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田母神論文と村山談話

田母神論文(日本は侵略国家であったのか)と、村山談話(戦後50周年の終戦記念日にあたって)どちらを支持しますか?また、その理由も教えていただければ幸いです。 過去の歴史(先の大戦、東京裁判、靖国問題など)について勉強しています。 田母神論文と村山談話を読み両者の言いたいことは理解できるのですが、それぞれ主張が全く違いますよね。 それで、真実が何なのかちょっと分からなくなってきました。 どちらが正しいとか間違っているとかを問うのではありませんが、参考としてご意見お聞かせください。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • wangwinf
  • ベストアンサー率21% (14/64)
回答No.3

どちらが正しいとかどちらが間違っているとかそういう問題では無いと思いますが、「どちらがよりマシか」と問われれば、「村山談話の方がよりマシ」ということになると思います。 理由その1 村山談話は特に間違ったことは言っていないが、田母神論文は事実として間違っていることを多く言っている。 詳しくはこちらをご覧ください http://members.at.infoseek.co.jp/tou46/re_90_01.html 理由その2 村山談話のほとんどは戦後の日本への応援、賛美に満ち溢れているが、田母神論文は自衛隊が本来守るべき戦後日本を一方的に切り捨てている。 理由その3 国益の問題。 村山談話は、国際社会にとって歓迎された。各国の親日感情にプラスの方向性を与えた。 田母神論文は各国にとって呆れられたか無視されたか怒りを持たれたかの三択でしかない。 (たいして外国から反発を受けなかったのはあまりにも馬鹿馬鹿しすぎたからで、決して外国が納得したからではない)

  • rikukoro2
  • ベストアンサー率21% (1316/6195)
回答No.2

田母神論文ですね 理由は国益からです。  田母神論文を指示した場合、韓国・中国・北朝鮮の反日感情は高まるものの、どっちにしてもあの国は何かを見つけても反日に傾くのですから一緒のことです。又、政府の公式発表ではないので発言に対し日本は責任を取る必要はありません  対し、村山談話は一国の首相が発したものです。この談話により日本への反日感情は高まり、さらに政府の責任が生じます。  ですので自分は国益の観点から見て田母神論文を支持します >真実が何なのかちょっと分からなくなってきました。  真実には二通りあるのです  『学術的な真実』と『歴史的真実』  『勝者からみた真実』と『敗者からみた真実』  歴史とは常に勝者の立場でかかれます  他国に攻めた場合、戦争に負ければそれは『侵略』となり、勝てば『開放』となるのです

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.1

大学で歴史学を専門に学んだものです。 歴史学の視点から回答を試みてみます。 >それで、真実が何なのかちょっと分からなくなってきました。 歴史に真実があるなんて考えている限り、答えは見つかりませんよ。 というのも、「歴史」というのは「過去」のなかから何らかの形で残ったモノを手がかりに、社会の要請や自分(書き手)の価値観などに従って再構成されたモノだからです。 歴史学(≒歴史について書く)とはそういう学問です。 で、「何らかの形で残ったモノ」の事を「史料」といいます。 「史料」のウチ、当該の時代に書かれたたモノが後代に残ったものを「一次史料」といい、後年になってから「一次史料」を元に書かれたものを「二次史料」といいいます。 さらに後年になって「一次史料」と「二次史料(歴史学者の研究成果)」を元に書かれたりもします。 つまり、これらの「歴史」というのは、「過去の断片」であり、「歴史を書く」という行為は、その断片を丁寧に集め分析し(史料批判)再構築されたモノなのです。 で、難しいのが「史料批判」の段階です。 18世紀末~19世紀初期にヘーゲルが「自然科学の手法」を歴史に取り入れれば、「歴史」も自然科学のように「普遍的な真実や法則」が見つかると思い「歴史哲学」を打ち立てました。 そして、レオポルト・フォン・ランケというドイツの歴史学者が「史料を徹底批判し耐えられれたモノだけが真実を語っている」と考え「実証主義」の立場を打ち立てました。 しかし、その後クローチェやE・H・カーという人が、「歴史は自然科学のように普遍的な法則や真実なんて無く、現代の問題意識と結びついている」と批判しました。 クローチェはこれを「全ての真の歴史は現代史である」と言い、カーは「現在と過去の対話」と言い表しました。 つまり、田母神論文も村山談話も、それぞれの現代の状況や問題意識を踏まえ、自分の意志に沿うように歴史を再構築しているわけです。 ただし、彼らは「歴史学」という学問の基礎すら学んだわけではない(と思います)ので、そのほとんどを「歴史学者の成果」の中から自分に都合の良いところを拝借して、自分の考えを述べているわけです。 ただし、両人とも歴史的な理由よりも政治的な理由からそれを行っているので、歴史学的には何の影響もありませんけど。(というより、歴史家は彼らのように自分の研究が利用されるのを苦々しく思うのが普通の反応なようです) なんで >田母神論文と村山談話を読み両者の言いたいことは理解できるのですが、それぞれ主張が全く違いますよね。 という状況になるわけです。 彼らは、「歴史の空白」を自分たちの想像力で埋めているわけですから。 「(一次)史料」一つとっても、人によって大きく意見が分かれます。 例えば、慰安婦問題を巡る史料に『軍慰安所従業婦等募集に関する件』という日本軍の公式文書があります。 参考Wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E6%89%80%E5%BE%93%E6%A5%AD%E5%A9%A6%E7%AD%89%E5%8B%9F%E9%9B%86%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BB%B6 これを巡って、慰安婦問題で国家の関与が「あった」とする人たちは「これが軍(国)が慰安婦募集に関わった証拠だ!」と言います。 逆に「無かった」とする人は、「この文章は悪徳業者を軍が取り締まるためのモノで、軍の関与は取り締まりのためだ」と主張します。 つまり、一つの史料を巡って180度違う意見が出てくるわけです。 歴史学的にどちらが正しいかを言うためには、他の史料を集めて分析し「裏を取る」必要があります。 しかし、「裏を取る」ための史料が無いことも多々あります。(上記の例はその好例) そうなると、この両者の対立は永遠に埋まらないことになります。 >どちらが正しいとか間違っているとかを問うのではありませんが、参考としてご意見お聞かせください 以上の理由から、歴史学的に過去を調べたいのであれば、どちらの文章も参考にすらなりませんので忘れてください。(政治的、思想的に過去を正当化したり不当におとしめたいのであれば、好きな方をお使いください) 本当に知りたいのであれば、まずは「歴史学の基礎」を身につけた上で、自分で史料を集め再構築してください。 専門家になる暇が無いのであれば、多くの先達の研究所が多く出版されていますから、それを参考にしましょう。 ただし、それを読む前に、その人がどういった思想や歴史観の持ち主なのかを調べてからにしましょう。 歴史家も人なので、(どんなに距離を置いても)社会とは無関係でいれませんから。

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