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1974年頃の韓国の世情について
1974年頃の韓国はベトナム参戦の影響で高度成長期にあったといいますが、実際に人々の暮らしはどのようなものだったのか、文化や習慣など具体的に知りたいです。また、当時の中国、香港、日本との関係(意識)はどのようだったのでしょうか。互いに行き来することや、共同で会社を興すことなどは可能でしたか?
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実際の人々の暮らしは、知ってることだけ言いますと。 テレビはまだカラー放送が無く、白黒でした。韓国でカラー放送が始まったのは1980年か81年です。 写真のフィルムもまだ普通は白黒でした。日本では1974年頃といえば一般家庭でもカラーフィルムを使うのが普通になっていましたが、韓国ではカラーフィルムが非常に高価で一般化していませんでした。 人々の暮らしと言いますと幅が広いのですが、暮らしに溶け込んでいた行事でいいますと、しょっちゅう「反共集会」が開かれていました。学校単位、住宅地区単位などで構成された各種反共団体主催です。当時韓国で「反共」とは、「反北朝鮮」を意味しました。胸に「反共」「滅共(共産主義を滅亡させる)」などの刺繍入りの迷彩服、軍事教練服を着た中学生、高校生らが反共のスローガンを大声で叫びながら学校周辺を行進するなどの行事です。 一般家庭電話の普及率も低く、ちょっとお金があって電話を取り付けている家の電話を近所でみんな、借りっこしていました。自分に連絡して欲しい時も「この番号は近所の○○さんちの番号なんだ」と言って番号を渡し、電話が掛かってきたら電話のある家の人が呼びに行き、「すみませーん」と言いながら電話を取る、という状態。1970年代も後半になると少しずつ家庭電話を持つ家が増えてきます。が、1980年代後半でも家庭電話が取り付けられない家、ちょこちょこありました。統計の数字とかがあるといいんですが、それはちょっと知らないです。 人々は貧しく、国家の斡旋で海外へ出稼ぎに行き外貨を稼ぎ、家族・親戚達へ送金していました。今のフィリピンが海外出稼ぎの為に政府自体で斡旋その他をやってるような感じですね。男は西ドイツへ行き、炭鉱夫として働いたり、中東で建築労働者として働きました。重労働ではあるが、韓国の国内賃金と比べると驚くほど高額な給料だったそうです。夫からの送金で余裕のある生活ができるようになった奥さんたちの中には、夫がいない淋しさと余裕のあるおサイフ情況から浮気に走る奥さん方も登場。何しろ一回出稼ぎに出ると、4年くらいは帰って来れなかった。海外渡航の自由も認められていない時代で、パスポートを政府に発行してもらえるのも非常に特殊な人に限られていたので、奥さんの方から会いに行くなど出来ない話でした。よろめいた奥さんのことを指す「中東夫人」ということばも生まれました。夫が砂あらしの中、汗水流して働いてたのに・・・・。 女は、西ドイツへ看護婦として働きに行きました。西ドイツで看護婦が不足してたのかどうかは知りません。 一部の出稼ぎ労働者は出稼ぎ契約期間が終わった後も西ドイツに留まり、在ドイツ韓国人2世という人たちも現在います。 また在日韓国人からの送金も大きく、「日本の○○に住んでる叔父さんからの送金で私は高校へ行けた。いとこもそうだった。」という話は時々聞きます。
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- nogul2n
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1974年ってそんなにいろいろあった年だったんですね。知りませんでした。たまたま自分が知ってたことを書いてるだけなもので。研究熱心でいらっしゃいますね☆ 文世光事件といえば、実行犯が文世光ひとりだけではなかったというドキュメンタリーを8~9年前に見たことを思い出しました。韓国のSBS(ソウル放送)かMBC(文化放送)が作ったものでした。 射撃実行犯は彼一人として死刑が執行されましたが、番組では確か、米CIAかどこかの文書に現場で発見された弾の跡と、彼が発射した弾の数が合わないとかが書いてあるのを元に検証番組を作ってました。弾の数と、弾がどちらから撃たれたかの角度を見ると、明らかに射撃犯が複数いないことには説明がつかないんです。当時の現場会場警備をしていた元警察幹部の証言とか、全国に生中継されていた事件映像を繰り返しスローモーションで写して、「この時、陸女史(パク・チョンヒ大統領夫人)が倒れます。その次の瞬間・・・・」などと解説をしていきました。この番組を見た人は99パーセントの人が実行犯は文世光以外にもいたな、と思ったことでしょう。映像が持つ説得力には大きなものがあります。 しかし本当の事はわかりません。 かつて、やはりこの2つのテレビ局のうち1つがKCIAの元部長が行方不明になった事件を取り上げて、真相はこうだろうというドキュメンタリーを作ったことがあります。この事件も1970年代の事件でした。70年代後半ですが。旭という字がつくKCIAの元部長だったと思います。名前、忘れました。あの有名な『TK生からの手紙』(岩波文庫)には出て来ます。(70年代、80年代途中までの韓国の暗い部分といえばこの本ですね。後に一部批判もされたようですが、何と言っても当時、生の韓国を伝えてくれてました。) で、ノ・ムヒョン前大統領が行った過去の歴史を検証する事業で調べたところ、テレビ局がこうだろうと放送したのは事実でないという結論が出ました。国の検証では、パク・チョンヒ大統領に都合が悪くなった元KCIA部長はフランスで、本国からの命令を受けた在仏韓国大使館員よって殺害されていました。外国で韓国大使館の人間によって韓国人が手に掛けられるという、金大中事件に似た事件です。直接手を下したのは「第三国人」として具体的には調査されておらず、「第三国人」を殺害現場まで送迎し殺害させたのが在仏韓国大使館で仏語研修留学中の新人外交官たちでした。報告書には名前も出てました。しかしそれを直接命令した大使や公使は国の調査要請に一切応えなかったので調査出来ないまま、検証調査は終了し報告書が一昨年の秋に発表されました。報告書はなぜか、韓国国防省のホームページで公開されました。今もホームページ上にあるのかどうかはちょっとわかりません。私が見た時、コピーしようかなと思ったのですがものすごく長い報告書でコピー用紙が莫大要るのでやめました。この事件の次には金大中事件の調査報告書が載ってましたが、そちらはKCIA長官のよりもっと長かったです。本が丸ごと1冊は軽く作れるくらいの量でした。 話がちょっとそれました。つまりテレビ局が作ったドキュメンタリーで、すごい説得力があっても本当に本当かどうかはわからないですね。でも一つの説としてそういうのもあります。梁石日氏の小説の内容は存じ上げないのですが、もしよろしければ話のひとつとして御参考になさってください。 日本に留学に来てそのまま日本で通訳として働いていた人から聞いた話ですが、1972年の「7.4南北共同声明」を日本で聞いて、うれしくてうれしくてこ踊りするほどだった、すぐにでも統一が実現されると思ったそうです。お話を聞いたのは1980年代初めで、「あれからだいぶ経つんだけどねぇ。」と残念そうでした。それから更に月日が経ってますね。その人のお話を聞くとどうも、留学終わっても言論の自由の無い韓国へは帰りたくなかったみたいです。
お礼
とても興味深いお話をありがとうございます。 映像の説得力は何より強いということ、よく分かります。 金大中事件に似た事件がフランスでも起きていたということも初めて知り、唸りながら拝読いたしました。 (『TK生からの手紙』は探してみたのですが、残念ながら手に入らないようです。) 来日なさっていた韓国人留学生の方は、率直に南北共同声明を喜んでいらしたのですね。このエピソードもたいへん参考になりました。 今までは共同声明を訝る声の方ばかり見聞きしていたように思います。 あれからだいぶ経って、さらにだいぶ経って…。 年表に箇条書きにされるほど年月が経てば単純な歴史のベクトルになってしまうものを、こうして少しずつ検証していくことで人間の心情から理解していけるような気がしています。 貴重なお話をご親切にいろいろありがとうございました。 急ピッチで理解したい事情がありました時に、とても参考になりました。 詳しく書いて頂き、お仕事の時間等割いて頂いたのではと気になります。 本当にどうもありがとうございます。
- nogul2n
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5番回答者様の御回答を拝見して思い出しました。 御質問の頃は韓国と中国(中華人民共和国)は国交が無く、国交が出来るのは1992年になってからです。当時、韓国で中国と言えば台湾のことを言い、「自由中国」とも呼んで友好ぶりを表していました。中華人民共和国の方は「中共」と呼んで卑下していました。既出のパク・クネ国会議員のホームページには、経歴の所に「自由中国留学」とあります。大統領候補だった国会議員が今も自由中国と言ってていいのか、他人事ながら気に掛かる所ではありますが。台湾支持の方々からしたら望ましいと思うことでしょう。 1974年という具体的な年を挙げていらっしゃるのは何か意味がおありなのでしょうか? 他に思い出したことは、台所です。住宅事情も悪く、都市の庶民からしたら公団住宅のような文化的な住宅に住んでいる人はうらやましい存在でした。文化住宅のような団地自体もまだあまり建てられておらず数が少なく、上水道も一生懸命伸ばしている最中でした。炊事は水が出るところの土間でかがんでするのが都市の庶民の家では普通でした。つまり、う○こ座りみたいな姿勢で食事の準備、皿洗いです。洗濯も、行水もそこでする。ですので女からしたら団地式の文化的な住宅にある、今なら普通ですが流しがあって、まな板を置くスペースがあって、コンロがあるという台所はあこがれでした。今なら普通の台所のことを、わざわざ「立式台所」と言ってました。立って炊事が出来る。かがむことで足が痛くなる事がなく、泥の地面から食べ物が離れるので衛生的にも良い。不動産屋さんの紹介で家を見に行って台所が文化的な所だと、「立式台所!」と女達は大興奮でした。 1970年代後半に団地がたくさん作られましたが、1988年ソウルオリンピックの頃でもまだ、立式台所!と喜んでいたので本当に普及したのは1990年代以降になります。今の韓国の若い人は生まれた時から物質的に豊かですから、立式台所なんてことばも知らないでしょう。地べたで料理するなんて、何それ?キャンプじゃないんだから、と言いそうです。 1978年くらいの映画で「暗闇の子供達」というのがありました。今日本で見るのは難しいかと思いますが、もしかして何かの機会がおありになるかもしれないのでご参考までにお耳に入れようかと思います。 田舎から出てきた若い女がだまされて売春街で働くようになり、悲しみの中にいたがスラムの孤児たちの世話をするようになる、でも貧しい・・・、絶望的な話の映画です。ナ・ヨンヒという女優が主役でした。ナ・ヨンヒさん、今もホームドラマに出てますが、この頃とほとんど変わらない驚異的なお顔。梁石日氏が同じ題名の小説を書かれたそうですが、もしかしたら昔のこの韓国映画を見たことがおありなのかな、とも思います。
お礼
興味深いお話をたくさんありがとうございます。韓国のキッチンというと、最近のドラマに出てくるような欧米式のイメージしか持てずにいましたから、ある意味日本よりずっと文化的だったように勘違いしていました。このような生活に根ざしたお話がうかがえると本当にありがたいです。 1974年は日本赤軍の企業爆破事件、ハーグ事件、学生運動、ベトナム戦争は米軍撤兵してまだ続行、ポルトガルでは革命が起きて独裁崩壊したけれどスペインではフランコが健在で、韓国には朴体制があって。現代史を勉強するにあたって、まずは1974年から遡行しようと決めたのですが、当時の日本の学生たちの意識に近付こうとすると、韓国、また在日という存在につき当たり、日本人が何を思っていたかは周りにも聞ける人々がいますが、韓国の実情がまったく分からず困っていたところです。 出稼ぎ以外に国外に出るのは困難だったそうですが、当時韓国から日本に来ていた方(在日ではない韓国人)がいたとしたら、どのような感慨を持っておられたのかも知りたく思っております。 また何か思い出されることがありましたら、よろしくお願い申し上げます。 「暗闇の子供達」はDVD化されていないと分かりましたが、記憶にとどめて機会をうかがいたいと思っております。 梁石日さんは大好きな作家です。「闇の子供達」はなるほど、同じ題材ですね。
- DDRSDRAM
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高度経済成長といっても、韓国の1960年代は世界の最貧国(今の北朝鮮並み)で、高度成長でやっと最貧国脱却といったレベルでした。朝鮮戦争後の復興が進まず北朝鮮より貧しい(当時は北朝鮮の方がソ連の援助で豊かだった)状態の中、1965年の日本との国交正常化で援助を得て、やっと工業化をはじめて軌道に乗ったころ、生活レベルでは庶民が肉を食べるのは月に何回あるかのレベルでした。 政治的には、東西冷戦の真っ只中で、日本国内での「親北朝鮮派」と「新韓国派」の対立がありマスコミは基本的に「親北朝鮮派」で韓国批判(朴大統領の独裁だとの批判)がすごかったです。韓国自体も学生運動などが激しく、戒厳令がしかれていました。当時は韓国と中国は国交もなく、北朝鮮&中国 vs 韓国&アメリカで、朝鮮戦争の冷戦版状態でした。それから香港は当時イギリス領です。対立とかはありません。 当時進出した企業は、今の中国や東南アジアへの進出のようなイメージでした。共同で仕事をするというより安い労働力を求めての韓国進出でしかありませんでしたね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 当時の企業の韓国進出について、おぼろげながら想像することができました。その時代日本に猛烈な韓国批判があったということも、今では信じられないような状況になりましたが、世論というのはいつの世もそういうものなのですね。
- nogul2n
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ちょっと硬めの情報も。 1974年と言えば、「民青学連事件(みんせいがくれんじけん)」が有名です。検索をなさると詳しく御判かりになると思いますが、政府に反対する運動(反政府運動)をしていた全国民主青年学生連盟(民青学連)が国家転覆を図ったとして、韓国中央情報部(KCIA)によって学生・市民1000人以上が令状なしに逮捕拘禁された事件。言論を始め自由の無い時代でした。反体制知識人、政治家も関連者として逮捕され、有罪判決。当時韓国に留学していた日本人2人、太刀川正樹氏、早川嘉春氏も逮捕され、外交問題になりました。「太刀川・早川(たちかわはやかわ)事件」として日本でも連日大きく報道され、軍事独裁政治に呻吟(しんぎん)する韓国の暗黒の社会状況を日本人に知らせる事件のひとつとなりました。2人は有罪判決を受けましたが、その後国外追放になり帰国。その後、早川先生は最近もNHKのラジオ韓国語講座講師としてご活躍(テレビにも出演してらしたような気も)。太刀川氏はフリージャーナリストらしいです。 この時逮捕された人の中には反体制文学者、キム・ジハ(金芝河)もいて死刑判決が出され、日本ペンクラブなどを中心にして日本でも広く救命運動がおこりました。「キン・シガ氏」(日本の音読みでの金芝河)の音で記憶している日本人も多くいるでしょう。 事件自体は当時からパク・チョンヒ政権によるでっち上げだという話が主張されていましたが、ノ・ムヒョン前大統領が作った「過去の歴史を洗いなおす政策」の一環で再検証が進められ、KCIAによる捏造、でっち上げであったことが数年前に発表されました。 1974年8月15日は、「文世光(ぶんせいこう)事件」。在日朝鮮人2世、文世光が大阪の交番から盗んだ銃によりパク・チョンヒ大統領を襲撃した事件で、大統領は無事で大統領夫人が射殺されました。大統領はこの事件で日本との断交を大声で主張したそうです。文世光は朝鮮総連の指令を受けた事がわかっています。現韓国与党のナンバー2であるパク・クネ女史は何かのインタビューの時に「私は母を北朝鮮に殺されましたから」と答えています。 1974年前後の様子と言えば、 1970年に、劣悪な労働情況に抗議してチョン・テイル(全泰壱)という工員が人々の目前で焼身自殺を図った「チョン・テイル事件」がありました。主要な輸出品であった繊維製品(安価な洋服など)を作るため、工場では超低賃金、超長時間労働で多くの労働者が働いていましたが、田舎からソウルに出て来たチョン・テイルは夜間学校で世の中に労働法という物があることを知ります。でも現実の彼の職場ではそんなものは守られていない。監督官庁もそれを知りつつ無視。なぜ法律を守らないのがまかり通っているのだとあちこあちに聞きますが、守っていたら会社がやっていけない、国がやっていけないという答だけ。22歳で抗議の為焼身自殺をして死亡。日本人観光客も多く行く東大門ファッションエリアの一角に去年、彼の像が建てられました。彼が働いていた縫製工場が近くだからです。当時の労働環境は本当にひどいもので、女工哀史みたいな感じ。手元見えないじゃん、みたいな暗い工場でゴホゴホせきしながらミシン回してる映画がありました。 1972年、パク・チョンヒ大統領が「十月維新」を断行。大統領が、国会解散、政治集会の禁止、大統領の多選を禁じていた憲法を改定し自身が終身大統領に就けるようにしました。大統領自身は革命だと言ってました。明治維新の維新を意識して付けた名称であるのは明らか。大統領の独裁を更に強固なものとしたこの憲法を「維新憲法」といい、その元で行われた政治体制を「維新体制」といいます。よろしかったら「第4共和国」でも検索なさってみて下さい。維新体制は1979年末のパク大統領の死まで続きますが、言論の自由が無いという状態は1987年6月29日の「6・29宣言(6.29自由化宣言)」まで続きました。 1973年、「金大中事件」。野党リーダー金大中氏が日本から誘拐される事件がおこりましたね。これは超有名なので省きます。 1972~1976年の経済成長率は、たまたま手元にあるアジア経済研究所発表の資料によると10.1%です。かなりいいですね。 この時期、同大統領が行った政策のひとつとして有名なのが「セマウル運動」という農村改革運動です。よく知りませんが、国が音頭をとって全国的な大運動として行われました。形だけ政府とは別組織にしといて、実は国による地方掌握機構のひとつでもありました。大統領が「農村のわらぶき屋根が我国の農村の貧しさを象徴している!わらぶきはダメ!トタンでも何でも他のに変えろ!」の一声で、わらぶきの家は非国民、みたいになって一斉にわらぶき屋根を追放。後で、セマウル運動って結局わらぶき屋根がなくなって、各種利権にかこつけてセマウル中央組織の役員が私服を肥やしただけの事じゃないかと批判されました。貯蓄部門のセマウル金庫という銀行は今もあります。
お礼
たびたびのご回答、本当にありがとうございます。 金大中事件もまた、日本側の見地から考察していただけだったのですが(映画「KT」がありましたね)、朴政権の背景と国民意識が少しでも分かってくると、だいぶ見方が変わりました。文世光事件は梁石日さんの小説「夏の炎」を読んでいるところです。
- john16
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ベトナム派兵の見返りとして、韓国は米国から経済支援、そして米国への移民を受け入れを認められました。 そして、主に日本から観光客などを誘致し、キーセン観光で外貨獲得を狙いました。しかし、さすがにこれは貞操の問題で不快に感じる人も少なくなかったらしく、度々反対デモが空港で行われたそうです。 また、これらの影響で国内経済は発展しましたが、同時に資本主義国としては避けることのできない、国民の貧富格差も生じてきたのです。これに加え、独裁政権としてのレッテルを貼られ、金大中事件などで対外的に厳しい評価を受けていた一方、北朝鮮は社会主義神話によって、「地上の楽園」として、崇められていました。これが今の南北朝鮮とは正反対の状態だったと言えます。 あと、朴大統領は日本の陸軍士官学校を3番で卒業したエリートで、植民地時代当時の日本名は「高木正雄」でした。 1961年に軍人としてクーデターを起こして、大統領に就任し、日韓国交正常化の際も、日本語で会談に臨み、日本側からは「鹿児島の田舎者より日本語が上手い」と評価されたそうです。 1979年に暗殺されるまでの17年間、大統領の座に留まっていたのですが、この間の独裁に加え、植民地時代に日本に協力した「親日派」としてのレッテルが今になって、尾を引いているようです。 尚、今彼の長女の朴謹恵(パク・クネ)も国会議員であり、韓国内で最も注目されている政治家の1人です。李明博大統領とも同じ党内で党認候補として争った末、僅差で敗れて、大統領選挙には至りませんでしたが、4年後の大統領選挙で再び出馬するのではとの憶測も飛び交っているようです。 詳しくは、『徹底比較 日本vs韓国』(高月靖著・河出書房新社・08年)に記述があるので、参考にしてみてください。 大統領が暗殺された頃を描いた映画で、『ユゴ~大統領有故』というのがあります。
お礼
ご回答ありがとうございます。日本の観光客誘致など、たいへん興味深く拝読しました。現在の日本人の韓国に対するイメージからするとまさに隔世の感ですが、朴大統領の長女のことを知り、脈々と繋がっているんだなと感じて、ますます興味がつのりました。教えて頂いた本と、映画もさっそく探してさらに勉強します。ありがとうございました。
- trajaa
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昭和49年頃ですね・・・・ 朴正煕大統領の政権も長期化して様々な矛盾も出てきた頃かな? 暗殺未遂事件もあり(奥さんが犠牲に)、徐々に民衆から遠い存在になったのではないだろうか? そのような状態であるので、貧富の差や思想弾圧なども大きかったはず。 当時を題材にした映画などを見ると、上流階級(軍の上級幹部や財閥を始め資産家)は洋風の現代的にな装いですが 普通の一般庶民は、衣食住も決して満足な状態でも無く衛生状態も充分でないと思われます。 まだまだ農業主体の産業構造でしたし、そう言う意味では昔からの儒教思想も強固だったでしょう。 中国は、北側の後ろ盾ですから、恨み骨髄に徹すという感じじゃないですか? 香港はどうだろう? 日本に対しては、民衆は植民地支配の実体験者も多かったことから 決して好意的なものでは無かったと思います。 一方朴大統領自身は日本で教育を受けたと記憶していますし、その国家開発の手法に戦後日本の方法を参考にしていたと思われる点もありますので、多少は異なっていたのかもしれませんが 何せ、彼の治世は私の子供の頃ですので、正確なことは不明。 文化や民族風習などは詳しくないので、必ずしもお望み分野では無いですが、参考になれば。
お礼
早々のご回答、どうもありがとうございます。 朴大統領が日本で教育を受けたということ、初めて知りました。朴大統領の存在から、さらにこの時代を調べてみようと思います。 「当時を題材にした映画」とご回答の中にありますが、お勧めの作品がありましたらお教え頂けると大変ありがたいです。どうぞよろしくお願い申し上げます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 具体的に暮らしの様子などが分かり、たいへん参考になりました。海外渡航の自由は認められていなかったのですね。今まで、とかく日本側の観点から韓国を考えることしかできずにいたのですが、考える方向が韓国寄りにシフトできてきました! 「中東夫人」……興味深いエピソードです。