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挨拶ってそんなに正義?改訂版
私は高校教員ですが、挨拶の指導に疑問を感じています。 どこも同じでしょうが、学校では「朝の挨拶運動」というものがあり、 教員が校門や通学路で、登校する生徒に声をかけるんです。 そして中には、自発的に挨拶しない生徒もいます。 ●見るからに内気な生徒。無言で目を逸らす。 ●直接、担当していない生徒。「あんた誰?」という目で見てくる。 もちろん挨拶するように指導しますが、 私には彼らの気持ちが分かる気がするんです。 昔の私には、挨拶は「すでに親しい相手にするもの」であり、 個人的なつながりの無い相手に声をかけるのは、不自然だと思えたからです。 同じ組織にいるだけの、面識のない相手に挨拶されると、 パーソナルスペースを一気に詰められた気がして、 「あんた誰?」と、軽い不快感が先に立ってしまいます。 (これを「屁理屈」と切り捨てる方もいますが、 不快だと感じる人間がいるのは、紛れもない事実です。 実際に私は子どもの頃、軽いストレスを感じていました) そんな私は、納得いく説明を誰からも、受けたことがありません。 朝礼でも、生徒指導の先生はお題目のように 「元気よく挨拶をすると、気持ちがいいですね!」 「だから皆さんも、大きな声で挨拶しましょう!」 と繰り返すばかり。昔の私なら 「気持ちいいのはアンタであって私じゃない」 「挨拶が常識?アンタはそう思ったとしても、私はそうは思わない」 と反論していたでしょう。 新社会人へのビジネス書を読んでみても、やはり 「元気がいい挨拶は、すがすがしいものです」など、 『挨拶される側』の欲求がズラズラと並べてあるばかり。 『挨拶する側』の心理は、誰も斟酌しないのか?と 私としては一方的な印象を受けました。 特に交流もなく、利害もなく、ただすれ違うだけの相手に 「声をかけろ」と要求する心理が、私には理解できません。 そこで質問ですが、「元気よく挨拶」を推進する人は、 それを好まない人がいることを、想像すらしないのでしょうか? 私は挨拶がなくても特に気にならないし 「君はこういうのが苦手なんだね。でもちょっと我慢して慣れた方がいいよ」 と、筋道だてた説明をすべきだと思うんです。 ところが多くの人は、そういう相手を見るなり 「社会不適格」だの「考え方がおかしい」だの人格攻撃を始めます。 (前回の質問に、そうした回答者がいましたね) なぜそういう攻撃に出るのですか? 相手は頭がおかしいから、罵倒してもよいと思うのでしょうか? 少なくとも、相手に通じるような説明も無しに、 ゴリ押しの感情論では、納得してもらえないと思うのですが。 「あなたは気持ちいいんですね。でも私はそうは感じない」と言っただけで、 そこまでボロクソにけなされる理由がよく分かりません。
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#10です。お礼ありがとうございます。 頂いたコメントについてですが、少し勘違いしていました ・・・すみません。 生徒に教えるのにゴリ押しはどうだろうって事なのですね。 まぁ、「一期一会」の意味を説いても今の学生の方には 受け入れられ辛いかもしれませんね。 (茶道をやっているものならば、実感として分かるのですが) 前回でも言いました通り、挨拶は無理に教え込むようなもの でもありませんからね・・・そういう風に生徒さんの立場に たって考えられるという事は素敵な事だと思いますよ。 まぁ、既に色々と答えは頂いていて質問者様の中でも答えは 既にある程度出ているようですが、敢えて言わせて頂くとしたら、 「挨拶は義務ではないが、する事で得する事が多い」という所 でしょうか? 挨拶をする事で交流のきっかけを持てたり、面接の時の第一印象で 他の候補者より有利に見られるなど・・・日本の社会が「挨拶」を 求める以上、挨拶は出来る事に越した事はないという事なのです。 ですから、「挨拶」に対して運動までして出来るようにする理由と いうのは、そういった社会に出るための訓練なのかも知れませんね。 (日本が民主主義である以上、多数決に従うのは理不尽でも仕方の 無い事だと納得する他無いと思いますけどね) 「必然性が無いのにするのは非効率では・・・」と質問者様は仰った みたいですが、挨拶などほんの一瞬の事だと思いますし、別に会釈 程度でも良いと思うのは私だけなのでしょうか? 私には、「仲良くする人を限定して得られる情報を制限する」事の 方が非効率に思えてなりません。 例えるなら、食べ物の好き嫌いに似ていますでしょうか・・・ 自分の好きな物だけ選んで食べてしまう為、栄養が偏ったりして しまい、結果的に体調を維持する事が困難になるという感じです。 色々な方とお話する事で、自分の知らない考え方などを知る事が 出来たりして変な勉強を叩き込むよりも自然と覚えられたりする ものなのではないでしょうか? 別に誰彼構わずに愛想を振りまいて付き合いなさいと言っている 訳ではありませんが、挨拶をする事で話すきっかけになって得ら れる情報も私はあると思うのです。 結果、挨拶をする方がコミニュケーションを増やすきっかけにも なって、本では得られなかった知識を得られたりする事もあり、 知識の幅が広がる為に理解力も付くのではないでしょうか? 昔の事を持ち出しても仕方ないかも知れませんが、昔は今ほど 核家族化が進んでなくて、祖父母と同居する事が多かった時代が あったと思います。 その時代には、孫に対して祖父母が自分の経験談や知恵を教えたり 語ったりとしていました。 もちろん、子供の時はあまり意識して聞いていない事が多いと思い ますが、いつか自分が年を重ねて経験する内にその意味を徐々に 理解していく事になります。 簡単に言えば「おばあちゃんの知恵袋」的なものですね。 そういった話は実は家族に限った話ではありません。 自分で言うのもなんですが、私自身家族だけでなく周囲の色々な人 から色々な話を聞いていた為に今では実年齢以上の知識を得ている 部分があり、おかげ様で受け入れる器も大きくなった様に思えます。 こういう話をしている私をまだ20代だと聞いてどう思いますか? まぁ、あんまり言うと主観の押し付けになってしまいそうですので 控えさせて頂きますが、私個人としては必然性云々で挨拶をしない ことは、得られるかもしれなかった情報を自ら断ち切ってしまう様 でとても勿体無い様な感じがしてしまいます。 ・・・と言っても私自身強制するのは好きではありませんので、 無理に挨拶させる事も望みません・・・困ったものですね。 最後に纏めるとするのであれば、「可能性を広げる為に挨拶をして みましょう。たった数秒の時間で可能性が広がるなら安いものじゃ ないですか」ですね。 質問者様の生徒さんが、自分から挨拶を自然に出来るようになって その恩恵を実感できる日を僭越ながら祈らせて頂きます。 P.S. 若輩者なのに偉そうな口を利いてしまい申し訳ありませんでした。
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- dai-ym
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#13です。お礼ありがとうございます。 >私が困っていたのは昔の話で、今はそれなりに適応しました。 という事は、yamsaruさんは色んな人から挨拶に対して注意をされたり、意見されたり、指導されて、それなりに適応できたのでは無いですか? ならば今度はyamsaruさんが生徒から嫌がられようが、そういうことをする立場なのではないでしょうか? 最近の大人の悪いところは、昔の自分もそうだったとわかったような顔をして、自分は色々な指導をされていたのに、自分は指導されたことが嫌だったことだけに重きを置き、嫌われたくないから指導をしない。 それでは、生徒は気がつきそれなりに適応する機会が失われてしまいます。 yamsaruさんも経験があると思いますが、指導されたことってその場では理解できなくても時間がたってから理解出来るというものが多々あります。 いま生徒の方が聞き流しているとしてもバイトを始めたり、社会人になって、今言われたことを理解できるようになる可能性は高いです。 同じ学校という組織の仲間、直接でなないにしてもその学校という組織で指導してくれる立場の人、これはもうそれだけで十分なかかわりを持っていますよ。 挨拶する必然性はあります。 それをそんな必然性は無いという無茶を言っているから、屁理屈を言うことになっていると思いますよ。
お礼
うーん、そう見えますかね… 私は、嫌われたくないわけではないです。 確かに自分も指導を受けましたが、聞き流していました。 私が適応したのは、あるときに自分が 「そうしてもいいかな」と感じたからです。 指導のたまものではないと思っています。 ですから、こういうのは他人が強制しても、 従わない人間は従わないと思うんです。 させたいのはやまやまでも、強制ではその目的を達せない。 そういう相手には、「必然性」を示す必要があるという意味なのです。
- tos2344848
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あなたの質問を見ていて、懐かしい気持ちにさせられました。 同じ感情を中学生の時に感じていました。そして弁論大会でもしゃべり、「朝の挨拶運動」を推進していた先生を批判してしまいました。(この先生とは、今では親しくさせてもらっています。) でも高校に入ってから、挨拶をする必要があるかという精神論よりも、挨拶をするという形から入っていってもいいんじゃないかと。 学校の中でも顔見知りの人は、そんなにもいませんよね。 その人たちだけに挨拶するのもいいでしょうが、同じ学校に通っている人だからということだけであったとしても、形として挨拶だけでもしておくというのは悪くないはずです。 「朝の挨拶運動」を、形から入っていくための一つの運動だと捉えてみてはどうでしょうか。 絵でも工芸でも歌舞伎でも、模倣から入っていきますよね。 高校時代に挨拶に対する自分なりの考えがまとまっていなくても、形から入っていき、自然と挨拶できるようになってから、挨拶を見つめ直せばいいと指導できませんでしょうか。
お礼
弁論大会でですか! それは思い切ったことをしましたね… 確かに、新たなことを始めるのに、 形から入るのは一つ方法ですね。 私も勉強を教えるとき、ノートの取り方などで 同じような指導をするので、分かります。
NO6,N19です。お礼をいただき、ありがとうございます。 これで最後にします。 今回は、誤解なく伝わったようで安心しております。 以下の2点だけ意見を述べさせていただきます。 質問者者からのお礼では、自分は自己照会等の挨拶ができたと仰っておりますが、今議論しているのは、質問者様についてではなく、内気な生徒さんに対してではないのですか?それを自分ができたから、いいのだとするなら、生徒に対する指導の適否を考えていないと思います。 次に、 >また大人であっても、「関係をもつことが決定してから」では ダメなのでしょうか?・・・それを押してまで 「念のために」しなければならないのでしょうか…? これについては、質問者様の仰る通り、しなくてもよいと思います。ただ、挨拶をして、挨拶を返されなかった人が、どのように感じるかだけだと思います。どのように感じるかは、人それぞれですから、分からないとしかいいようがありません。そして、そのとき感じたことが、挨拶を返さなかったひとの印象として心に残るだけです。挨拶を返さなかった人は、その印象によって、後でデメリットを受けても、自己責任として受け止めればいいだけですから。 ただ、いえることは、挨拶した人は、挨拶を返してくれた人に対して、いやな印象をうけないということです。逆にいえば、挨拶を返されて、いやな思いをするぐらいなら、挨拶しません。
お礼
長々とおつきあいいただき、ありがとうございました。 感情的にもならず、よく分かるお話に感謝しています。 おかげで私の中でも、筋が通りそうになりました。 何でも申し上げますが、根気強く付き合っていただき、 ありがとうございました。
- jwcdg
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#17です。 『お礼のご挨拶』をありがとうございます。 >そんなことぐらいで相手に悪印象をもつ心理が分からないのです。 悪い印象を持つほどのものでも何でもないですよ。良い印象を持たないだけです。良い印象以外の人って、どうでもいいかと。 >排他的な雰囲気でも、べつにいいじゃない。 同感ですよ!! そのままでいいですよ、絶対に♪ 決して、変わらないで居て欲しいくらい☆ 日本の高校は、先生を選べないんですよね。 良かった~、私。 生徒が先生を選べる学校に居ましたので。 >相手に求める方があつかましいと感じてしまいます。 職場の一員だから、求められているだけですよ。大丈夫ですよ。 職場を離れたら、おそらく、貴方に、求める人は居ない。 それでいいじゃないですか。それがいいじゃないですか。 貴方は、家族や友人や恋人から、愛情を注がれている と感じないのなら。 貴方に、愛情を注げる人達が居ないのなら。 仕方ない。
お礼
どうも勘違いがあるようですが… くどいですが、私は挨拶をします。 その有用性も、何となくですが、分かります。 ただ、それに同意しない生徒を、力ずくでなく 如何に説得するべきか、その方策を考えているだけです。 感情を抜きにして、理屈で考えると、 「挨拶の必然性」にはたくさんの穴がある。 その穴を埋める理屈を、私は求めているのですが…
No6です。お礼をいただき、ありがとうございます。 ただ、お礼を読む限り、私の意見を誤解されておられるようななので、補足しておきます。 まず、私は、質問者様のご質問は、 >「元気よく挨拶」を推進する人は、 それを好まない人がいることを、想像すらしないのでしょうか? であると認識していました。そして、この質問に対して直接的に、回答する必要はないと(分かりきっていることである。)と思い、特に記載しませんでした。 この質問に対する回答は、想像というよりも、確信していると思います。 その理由は、全員が日常的に挨拶ができているのであれば、そのような運動自体無であります。 また、私は、「元気よく挨拶をすると、気持ちがいいですね!」や「だから皆さんも、大きな声で挨拶しましょう!」等を肯定した覚えもありません。 単に、「おはようと」と挨拶されたら、「おはようと」挨拶を返しましょうと言っているだけです。また、初対面の人との挨拶を例示したのは、「おはようと」と挨拶されたときに不快に感じて「おはよう」と挨拶を返すことができない人には、社会にでれば必ず必要になる自己紹介等を含めた、対外的な挨拶ができないと思ったからです。 そして、「朝の挨拶運動」とは、内気で、自ら挨拶できなくても、何人もの相手から挨拶され、その挨拶に対して挨拶を返すことで、徐々にでも社会にでてから必要になる挨拶という手段を身に付けてもらうという意味で、意義があると思います。すなわち、質問者様は、単に「おはよう」という言葉を発することを目的にした運動としかとらえておらず、先のことをみていないのではないですか、という意味でかきました。 なお、私に言わせれば、この「朝の挨拶運動」は、挨拶ができない人を、挨拶できるようにするための運動であり、これを迷惑に思うといえるのは、朝の挨拶ができない人ではなく、これに付き合わされる、あさの挨拶ができている側の人です。 また、教師と生徒の区別も、内気な生徒には、教師側から声をかけていき、徐々に挨拶になれてもらうように進めてもいいのではないですか、という意味でかきました。 また、質問者様は、御自分で、同じ組織にいる人からの挨拶を、不快に感じると書かれており、当然のことながら、私も、通勤時に電車等で一緒の車両に乗車した人まで、対象に含めておりません。そして、同じ組織内だからこそ、仕事上において、現時点では直接的な関係になくても、今後直接的な関係になる確率が高いからこそ、そのような人のつきあいまで、遮断したいというのであれば、「社会不適合」であると申しているのです。 最後に、 >他人の邪魔さえしなければ、何をどう考えようと、生徒の自由だと思います。実際の迷惑行為などに出られると、止めますが。何かを「しない」ぶんには、まったくの自由です。 このような返事が返ってくると、正直思いませんでした。 質問者様が、なぜ教師になられたのかは存じませんが、 子供の親とすれば、子供が社会にでたときに役立つものを、1つでも多く身につけてもらいたいという気持ちで、高い授業料も支払ってまで、通わせているということを認識していただきたい。質問者様がもらっている給料には、生徒の親が支払った授業料が含まれているのですよ。 質問者様は、生徒の自主性に任せているといいたいのでしょうが、それこそ詭弁であると思います。
お礼
>>全員が日常的に挨拶ができているのであれば、そのような運動自体無であります。 なるほど。仰る通りです。 >>自己紹介等を含めた、対外的な挨拶ができないと思ったからです。 これは賛同しかねます。 現に私は昔、通り過ぎるだけの相手にはしないだけで、 紹介しあうような状況では「礼儀正しい」と言われていました。 >>教師側から声をかけていき お言葉通り、かけております。 >>同じ組織にいる人からの挨拶を、不快に感じると書かれており >>今後直接的な関係になる確率が高いからこそ 「同じ組織」というのは、私には子どもの頃の学校のことでした。 また大人であっても、「関係をもつことが決定してから」では ダメなのでしょうか? 「必然性がないのにする」ことは、不自然というか非効率では… 心理的抵抗がない人なら、好きにすればいいでしょうが、 ストレスを感じる人が、それを押してまで 「念のために」しなければならないのでしょうか…? また、授業料うんぬんについてはその通りですが、 しかし何を言っても聞き流す生徒がいるのも、また事実です。 私も説教をすることはありますが、 「基本的に、他人の気持ちを変えることはできない」 と思っております。 できるだけのことはして、通じないのが普通。通じればラッキー。 ですから「何をしようと自由」というのは 「教師が何を言おうと、実行するのは生徒。それを止める手段はない」という意味でした。
- nandakka
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昔、当時の職場の先輩からこんなことを聞きました。 「繁華街で客引きに声をかけられたら無視だけはするな。 振りでも愛想でもいいから、 『今日はごめん、また今度よろしくね』という態度を見せておけ。 特に平日の昼間なら、尚のこと絶対に無視してはいけない」 その先輩自身、一度客引きの声を無視して 追いかけられたことがあるそうです。 平日の昼間云々というのは、客が少なくて 苛立っているからということでしょう。 この言葉の「客引き」を「挨拶してきた人」に置き換えて考えれば、 それが挨拶の必要性への説明になると思います。 自分から挨拶する場合も根本的な理屈は同じです。 もちろん挨拶を好むか好まないかは各人の自由ですし、 くだらない精神論を押し付けられたら 腹の中で「何言ってやがる、このバーカ」と笑っておけばいいでしょう。 私の考えですが、「笑顔は社会の潤滑油」ではありません。 「笑顔は社会の保険料」なんです。
お礼
「笑顔は社会の保険料」ですか! これは、うまいこと言ったもんですね! 長々とした説明よりも、ストンと胸に落ちた気がします。 ありがとうございました!
- jwcdg
- ベストアンサー率45% (28/62)
こんにちは。 >「君はこういうのが苦手なんだね。でもちょっと我慢して慣れた方がいいよ」と、筋道だてた説明をすべきだと思うんです。 挨拶が簡単に出来る子が居れば、なかなか出来難い子が居ても、不思議ではないと思います。子供の頃は特に、人見知りをしたり、恥ずかしかったり等あると思います。 これだけ、自己主張の強い時代です。しかし、自分を相手に理解してもらうには、相手を受け入れることから始まるのでは と思います。 自己主張するにあたり、相手に対して礼を尽くすこと。その心が、形に表れたのが、『挨拶』だと思います。 押しつけることなく、自然に学べるために、“挨拶の価値”を自覚させるには、挨拶された時の気持ち/されなかった時の気持ち を考えさせなければならないと思います。 挨拶をして、にこやかな笑顔で挨拶が返ってきた/知らない振り無視された。 違いを、心で深く感じ取ることが重要だと思います。 >朝の挨拶運動 は、生徒からすると、“無理矢理言わされている”と感じるかも知れません。実施している先生達も、挨拶運動習慣が過ぎれば、廊下で会ったって、偉そうだし。と思うのかも知れませんね。 私も、好きな先生には、自分から駆け寄って挨拶していましたし。笑 質問者様も、生徒から、『先生のおかげで解かるようになったよ。』『先生の教え方は上手だね』等言われたら、素直に嬉しいとお感じかと思います。 質問者様のご回答履歴を拝読させて頂きました。 こちらのQ&Aで、無料でしかも、本職の先生からタダで教わっているのに、お礼の一言も無いのかと、と客観的に思いました。そちらの質問者様が、yamsaru様のことを、数学の先生だと知っているのか知らないのか、分りませんが、回答者が、専門家でなくとも、回答へのお礼に、『ご回答ありがとうございます』は、 この無料の場を利用している身=自己主張するにあたり、 相手に対して礼を尽くすこと。その心が、形に表れたのが、『挨拶』が必要だと思います。 挨拶をしない/したのに返事がないと、相手は怒っているのかな?/機嫌が悪いのかな?/ となれば、例え、街で偶然会っても、声をかけても無駄、と感じさせる排他的な雰囲気だったり、人を遠ざけてしまう恐れがある。 からだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 確かに自分が「礼を尽くされる」側に回ると、やはり嬉しいですね。 ただ…私は、礼を尽くされなくても「別に何とも思わない」んです。 そういう人もいるよなー、くらいで。 だから、率直な言い方をすると、 そんなことぐらいで相手に悪印象をもつ心理が分からないのです。 排他的な雰囲気でも、べつにいいじゃない。 授業には参加して、宿題をやって… (社会人なら、職務内容を果たせば…) 「愛想」はあくまでも付加価値であって、 相手に求める方があつかましいと感じてしまいます。
- kentoshi82
- ベストアンサー率14% (54/369)
校長先生に胸はって言ってみたらどうでしょう? 「挨拶はしないほうがいいんじゃないですか?」と、 ちなみに校則違反の子にはなんて指導してるんですか?彼が「その校則が全て正しいとは限らないのでは?」と聞かれたら、どうしてるんですか? 前日も申し上げましたが、日常生活ならいいのですが、社会で必要なんですよ。「面接で」、「接客で」、「上司との会話で」、出世し、より良い生活水準を実現する為の一つのスキルと考えるべきです。 いつでもでかい声出してやるのが良いのではなく、必要な時にはデカイ声も出る事が企業では求められるんです。その習得期間だと理解すれば良いのではないでしょうか?
お礼
>>社会で必要なんですよ くどいと知りつつ申し上げますが、 では「なぜ社会はそんなことを必要とするのか?」 「必要だと思う人間が、他の人間に強制するから 『必要ということになる』のでは? 例えば『社長が言うから』『入試に出るから』など」 「強制する側は、なぜそれを相手に要求するのか? ただの個人的好みの押し付けではないのか?」 といった謎は残ります。 必要だというのは、大抵誰かがそれを求めるからです。 では求める人間は、どういった理由で相手にそれを強制するのか。 それが解決されないと、私の疑問は消えません。
- usikun
- ベストアンサー率35% (358/1003)
私も朝が苦手なんで大きい声を強要されると不快ですし 無用な精神論の押し付けも嫌いです。 その上で話すなら、学校や職場など同一のコミュニティに属する人間を 個人的な繋がりの無い人間と捉えることは間違っているように思えます。 質問者様個人の思想信条でそう思うのは自由ですが、少なくとも 他人の子女に教育する上ではその考えは捨てるべきです。 (そのような教育をしていると言ってる訳ではありません。) 私は本社の小さな部屋で仕事をしているので別オフィスの営業部社員の顔は ほとんど知りませんが職場で会えば「お疲れ」ぐらいはいいますよ。 私は部下に佐川急便さんにも挨拶するように言ってます。 誰かオフィスに入ってきたら「関心を持ってます」ってことを伝えるのは防犯上の側面もあります。 普段から声を出す習慣が無い人が必要とされる場面だけ確実に声を出せるということは現実的には無いのですよ。 少し書き方は辛いのですがNo11さんの言うことも真実です。 コンピテンシーという言葉がありますが高いパフォーマンスを上げる人の 行動様式に近い人を企業は欲しがります。 そうした人が集団の中で安定した成果を残すことを体感しているからです。 そういう社会にやがては出て行く学生には、そういうことまで踏まえて現代社会に親和性の高い生き方を教えることも教育です。 高校生と言えば場合によっては社会に出る一歩手前です。 先入観に捉われず疑問を持つことは良いことですが職業人として こう言った問題に対する答えを持っていないのは研鑽不足とも言えるでしょう。 少なくとも私が子供を預ける先生が大学を出たばかりなら兎も角 一定の年齢でこんなことを口にしてたら正直不快です。
お礼
自分の研鑽不足は、まったく恥じるところです… ただ述べたように、今まで誰からも納得いく説明を 受けたことがないのも事実です。 そういう意味では、周囲の誰もが同様に 「研鑽不足」と言えるのでは?とも思うんです。 少なくとも、「オレは挨拶なんて大事だと思わない」という人間を、 納得させられないようでは…
- kirin_beer
- ベストアンサー率23% (163/687)
前回の質問も拝見しました。私は大学教員ですが、たしかに大学の雰囲気からみると、高校の「朝の挨拶運動」とか不気味ですよね。大学では、そんな事やりませんから。 でも、「朝の挨拶運動」に限って言えば、あれは知らない先生から挨拶される事により、「先生達は直接の担任でなくても、あなたたちを気にかけているんだぞ」と、穿った見方をすれば「おまえ達を監視してんだからな」という意味もあるんではないでしょうか。 また、社会に出れば、同じ会社の人であまり接点が無くても、挨拶しますから、その良い訓練にもなるんじゃないでしょうか。特に内気な学生にこそ声をかけるべきでは無いですか?いざって時に相談にくるかもしれない。もし、それをも否定するなら、貴方は教師には向いていない、というだけの話に帰結してしまうと思います。 『挨拶される側』が『挨拶する側』より重視されるのは当然です。「ようは自分より相手の事を考えよう」と、そういう話ですよね。って、高校の先生相手に言う台詞じゃないですが・・・・。 >そういう相手を見るなり「社会不適格」だの >「考え方がおかしい」だの人格攻撃を始めます。 >(前回の質問に、そうした回答者がいましたね) たしかに人格攻撃かもしれません。でも、貴方が前回の質問文に 書いた下記の文言が攻撃的だから、同じレベルの攻撃的な文章が 回答に並んだだけとは考えられませんか? >挨拶をさせたがる人って、なんでああも >「オレが正義だ!」みたいな態度が多いんでしょうか? ご質問文は「貴方が挨拶したくない」のか、「学生に挨拶を強要したくない」のか、「社会において儀礼的な挨拶なんて不要だという考え」なのか、その三者がごちゃごちゃになっており、論点がぼやけた文章になってしまっています。もうすこし整理して書いた方が、感情論によらない意見が寄せられたのではないかな?と思います。
お礼
ご指摘の通りですね。 ちょっと論旨がぼやけてしまいました。 私は 「自分は挨拶をする」 「学生に挨拶を強要したくない」 「個人的には、儀礼的な挨拶は不必要だと思う」 「理由は、不快感を感じる人がいるから」 加えて 「挨拶を推進する人から、明確な理由を聞いたことがない。 大抵は『気持ちがいい』というだけの感情論」 「彼らの言う理由は、どれも『気分的なもの』ばかり。 もっともらしい目的も述べるが、他の手段でもそれは満たせる。 挨拶でなければならない必然性が感じられない」 「そうやって議論しているうちに、相手は私を罵り始める」 このサイクルにうんざりしたので、 誰か答えを知らないかと思って、質問を立てたのでした。
お礼
いえ、もう大変によく分かるお話でした。 理屈もスッキリと通っていて、とても共感できました。 長文ではありますが、読みやすく、感情的でもなく、 一本の筋が通っていて… 失礼ながら、相当に頭の切れる方だと想像します。 生徒にも、こういった話ができるように精進したいと思います。 ありがとうございました!