまうとしたら、集団から排斥されるのは極々当然のことなんです。  そういったものですから、仕事のパートナーと挨拶をしないのであれば協力関係を軽視している人物であって当然仕事が上手くゆくとは思われないことでしょうし、集団の一員としてふるまうための最初のステップをちゃんとした形で教えない親であればそれもまた問題ありと判断される訳なんです。  で──もちろんのこと、合図なんですから、互いに分かりやすいに越したことはありませんよね。ですから、(秘密結社の類いでない限りは)身振りはある程度の距離があっても分かりやすいもので、声もそれなりの大きさでなくてはならないのは分かりますよね。  しかし、他者を集団の枠の中で管理したいという欲求を過剰に持った人物(体育会的な人なんかに結構多いですよね)などは、その人物が合図としての機能を超えて過剰に分かりやすい挨拶を返すことによって集団に対する帰属であったり、自分に対する服従を表明していることを確認したい訳なんです。逆にいえば、裏切られることに対する恐怖の表明ともとれなくもありませんが。  ──っていうかそういう空気を感じさせる人物に反発を感じて、あいさつってなに? なんて疑問を抱かれたんでしょうか。そんな感じがするんですけど。あからさまに服従の証としてあいさつを求められれば、そりゃ、嫌なのは分かりますよ。わたしだってそういう御仁は嫌ですもん。

  • Rerek
  • ベストアンサー率22% (12/54)
回答No.8

挨拶が慣習化されているのは、やはり挨拶が人々の日常において “人間関係を円滑にする要素”として暗黙の機能を果たしているからだと思います。 よって大半の方が挨拶を行いますし、本文の「オレが正義」の意味合いこそ掴めませんが、挨拶はすべきと思う方が多いのは当然の流れです。 彼方の挨拶に対する捉え方は社会において少数派の意見と考えられます。 実際のところ、挨拶を「気持ちいい」と感じない人間がいるというのは 日常において想像すら及ばないことが多いので、配慮に至ることもなかなかないでしょう。

  • kenji_aki
  • ベストアンサー率50% (29/58)
回答No.7

「人それぞれ」の緩衝材として「挨拶」はあるのかもしれないですね。 貴方は、そういう考えかもしれないけれど、他人も他人で様々な考えを持つ人が居る訳です。 人は、自分の主観でしか相手を推し量る事はできないものです。 自分は正しいと思いたい、または信じているわけですし 自分の理解と食い違う事象があるとストレスを感じ不快に思うのです。 そういった、複雑な問題を一応の決まりごとを作ることで緩和しているのです。 それが「礼儀作法」といった文化なのです。 ただし、「当たり前」とは当然論理的整合性のある理由が必要な訳ですが、「常識信仰」は厄介なもので「常識だから」「当たり前だから」としか理由が見つけられない場合も多いものです。 それが、文化として根付くと肥大化して貴方のような考えを否定、弾劾しようとするのです。 それは、異教徒を排除しようとする宗教と変わらないこともないのでしょう。 ですから、一度思考をめぐらせて「どうしてだろう?」と疑問を抱き、「なるほど、こういう考え方もあるのか」と”互いに”理解しあうことが大事なのです。 貴方は、貴方自身を理解してもらいたいとお考えかと存じますが、相手も自身を理解して欲しいと思っているはずです。 相手が「挨拶は常識」と信じてやまないのであれば、貴方はそれを理解して、余計な軋轢を生まないよう相手に合わせることも必要だと思います。 しかしながら、どう考えても貴方が精神的に苦しむ結果になるだろうことは明白ですね。 現代では、人間の内面・精神面はいくらか理解されるようになってきてはいても、やはり誤解や齟齬が多く悩み多き時代だと思います。 貴方に、特別アドバイスできるほど私も他人を理解できている訳ではありませんので解決策などを提示できないことは大変残念に思います。 私自身が「挨拶」に対して思うことは、 相手が「挨拶」でよろこんで頂けるのならば気持ちよく挨拶いたしますし 相手が気持ちよく「挨拶」してこられたのなら、私は喜んでお受けしたいと考えています。 私自身は、日常会話など必要とは思いませんし、必要な会話では導入も社交辞令も挨拶も要らないと考え できれば、端的に本題だけの効率的な会話を望みます。 勝手ですが、押し付けようとは思いませんし、相手のことも理解したいと願っているわけです。 参考にならないかもしれませんが 一つ、肯定的な意見として聞いていただければ幸いです。 人が、より大勢の違った人たちを理解し融和できる時代が来ることを望んでおります。

回答No.6

挨拶というのは面倒だから価値があるのです。 他人のために余計な動作をするという行為によって、「この人は自分に敵意が無いんだ」ということを示し、また自分でも相手に敵意がないこと、コミュニケーションを取る意志があることを示します。 だから厳密に言えば挨拶は「嫌なもの」な筈なのです。 「挨拶が気持ちいい」と言っている人は、あくまで挨拶に挨拶を返して貰った時の「繋がった」感じが気持ちいいのです。 まあ時には挨拶の動作そのものが楽しくて仕方無い人も居るかも知れませんが、そういう人は得してるんだと思いましょう。 挨拶が面倒だからこそ、それを他人のためにすることに価値が生まれるわけです。 ですからあなたが挨拶を嫌がったり面倒臭く思ったりしたら、それはあなたが挨拶の価値を重く理解している証拠です。 ですがその上で、出来るだけ挨拶をするようにしましょう。「見知らぬ他人に」「親しくない人に」と思うかも知れません。ですが、そういう人、自分を理解していない相手にこそ、自分が敵意を持っていないということを見せるべきです。そうすることで、相手の気持ちがある程度測れます。つまり挨拶は相手を測る手段でもあるわけです。 挨拶が気持ち良いから、お互いに挨拶してお互い幸せになる、というのは嘘です。挨拶という行為そのものは面倒な行為なのです。でも、面倒だからこそそれによってお互いに善意、好意を確認出来るのです。 挨拶は正義ではありません。 「皆面倒だけど、相手に気を遣ってやってるんだな」 そういう風に考えてやって見てください。

  • formidable
  • ベストアンサー率15% (470/2940)
回答No.5

私は、森羅万象に対する挨拶として俳句をつくっているのですが、 挨拶は、元々が悟りの深さを示す禅用語で、 《挨拶したけど無視された》 《挨拶したけど挨拶が返って来なかった》といった感覚とは 無縁というか、そのとき、そのときの気持ち・気分など 内面の事情に左右されず、普遍的に、いつもコンスタントに に挨拶できることが悟りだとおもいます。 まぁしかし、たとえば、 両親が交通事故で、一瞬にして死んでしまい、これから どうしようかという考えに沈みながら学校に来て、 (何も知らない人たちが知らないがゆえに)明るい笑顔で 挨拶してきたら(悟りは、ともかく)よほどの心的レヴェルにある人でないと、 同じような明るい笑顔で挨拶を返すことはできないと思うのです。 それが自然な人間だとおもいます。 但し、営業・飲食業etc.の接客のミッションに従事するプロであれば、 心の切り替えが必須というか基本じゃないかと思われます。 《両親が一瞬にして亡くなった状況では「いらっしゃいませ」 「ありがとうございました」なんてとてもじゃないが言えっこないよ》という 感覚にある間は、お店に出たり、 営業活動に行かずに、自宅で喪に服しているべきなんだとおもいます。 挨拶は悟りの流れにあるので、押し付けではないと(私は)認識しております。 禅の言葉である挨拶が、宗教の言葉で、挨拶行為も含めて、不快で 嫌悪感があるのであれば、 アナタさまが新しい言葉とマナーをつくって広め、 受け入れられれば、一件落着となるでしょう。

  • 2009ken
  • ベストアンサー率21% (769/3580)
回答No.4

普通の人が普通に無意識にやってることの理由を聞かれたって、変な答えしかできないでしょう。夏休みの子供電話相談室みたいなものです。なので、相手が言った理由なんてどうでもいいし、拘るところではない。要は、あなたが偏向的で、社会的協調性がないってだけです。まあ、そうやって世間に背を向けて生きるのもいいでしょう。それはあなたの自由。ただし、普通のことや、社会で人を束ねる立場にはなれない可能性は高くなりますが。

  • Stiltzkin
  • ベストアンサー率42% (119/283)
回答No.3

はじめまして。 質問者さんがおっしゃっていることは概ね理解はできるのですが、やっぱり人が社会で生きていくためには挨拶は必要なものだと思いますよ。 まあ、ご指摘のとおり程度の問題はあって、確かに「この人初対面なのになれなれしいなあ」という印象を与えるような人もいますから、そういうのまでも正当化するつもりはないんですけど、でもそれありきで「普通の挨拶」までもを議論するのはおかしいですよ。例外は例外。 でも、せめて人に会えば「おはようございます」「こんにちは」は言うのが当然だと思いますし、お世話になれば「ありがとうございました」「お世話になりました」、帰るときには「失礼します」「さようなら」、その程度は親しくてもそうでなくても当たり前なのではないでしょうか。そういう挨拶すらも鬱陶しい、不快だと感じる人がいてもおかしくはないというのは理解できますが、その人たちのために「じゃあみんな挨拶はしないことにしよう」という世の中にはなりませんよ、きっと。 私は別に挨拶をすることが正義だとも気持ちいいとも思いません。日常の普通の行動、普通の会話ですよ。

  • asebi-0806
  • ベストアンサー率39% (1265/3233)
回答No.2

あのね、挨拶はたとえ大っきらいな相手にでもするのが大人の常識です。 正義でもなんでもありません。変なサイトの読み過ぎですよ。

  • topy7014
  • ベストアンサー率14% (211/1499)
回答No.1

電話でいきなり、用件をしゃべるとか、トイレにノックせずに入るとか・・・・・・・ううん、変でしょ? それを変だと思うのなら、挨拶の声の大小くらいなら気にすることもないでしょ。

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