- 締切済み
隙間 ・・社会の隙間
大それたことはできかねますが、法律の枠から外れてしまっている 難病を抱えておられながら、それでも前向きに生き切っていらっしゃる方々、、、 個人として力になれることはどんな事があるのでしょうか。 心が痛んでも、励ましの言葉など無味乾燥のようにも思えて・・・
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
みんなの回答
- theonti
- ベストアンサー率29% (239/802)
121の疾患が難病指定されていますが、 此処で言う難病とは違う事として回答させていただきます。 わたし達はなりたくて、病気になる訳ではないし、生まれて来た訳でも無いですよね。 目が、口が、耳が、手が、足が、不自由。 思考回路が、内臓が、筋肉が、皮膚が心が病んでる。 そして、健常者。 みんな、平等な権利があり、義務があります。 健常者は、不自由な人に比べて多くの事が出来ます。 つい、してあげたい気持になります。 しかし、何かをしてあげる、と思う事がもう見下しているんではないかと考えます。 以前仲間で慰問に行きました。 楽しませてあげよう、手助けをしてあげたい、と言う気持ちからです。 何年か続けている内に、違うぞって思いました。 その人達の心の大きさ、明るさ、優しさに触れて、自分達が癒されているんだって。 それ以来、何かしてやろうとかの考えは起きなくなりました。 自然に手が出ます。声が出ます。その人の為にではなく自分のために。 結論は、してあげる必要はないという事です。 させてもらえる事は一杯あります。 してあげるのは身も心も疲れます。 させてもらえれば癒されます。 時間が許せば、また始めたいと思います。
社会の隙間は病気だけではありません。法律の枠から外れた人達なんていません。yoboba さんも私も笊法の隙間に嵌るのです。だから、難病を抱えている人と限定することは、法治国家に生きる人達を自分勝手に分類することになってしまい、果ては差別化に繋がりますから注意しましょう。 さて本題ですが、個人として力になれることは千差万別で多くあります。が、病気によっては人助けが苦痛にすらなる場合もあるのです。頭でこうしよう、こうすれば良い、と考える前に行動しましょう。「何かお手伝いしましょうか ?」とか「私にお手伝いできることはありませんか ? 」とか「此処にいるので手助けが必要なら言って下さい。」と話し掛ければいいのです。 励ましがなぜ無味乾燥に思うか解りますか ? それは、自分が望んで患ったのなら自分の責任で、患っているのが嫌なら、自分が治るように努力すればいいだけですから励まされれば頑張れますが、病気はなりたくてなるのではなく、誰でも患うかもしれないのが病気で、それを自分が頑張ったところでどうにもならないし頑張りようもないからです。だから、同情から励まされても自分が責められているように思ったり、哀れみとしてしか受け取れないからなんですよ。 yoboba さんの優しい気持ちは十分に受け取っていますし、今後も持ち続けてほしいと思いますが、同情から何かをしてあげたいというのは、人を対等に見ていないことでもあるのです。病気の有無や難病だからというのではなく、いつ自分が患うかもしれない病気の先輩から、何が助けになるのか教えてもらうことから始めましょう。
お礼
mindlifeさん 私のこういった問題に無知で・・・しかしながら現実に 自分の命を削って、辛い立場を訴え続けている姿に、自分の無力を 痛感・・・こちらでご意見をお聞かせ願っております 励ます事必要などなくむしろこちらが元気を頂いている感覚なのです。 そうなんですね ≪いつ自分が患うかもしれない病気の先輩から、何が助けになるのか教えてもらうことから始めましょう。≫mindlifeさんのこの言葉に 今度その方にお会いしたとき「励まし」の言葉ではない心のメッセージ を伝える事ができそうです。 暖かいご回答ありがとうございました。
- hyakkinman
- ベストアンサー率16% (738/4426)
【友達】、それも「ひとりの人と、一生涯付き合う【親友】になること」です。 難病をかかえながらも前向きに生きている方は、私たち健常者よりもはるかに、心の綺麗な方が多いです。 「あなたのおかげで、心がきれいになりました。ありがとう。」そういう気持ちにさせてくれます。 会話をして、一緒に笑って、一緒に泣けばいい。 現代社会が忘れかけている「人間の原点」です。 隙間を埋めるのは、そうした「人間らしい心」のはずです。 それは、「年表や公式や漢字、英単語の記憶力を競うだけの教育」では、育まれないでしょう。 「教育、環境、福祉、経済…」すべての社会問題に全国民の意識が向かないとダメだから、勉強も必要です。 難病の方たちは、毎日を一生懸命生きています。 私たちにそれが出来ているでしょうか? たった一時の励ましじゃなく、生涯の友達として、普通のおつきあいをすればいいだけです。 それと… 今は、「心の病」のほうが「難病」だと考えます。 「自殺、誰でもよかった殺人、いじめ…」などの「心の戦争」が起きている。 「楽を求め、人を育てることができなくなった大人たちの責任です。」 「会話をし、笑い、泣き、他人の痛みをわかり、他人を助け、他人と協力し、創造してゆく。」という「人間らしさ」を育めるようにみんなが心がけていかないと、大変なことになりそうです。
お礼
hyakkinmanさん ありがとうございます。 人が人を助ける事はそこに優劣や上下があってはいけないのでしょうね 「わたし」はあなたであり「あなた」はわたしであり やさしい言葉など掛けたところで何の意味も見出せない私なんです。 希少難病と闘う彼女の削られていく命の肩代わりはできないが募金活動のPRやシステム作りのお手伝いと言う形で・・同志の形をとるのがヤッパリ一番・・・ いつもの暖かいご回答ありがとうございました。 勇気100倍!!人が人であることを試されそうな21世紀ですね。
- Nannette
- ベストアンサー率26% (1499/5697)
yobobaさん お早うございます・・・・・ このところもあいかわらず病院通いを続けていますが、そこでいつも目にする光景・・・。かなり高齢で、もはやボンヤリとしてしまっているご主人、その方が座った車椅子をやっと押して歩いているのが、これまた、膝をかばいながらなんとか歩いているといった感じの高齢の奥さま・・・。 それもワンカップルだけじゃない。何組も居て、時には狭い診察室への通路で、出る車椅子と入る車椅子とが互いに向かい合ってしまって、どうしていいか分らなくなってオロオロしていらっしゃる・・・・。 そんな時には、ほかの方々も私も、気がついた誰かがすぐさま立ち上がって手をかしてさしあげる、それはそれでいいことだと思います。 ですが、こんなことって、もっと根本からなんとかならないのでしょうか。介護保険とかなんとか、それに福祉って言葉、どこに行っているんでしょう。 また、最近は私たちの町の町内会でも、町内に住む一人住まいの高齢者の方のリストを作成したいと努力しているのです。やがて首都圏を襲うと言われている大地震、その際に町内挙げて、避難や救出、生存の確認、そして生活援助などといった救援の手を差し伸べたいからなのです。 ところが、そうした調査を進めてみても、その実体はなかなかつかめないのです。 なにしろ・・・隣りは何をする人ぞ・・・の大都会のこと、近隣の方々もよく知らないといった状況だし、しかもその上に、当の高齢の方々も、こうした調査の真偽を疑って応じることを拒否されたり、中には、地震が起きたらここで死ねばいい・・・・と、キッパリと門前払い、だから正しいことがなかなかつかめない。でも、だからといって、そのまま放っておくわけにも行かないのです。 でも、その一方で、たとえば民生委員の方々なんかはそうした高齢者のお宅をつぶさに訪ねていますから、実態は正確に把握しているのです。それなのに、こちらはこちらで、プライバシーの問題だとかで、そうした情報は町内には一切伝えられないとの回答が・・・。 こうした一人住まいの高齢者に対して、何がいま一番大切なのか・・・・そんなことを考えさせられる、小さくてとても大きな、「真の思いやり」という頭の痛い問題にぶつかって悩んでいます。
お礼
Nannetteさん いつもありがとうございます。 揺れる私の気持ちをこの質問で確認整理をしたかったように思います。 自分がいつも健康でいられるとつい健康である事が優位な事だと、錯覚 してしまうのですね。 個人が幸せでなくて全体の幸せなどないのですよね。 弱者が追いやられる社会はけして成熟した社会ではないですよね。 一人ひとりが幸せな社会を目指すのも結局一人ひとりの目覚めなくしては成り立たないのでしょう・・・勇気ある一人になりたいものですが へなちょこで揺れる心がうらめしいのです。 あぁ~お礼にならずに グチになってしまいました。 ありがとうございました。
私は障害者ですので、隙間とは言えませんが、 去年NHKで2分ぐらいの短い特集で、確か遠位型ミオパチーと、今確認したらちょっと違ってましたが、そんな難病にもかかわらず、同じ病に罹られている方々のために、必死になって活動されている方が紹介されていました。 パソコンを手に入れたばかりなので、こんな風に利用できるなんて、と思ってその方にメールを送りました。 こんな風に、誰だって、どんな人だって、応援できるんですよ。 参考にしていただけたら、幸いです。
- 参考URL:
- http://www.nanbyo.or.jp/
お礼
sc32ne2977さん ありがとうございます。 まさにおっしゃるとおりですねどんな小さなことでも、心の動く ことにトライしていくしか仕方ないですね。 同志として何処まで自分を追い込む事ができるか友人と二人考えて いるところです。 私のともすると揺れる弱い自分とのせめぎあいにsc32ne2977さんのご回答がまた一つ背中を押してくださいました。 ありがとうございました。
ご質問文の真意を取り違っていましたら申し訳ございません。 私が持ち得ない「優しい気持ち」から溢れ出たご質問と解釈いたしました。 個人の力には確かに限界があります。 しかし、人間の心の持つ力は数学どおりでは無いと考えている私がいることも事実。 個人と個人の繋がりは1+1=2とは限りません。 少しでも人と優しく接することを多くの人が望めばそれは大きな力となるでしょう。 言葉も文章も捉え方によっては、ご質問者さんの仰るとおり無味乾燥にもなるでしょう。 しかし、私はご質問者さんのご質問文から「優しい気持ち」を感じました。 つまり、ご質問者さんがお書きになった文章は私にとって無味乾燥なものでは無かったということです。 私は以前、「文章で気持ちは伝わりますか?」という主旨のアンケートをさせていただいた事があります。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4538266.html この時、ご回答くださった方から「言葉の方に力がある」というご意見も頂きました。 ご回答者さんの文章に私にこの回答を書きこませる力があった。 ならば、ご回答さんの言葉の持つ力はそれを凌駕している。と私は考えます。 諦めないでください。 何に対しても誰でも最初は小さな一歩から踏み出す事しかできません。 その小さな一歩が一番大きな力を持っている。 これは私の希望でもあります。 的外れかなと感じつつ、ダラダラと駄文を連ねてしまいましたがここまでお読みいただけていれば幸いです。 失礼いたしました。
お礼
kappa-yさん 私の重い質問に光を見出すご回答感謝申し上げます わたくしが関わっているNPOの活動の中での出来事です kappa-yさんの「少しでも人と優しく接することを多くの人が望めばそれは大きな力となるでしょう。」 「」の部分に大きな希望と一筋の光を感じます その方のひたむきに一生懸命生きている姿はただ頭が下がるのみです。 そこで出会えたご縁を大切に何かがあるのだと思っています。 暗中模索の現状ですが貴重で有意義なご回答ありがとうございました。 質問とは直接関係ございませんが【言葉の力】には常日頃 驚かされることが多だございます。投げかける言葉も自分への言葉も できればプラスの言葉を使いたいこの頃です。 ありがとうございました。
お礼
theontiさん 良くわかります。わたしも時間が許せば障害児(者) 施設にダンス慰問に出かけます。無理してでもまた行きたくなるのは その方々の頑張っている姿を目の当たりにして自分が元気をもらって 来るからなんですよね。 そうか・・改まって何かをなんて身も心も疲れますね 身の丈にあった自分の心もやさしくなれる事を一緒に探って 行く作業を考えたいと思います。 実践から来る暖かい貴重な回答ありがとうございました これからもよろしくお願いいたします。