- ベストアンサー
神仏に帰依するという心構え
俺はごく平凡な男です。何か特別な力があるというわけでもないのですが、これからは神様や仏様を信仰して行きたいと思っています。神仏に帰依するとは、すなわち何を意味するのでしょうか?そのような行いをすることなのでしょうか?いつかこの平凡な男でも神仏と対話することが許される日が来るのでしょうか?まずできることとは何でしょうか?どうか意見を聞かせてください。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
とても簡単で平凡な意見かもしれませんがご容赦ください。 神仏に帰依するという事は、神仏の御心に適った生き方をする事だと私は思います。何か特別の能力を要するとか、滝に打たれたり、難行苦行をしなければ神仏から認めてもらえないなどという事ではないと思います。神仏は人間に対しそんな事は求めていないと私はこれまでの信仰生活の中で学びました。 私が思う神仏の御心に適った生き方とは・・・ (1)家族を大切にして生きる (2)親を大切にし孝養を尽くす (3)祖父母を労り大切にする (4)先祖あらばこその自分である事を自覚し感謝の念を捧げる (5)日々明るく利他愛を育み感謝の心を忘れず謙虚に生きる これだけでも十分だと思います。勿論、信仰する対象によっては、お経を読んだり、祝詞(のりと)をあげたり、神社仏閣に詣でたり等々の事もあるとは思いますが・・・。ただ決して超常能力的なものを求めたり、必要とするものではないという事です。 朝起きたら、神仏やご先祖に対し心の内でご挨拶し一日の努力を誓い、食事の際にはその糧を与えて頂いた事に対する感謝の念を捧げ、就寝時には一日の感謝と反省をし、その反省を翌日の行動に活かす事を誓う。 以上、極々当たり前の事だけです。 日々の生活の中で時として判断に困ったり、悩み苦しむ事があったとします。そういう時には心の内で神仏と対話するのです。ただ対話と言っても実際に神仏の声が聴こえてくるわけではありません。神や仏はこういう場合、何と言われるか・・・自分で考えるのです。そして答えを自分で導きだすのです。その導き出す際の基準の一部を挙げるとすると上記の(1)~(5)に反していないかどうか。 つまり神仏との対話とは先述したように何か超常現象的なものではなく、己の心の内に在る良心、仏心という名の鏡に照らし合わせて判断する事なのではないかと思います。
その他の回答 (1)
- tgs1212
- ベストアンサー率25% (20/77)
>まずできることとは何でしょうか? 仏教のことはよく分かりませんが、仏像を拝んでいるだけではだめでしょう。それで幸せになれる確証があるのなら、とうに全人類が行っているはずです。 神様は全生命を通して働きます。よく、「相手を神様だと思え」と言われるのはそういうことです。なので、「生命のために、他人のために」ということを小さなことから行動に移すことではないでしょうか。 コツコツ実行していく中で、あなた様のまた新たな道が広がっていくと思いますよ。 この世は訓練と試練の連続です。 なぜ、試練の連続なのか? これは、肉体滅びし後にも、生活があることを意味しています。
お礼
とても親切丁寧な回答ありがとうございます。実はある願い事があってよく神社に行くようになったのですが、ある人にあなたはそのときにあまり気に留めずに素通りした神様がいるから、これから気をつけてねと言われました。神社に行くことを言っていないのに言われたのでただただ驚くばかりでした。もちろん悪気はなかったのですが、自分は非常識だったと思います。それは七福神だね?そう言ってるよ。もう一度お参りをするときは忘れないでね。もう少し良くなるよ・・・。と言われたのです。俺は俺の考えるささやかな幸せが欲しい。もしそれが与えられたなら俺は一生神仏に帰依したいと思いました。何か先に願い事ありきでこういうのはよくないですかね?困ったときだけと言うのは勝手だと思います。でも今の自分は心にゆとりがないのです。だからそのゆとりを持つための小さな幸せが叶うなら、もっと心を開いて今度は俺が誰かの幸せのためにできることをしていきたいのです。幼いころ、良い事をすれば自分も幸せになれると信じていました。もし願いが叶うなら俺はもう一度それを信じられると思うし、信じたいのです。なんて・・・きっと人間は幸せになるためじゃなくて何か試練のようなものを乗り越えるために生まれてくるのかもしれませんね。だから必ずしも幸せになれるとは限らないのでしょうね・・・。