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友達ができない
サリンジャーの作品を耽読しております。別に彼の作品を読むことによって彼の作品に出てくる登場人物(主に主人公。例えばフラニー。)の抱いているような価値観に目覚めてしまったという話ではないんですが、彼等は以前から僕が感じていた違和感を具体的な象徴を多く使って切実に代弁してくれているようで僕は激しい共感を得てしまいました。恐ろしいことですが現在その共感が狂信的に昂ぶっており、グラース家の人々が本当に現実に存在するのではないかといったような異常な妄想を掻き立てられることがあります。そして彼等がこの世界で唯一正しい存在なのではないかという考えを拭い去れないでいます。 そこでなぜ僕が友達ができず悩んでいるのかということなのですが、言うまでも無く周りの人間が彼の作品に登場するところのレーン・クーテルやストラドレーターのような人間に見えてしまうというところに原因はあります。彼等がそのような象徴に見えてしまうんです。彼の作品を読むことでよりはっきりと、またレーン・クーテルという一般的(サリンジャーに共感する人間にとってだけということかもしれませんが)な記号に当てはまってしまうんです。人間見た目が9割なんてことを聞きますが実際ほとんどそういう結果になってしまいます(服装や髪型、話し方などでまず違和感を覚え、わずかな期待を持って接してみるがやはり・・・)。これは僕の持つ劣等感や、軽蔑すべき特権意識から来るものなのかもしれません。しかしどうしても、人間が知性を捨て動物になることができないようなそのような感覚がほとんど本能的に自分を守ろうとしてしまいます。「ゾーイー」の終わりにフラニーは救いを得ますが、太っちょのオバサマは聖人でありタッパー教授でありレーン・クーテルであり・・・というのはまさに万物斉同の極致であり(僕はそう解釈しています)、彼等は等しく愛すべき存在であるべきだと、できるならば僕もそのように思いたいのですが何しろこのような極致に至るということはまさに聖人になることと等しいようなもので、ひどく困難なことのように思えます。 サリンジャーの作品を読んでいることが友達になれる条件、というわけではないのですがつまりフラニーのような考えに一度でも至ったことの無い人間とはどうしてもうまく噛み合わないように思うのです。普通に会話はできても常にどこか違和感を感じていて、一人になるとそのことを思い出してすごく空しい、満たされない感覚に陥ってしまうのです。結局のところ僕は自分勝手な幻想の特権に酔った人間たちと少人数の徒党を組んでその他の人間を見下したいという欲求を隠して、美化して、そのようにまるでじぶんが謙虚な人間であるかのように分析すること自体に快楽を感じているのでしょうか。 このような状況を経験された方、どのような方法で切り抜けられたかお話を聞かせて頂けないでしょうか。現在ひどく混乱しております。サリンジャーを否定されれば僕は完全に崩落してしまうだろうし、そうでなくても上に書いたような状態です。もう聖人を目指すか、シーモアのように自殺してしまうかしかないのかもしれないです。とにかく気楽になりたいのです。
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- publicpen
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あなたの気持ちも分かりますけどね。 ただあなたの主体が強すぎる、その割に主体に責任を持って 話してない、生きていないように感じます。 ある意味でそれが人間的だとも思えますが。 気分悪くしないで聞いて欲しいのは、そういうあなたが知らず知らず、 周囲を嫌な気持ちにさせてる可能性が高いと思います。 もしホールデン・コールフィールドが正しいと仮定しても、 彼は幸せではなかったですよね? あなたが絶対にやりたくないことだとすれば強制はしませんが、 妥協であっても、「周囲の望む自分」を多少なりとも 演じることをオススメします。 それとあなたから深い感銘を受けられないのはあなたの 議論に深みが無い、深い部分で述べられていないと感じるからです。 つまり現状維持の自己肯定であり、「つまりサリンジャーを読めば 大体分かるようなことを 君は言ってるだけなんだよね」ってことです。 ペンシズムは若者の特徴ですからそれだけで他者の心を打つことは できません。 つまりあなたは中途半端です。 そもそも「他者なるもの」をどの程度理解して話してるのかも 疑問です。あなたは経験則を肥大化させて重ねてしまってはいないでしょうか? アリからすればアリクイも人間も天敵であり巨大な他者です。 しかし人間から見れば、アリクイから見れば我々は決定的に 違うと思うし、実際に違います。 あなたが「アリの立場から」モノを見るのは自然的なことですが、 その視点からアリクイと人間が同じに見えるのと、現実に 「同じ」と言うのは違います。 あなたが自身も認めるように偏った人であるのは間違いありません。 もちろん広い世界の中ではそれを認め、共感する人もいるわけです。 その部分を理解し、「それならなぜ僕に友達ができないのか?」を 再考してみればいいのではないでしょうか。 なんなら友人に忌憚なくアドバイスを仰げばいいかもしれません。 意外に「それは君が人の目を見て話さないからだよ」 とか 「それは君がいつも遅刻する上に言い訳ばかりするからだよ」 なんてことになってるかもしれません。 あなたがアリとしてアリの目を持つ限り、その「事実」を知ることは 永遠にできません。
- publicpen
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君は解決のための議論でなく、議論のための議論を仕掛けていると思うよ。だから君自身のイメジと違って他者からの反応が悪いんだと思う。 内容のある議論なら、好きな人もいるし君を評価する人も出てくるだろう。 >だからといってあなたや私は知性を頭から吐き出してしまえと言われてそのようなことが本当にできるのでしょうか。 そもそもこれって知性と協調性が共存できないと言う前提ですよね。 「知性を持ってる=屁理屈をこねて周囲を嫌な気持ちにさせる」 ってこと自体がおかしくないですかね。相手に伝わらなければ 意味が無いとは考えません。分かりやすく言えば5歳の子に 同じように話しますか? 分かって欲しい 分かって欲しい 分かって欲しい と駄々をこねたところで相手には伝わりませんよ。 あくまでコミュニケーションは相手あってのものです。 自分に酔ってるように思います。 >また屁理屈を言っていると思われるのでしょうが、僕は他人の役に立つ人間になりたいと思いたくはないのです。ただ単純に人の役に立っているという状態になれればいいとは思いますが。そういう自意識みたいな奴を他人の頭やら自分の頭の中やらから取り出したいと思うほど盲目的に傾倒してしまっているのです。盲目的だということは分かっていても止められないんです。これが宗教とか賭博とか恋人とか何とか色んなものにすがらずにはいられない人間の心理なんでしょうか。 論理の飛躍ですね。「じゃあ役に立たない人間になりなさい」と言うと やはり反対しますよね。 自身にとって理想的な世界を目指すのは正しい行為です。 ただあなたは理想的な状況で無いからと言って 傍観してるだけじゃないですか。 言語明瞭、意味不明瞭ですね。 つまり友達が欲しいですよね。 その為の最短距離を走ればいいでしょう。 分かりきったことをやらないのはあなかが賢いからでは ないですよ。勇気がないだけです。
- jimmy35
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>自分の周囲のいずれかのものに少なからず影響をうけてしまっているとは考えられないでしょうか。 影響は当然ですが受けますね。但し受ける側の元々の性格や育んできた性分の中で受けるということですから、180度転換はありえません。大影響と言ってもせいぜい45度までですね。 自我は完全なものとして捉えることは誰でも一生できないでしょう。生きること即ち自我を探す旅と言って差し支えありません。自分の特徴、どのように他人に対して自分を出すかその位のことは自分でもわかってはいますが、それを詳細となるとまず誰も生きて自我を判別できる間は無理な相談だと思います。過去の聖人と言われた人でもその死ぬ前にわかったことはあったかもしれないという世界です。自分で後ろを向いて背中を見ようとしてください。カメレオンじゃないのですからまず見えません。これは自分の後ろ姿が見えないことを意味します。 しかしだからこそ一生かけて考えるべき問題だとも言えますね。 「そこが完全じゃないのならば意味がないじゃないか」と考える人も過去にいました。が、残念ながらその不条理は人間として生まれた以上は一生付きまといます。その過去にいた人達の中で、極端に走って自殺した人も事例であります。しかし、無駄死にですね。人間としての不完全さを人間として越えようとするということは一生という時間制限がある以上、無理な相談なんですよ。 学校を卒業しても人生上の勉強が続くと大人たちが言うのはそこに理由があります。 >傾向があるということは快楽を得ているのではないでしょうか。 傾向があるということは得ていますね。しかし、人間ってそこまで浅い存在ではありません。それをも一部となす深い存在です。なぜなら快楽の認識は理性から生まれるからです。しかし人間にも小脳と中脳が存在する以上本能行動と言うものがあります。残念ながら理性だけで100対0で行動を説明しきれないのが人間ですよ。もっとも自分も30年前位の頃はあなたに近い考えでしたね。「考えなければ行動しないはず、ならば快不快だけで行動するはずだ」ってね。 今日の他の回答でも引き合いに出したギリシャ神話があります。シーシュポスの物語です。一度読んでみてはどうでしょうか?理屈であれ理論であれそこまで展開できるのならば読みこなせるはずです。(自分は大学時代アルベール・カミュを専攻したので、彼の神話からインスパイアされた作品があるので、それを当時当然読みましたが、当時より最近の方が印象に残りますね) あともう一つ、あなたのピュアさで一度孔子の中庸の考えを読んでみてはどうでしょうか?中途半端と感じるかもしれませんし、それを突き進むという考えもできるでしょう。2作品ともここにどう感じたかを書く必要はありません。せっかくサリンジャーをそこまで読めたのなら本の世界の中でいろいろ感じるのも一つだと思います。ピュアである事をやめろとは言いませんが、自分に対して「どう」ピュアであるべきかを現実と即してみて考えてみたらどうでしょうかと言うことです。
お礼
再度の回答大変感謝しております。神経質なもので前回のお礼で書ききれなかった部分を・・・(改めてお礼を読み返してみますとどうもぶっきらぼうすぎると感じたもので) >>日本人の場合サリンジャー氏の世界になりきれないのはあなたの言う極致の部分に立ち入れないところだと思いますね・・・ すごく興味深いお話ありがとうございます。なんだか僕は聖人を感情さえ取り除かれた無味乾燥なもののように捉えてしまっていたような気がします。しかしそもそもなんで聖人の話がレーン・クーテルにつながるかということなのですけど(話が飛躍して実際の問題から離れていってしまいそうで)簡単に、僕が考えている程度に説明しますと、まず聖人に至る段階には3つの段階があり、第一に善悪の区別がなくなり、第二に物事の区別がなくなり、第三に無の境地すなわち万物と一体になることができる者が聖人だということを考えると少なくとも第二の段階に至ることによってレーン・クーテル(極端な話敵であり優越視する対象)が敵でもなんでもないように見えてくるのではないかと、それこそがフラニーの得た救いではないのかという考えが僕の中にあるということなのです。このような聖人は必ずしも極端な存在とは言えないのではないかと思うのです。逆に両面性を備えた存在こそが完璧であり極端な存在だと考えることもできなくはないのではないでしょうか。なにが言いたいのか分からなくなりました。とにかく僕はこの不完全で中途半端な状態を受け入れなければいけないのでしょうか。それでは今と変わらず友達なんてできっこないんです。このような矛盾にみんなはどうやって対処しているのでしょう、今生きている人間は(主に自我を意識することができるようになるほど年齢を重ねた)さぞかし精神のタフなことなのでしょうね。 >>自分に対して「どう」ピュアであるべきか 僕は純粋であるということに偏った信頼を寄せているかのように思います。その偏りが結局は単なる自意識過剰から来るものであればそれは純粋でもなんでもないのでしょう。純粋でありたいと思うなんてことは非常に醜いものです。サリンジャーのことが少し軽蔑できるようになったかもしれません。 回答者様の御友人はどのような方なのですか?ある程度の明確な価値観を共有できるほど現実で共通する何かをお持ちの方ですか?? (字数制限により書ききれないこと多数で堪りません)
- jimmy35
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まず、あなたの自我とは何ぞやという事を考えるようにして下さい。現状ではサリンジャー氏の作品内という借り物の自我でしかありません。(サリンジャー氏の作品の登場人物になぞらえる等々)ですので、理論のつもりが理屈になってしまうんですよ。 確かに人は己を美化し他人を見下そうとする傾向はありますが、それによる快感を得ている人は少数です。(存在はします。また少数であっても目立つ存在でもあります)どちらかというと己の自我の為本能がそうさせていると考える方が正解でしょう。能動性はないとは言えませんが少ないと思いますね。 日本人の場合サリンジャー氏の世界になりきれないのはあなたの言う極致の部分に立ち入れないところだと思いますね。古来、日本人は道端に落ちている石ころにも魂が宿ると考えました。おかげで日本に神様は数え切れないほどいます。その中にはキリストもアラーもいます。日本人がアラブの国に行って「インシャアラー」を唱えるのに何の抵抗もないことやおじいさんのお葬式にお経を聞いた後にクリスマスを祝えるのはその証拠です。また、日本の古来の方の神様は聖人ではありません。人が悪いことをすれば鬼に変化する存在です。悪い事をしたという気持ちの中で鬼に変化するのが日本の古来の方の神様です。一神の神の完全性を説くことなく両面性を持たせていると言えます。 しかし、そうした考え方は極端を嫌います。聖人の極致には至れないとあなたが判断したようにあなたが日本人であるならば人の「環」の中で一人で立つことを考えた方がいいと思いますね。但しすぐにそうしなさいと言っても無理があります。>サリンジャーを否定されれば僕は完全に崩落してしまうだろうし という部分に象徴されていますね。月日をかけてゆっくり自分を変えていくことを考えるようにして下さい。コミュニケーションを考えるのはそれからでいいでしょう。いまあなたが転換点にいると考える方がいいように思いますね。 ちなみにサリンジャー氏はイノセントを追求しました。どれだけ自分の世界の中でピュアを貫けるかという事です。だとすればそれを現実世界になぞらえようとすると、とりもなおさずその現実が阻んで矛盾が出ることは日を見るより明らかだとも思いますね。現実がピュアを否定するんです。人は一人で生きてはいませんからね。あなたという100%ピュアな存在を100%受け入れることのできる人は存在しないという事です。そこに妥協を許さないという事は不可能だという事ですよ。同じ脳を持っているワケではありませんからね。 世の中に完全と言える事はごく少数でしかありません。今現実にあり得ることと過去に起こったことだけなんです。期待と現実をごっちゃにすると混乱するだけでしょうね。
お礼
>>まず、あなたの自我とは何ぞやという事を考えるようにして下さい。・・・ はい、僕は常にそのことに悩まされています。借り物の自我ということですが、僕は彼等のように頭が良いわけじゃないし容姿が優れているわけではないので、むしろ感情移入できる条件はそこまで整っているわけではないと思うのですがただ彼等の価値観(これは人間誰しもが経験する価値観で僕はそれに固執しすぎているのかもしれないです。)には共感せずにはいられないということなのです。仮に僕が彼等の姿を自己に重ね合わせているとしても、それが他人の自己の成型と何か違いがあることなのでしょうか・・・例えば自分は誰々の息子であるとか、誰々の友達であるとか、何々が好きであるとか、自分はこんな性格なんだよとか、こういったものもすべて周りにありふれた中の一つの例を自分に当てはめているにすぎない、つまり僕が作品の中の人物を自分に当てはめているように、自分の周囲のいずれかのものに少なからず影響をうけてしまっているとは考えられないでしょうか。回答者様は自分自身の自我をどのように捉えているのですか。僕が唯一自分自身の自我(周りからの影響をすべて取り除いた状態)についてはっきりと理解していることはそんなものはさっぱりわからないということだけです。 >>確かに人は己を美化し他人を見下そうとする傾向はありますが・・・ 傾向があるということは快楽を得ているのではないでしょうか。人間の行動を快不快以外で説明することはできないように思います。
- sna375
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あなたの考えている通り、 結局あなたは他人を見下しているのだと思います。 そしてそのように冷静に自己分析できる自分に酔っている。 私も同じような考えを持っていますが、 人から何を言われたところでそこから抜け出すのは無理だと思います。 そうすればいいのかは自分で考えるしかない。
お礼
共感して頂ける人とつながれることは貴重な安心感を得ることにつながります。あなたは人を見下したままで満足できていますか?そのように開き直ってしまえると楽なのかもしれませんが、今はどうしても罪悪感を拭い去れないもしくは受け入れることができないように思います。精神的に成長できていないのかもしれません。 僕はあなたのような人間を友達として求めていたはずなのですがなにか食い違っているものを感じます。僕は精神的に軟弱な人間とつるんで、駄目な人間性を認め合うことに酔ってしまいたいだけなのかもしれません。しかしそのような光景は今の僕の目から見ても非常に醜いものになってしまうように思います。
- publicpen
- ベストアンサー率37% (991/2627)
一言で言うと友達が欲しいってことだね。 その屁理屈を重ねる性格をしまって、他人の役に立つ人間になりなさい。 そうすれば自然に友達は出来ます。
お礼
そうなのです。まさに題の通りです。 屁理屈を重ねる性格をしまうなんて簡単にできることではないとおもいます。しかしそうすることができれば一番幸せなことだと思います。だからといってあなたや私は知性を頭から吐き出してしまえと言われてそのようなことが本当にできるのでしょうか。 また屁理屈を言っていると思われるのでしょうが、僕は他人の役に立つ人間になりたいと思いたくはないのです。ただ単純に人の役に立っているという状態になれればいいとは思いますが。そういう自意識みたいな奴を他人の頭やら自分の頭の中やらから取り出したいと思うほど盲目的に傾倒してしまっているのです。盲目的だということは分かっていても止められないんです。これが宗教とか賭博とか恋人とか何とか色んなものにすがらずにはいられない人間の心理なんでしょうか。
お礼
議論のための議論ですか。なんか納得しました。解決のための議論なんてただの馴れ合いじゃないのかとも思ってしまいますけどね。でもとにかく僕が本心では問題を解決したがっていなくて、安全な場所でグダグダやっているだけなのは確かだと思います。 >>「知性を持ってる=屁理屈をこねて周囲を嫌な気持ちにさせる」 屁理屈をこねるというか、まず僕がなにか嫌な違和感を感じてそれを言葉にしているだけなんです。僕が知性と言っているのはその違和感を感じるもののことです。それを吐き出したいのです。違和感を感じてもそれを隠すのが本当の知性なんでしょうかね、みんなそれを体得しているのかもしれないですね。 >>傍観してるだけじゃないですか 傍観する以外に方法があるのでしょうか。周りの人間をまるきり僕の価値観に洗脳でもしない限りには理想的な世界を作ることは不可能でしょう。そんなことはしたくもないし、妥協して自分を殺すこともしたくありません。また子供じみた議論のための議論になってしまったけど。もし仮にここで「そうですね。もうすこし相手のことを思いやって素直に相手の考えを受け入れたいと思います。」とか「もっと相手に理解されるようつとめます。」なんて回答してもなんの解決にもならないと思います。 僕にも違和感を感じさせない友人は何人かいます。ただその数は少なく、現在あまり会うことができず、新しい場所でそのような友人ができないことに悩まされているのです。誰でもいから友達が欲しいなんて人はいないでしょう。最短距離を走るには相当な勇気が要りますね。