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楽しいことがない
楽しいことがない 心が醒めているせいで単純なことや何気ないことに 楽しさを感じることができないです。 ですから日々の生活が無味乾燥で、毎日虚しさを感じています。 馬鹿になることができる人や単純な人が羨ましいです。 幼児の心のように、くだらないことやどうでもいいことに 興味を持ったり、日々の退屈な生活を楽しめるようになるには どうしたらいいでしょうか。 皆さんのお知恵をお貸しください。
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虚しさって実は満ち足りてる事をネガティブに捉えるとそうなったりするんじゃないかな?って私は思います。 なんでもそうですけど、子供が夢中に楽しめるのは純粋にポジティブだからではないですかね? どうでもいいような事が素敵に見える。 バカらしい事の裏側にある凄さを見る。 すべては表裏一体なんですから、ポジティブに見る柔軟性というか、想像力を日頃から使ってみてはいかがですか? でも「つまんない」って言ってる事が楽しいならそれでいいんだと私は思います。 試しに「つまらん」を大きな声で何度も言ってみると馬鹿らしくなれますよ(^^)v
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- parico
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>幼児の心のように、くだらないことやどうでもいいことに 興味を持ったり、日々の退屈な生活を楽しめるようになるには どうしたらいいでしょうか。 感じたことをそのまんま、おしゃべりすることだと思いました。 箸が転んでも可笑しい年頃って、良くしゃべるでしょう? いいこと悪いこと…^^ いろいろな人と話してる中から、興味を持つことが発見できたり… おしゃべりな人は皆楽しそうですから、形から入るのもいいかも しれませんね。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
#2です。 >日々の生活が楽しくない人はみんな鬱病ですか? 日々の生活が楽しくない人には二種類あります。 1.日々の生活に楽しみを求めない人 2.うつ病の人 質問文を読む限り、日々の生活に楽しみを見つけたいとお考えのようですから、鬱でなければ、今日は大きなウンコが出たぞとか、今日は地下鉄で喧嘩していた若いのがおったぞとか、今日の昼食は何を食べようかなど、日々の生活を楽しむことができるようになります。 日々の生活に楽しみを探しておりながら、飯を食っても糞が出てもなにも楽しくないのは消去法で考えるとうつ病が原因である可能性が高いです。 診断はネットではなく、専門医の意見を尊重してください。
- shizumo
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私も老いることと死ぬことは常に意識してるし、もともと感情の薄いほうなのであなたと似て物事をさめて見ています。 何かに対して「面白い、楽しい」と感じるのは脳の化学的な問題です。だから難しい。特にお笑い芸人などは「面白さは理解していても感情的に面白くない」 私は「興味深い」こととして物事を楽しく感じるようにしています。人とは面白さのベクトルが違ってきますが満足です。もう一つは意図的に面白さを見つけることです。駅から自宅までいつものルートで帰るのではなく、違うルートで時間をかけて路上観察をすると興味深い発見があり、面白い。 感情的な面白さではなく知識的な面白さを見出すのです。そしてこれは子供と同じでしょ?
- hyuuma8579
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たぶんですが、因習観念に捉われてしまっていることによって、心がフリーズしてしまっているのかもしれません。 子供が、素直に興味を持つことができるのは、既成観念や既成概念がないからです。 あなたのように、ある何かの対象や行為などに対する決めつけ的な考えに縛られていないからだと思います。 言い方を換えれば、幼児などは、自由意志の自由度を、最大角度にまで広げることができるということではないでしょうか。 大人で無知ではいけませんが、賢くなったものの、その知や知識によって、自由意志に束縛を受けるのもいけません。 知識を得たかわりに行動や考えが呪縛を受ける・・・大人の問題点はここにあります。 狭い知識と狭い経験値が、結局は自由意志を自己制限してしまうのでしょう。 「賢者は歴史を語り、愚者は自分の経験を語る」こんな言葉があったと思います。 要するに、狭い視野に捉われることなく、歴史という長くて広い視野に立って見ることの必要性を説いているのだと思います。 もう一つは、単純なこと何気ないことというのは、この世に無限にあるのです。 そのことを称して「普通」ともいいますが、実は普通のこと、何気ないことの中にこそ、驚くべき内容が隠されています。 それを普通で終わらせるか、奇跡や宝物の発見につなげ、最大価値を見出すかは、本人に委ねられているのです。 山一つ見るのでも、どこから見るかで、評価は違います。 ある方向から見たら、普通であっても、別の方から見たら、驚きの発見があるかもしれません。 我々は、見過ごせればいくらでも見過ごしてしまうものがいっぱいあります。 何をどう思い、何を発見し、どう解釈するかで、無味乾燥なものにもなれば、良き教科書にもなるのです。 蟻一匹や、水の一滴が語りかける世界は、探せば、大宇宙にも匹敵する豊富な内容があるのです。 ある対象がくだらないかそうでないかの価値決定は、その対象自体にあるのではなく、それを評価する主体(=人間)にあるのです。 あなたは、外側よりも、もっと自己自身や自己の内面の世界に意識を向けてみたらどうでしょうか? 簡単に言えば、自分を良く知るということです。客観的に知るだけでなく、主観的に「どういうときに自分は嬉しいんだ」とか、素直な自分の情を探し出す旅に出て見てください。 素直な自分を見つめ、嬉しい時でも悲しい時でも、そんな自分を愛し、大切にすることができたら、初めて人も物も動物も愛したくなるはずです。 何気ないものやことの中に喜びがある・・・これが奇跡の原点だと思います。 何故なら、「へえ~!こんなたわいもないものの中に、こんなにも大きな喜びがよくも隠されていたものだ」と驚かされ、喜びに満たされるからです。
#6です。 > なぜ無理だと思うのですか? 質問者さん自身がその証拠になってます。 「一生懸命」と書いた意味はですね、その世界のことを知らないのに楽しみがわかるはずがないという意味なんですよ。 海の生き物には陸の生活は想像できない。 モグラは空を飛んだことがないから飛ぶ楽しさが想像できない。 ニンジンを食べたことがなければニンジンの美味しさはわからない。 芸術に触れることで感性が磨かれるという場合があるかもしれません。 しかしそれは幼児への回帰ではなく、新しい世界が開かれたことになるのです。 マンガの主人公みたいに突然美女が自宅を訪ねてくるなんてことはないのです。 子供が、大人からみて大したことではないことにいちいち感動するのは、子供にとってすべてのものが新鮮だからだと考えられます。 大人にとって、子供が見るようなものそれ自体はすでに新鮮ではないので同じような感動はしない。 同じ花を見て感動するのは、その花に別の姿を見たとき。 それは世界を広げることによって到達するものです。 それは植物についての知識を深めることによって到達するのかもしれないし、美的な感覚を研ぎ澄ませることによって到達するものかもしれない。 何かに一生懸命取り組むことによって、自分の世界が広がることがあります。 しかし、漠然と見ていてただ待っているだけでは世界は広がらないのです。 年齢を積み重ねていくと、同じような日常を繰り返すことに喜びを見出すということがあります。それは、若い頃に不安定な生活を体験してきたから到達できるものであって、安定自体が新鮮なわけです。 狭い穴倉の中でくよくよしていても楽しいわけがありません。 外に出ましょう。
童心に返るというのは不自然だし無理があると思います。 成長した現在の自分に合わせた別の楽しみを探すことが必要なのではないでしょうか。 たぶん、質問者さんは学生さんなのではないかと思います。 楽しいことよりもまず、一生懸命取り組むことを見つけるのが先です。 取り組みの中で楽しみというのが出てくるものです。 何もしていなければ楽しみが生まれることはありません。 ただ漫然と毎日を過ごしていて、ある日楽しみが突然やってきて玄関をノックするなんてことはないのです。 少々辛らつな言い方をすると、こういう人を生かしておくために使うコストを、本当に困っている人に回してあげて欲しいと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 一生懸命に何かに取り組めば楽しみを見出すことも あるかもしれないですが、 私は退屈な日常に楽しみを見出したいのです。 そしてそれはちょっとした習慣や、気の持ちようでなんとか実現 できそうな気がしないでもないのです。 なぜ無理だと思うのですか?
人生は楽しいことが少なくて、嫌なことや辛いことの方が圧倒的に多いですよね。 日々感じています。 童心に返れるかどうかは分かりませんが、 甥っ子を連れて公園へ行くと必ずブランコに乗ります。 私も一緒にブランコに乗って、勢い良く高いところまでこいで見ると なんだかスカッとまではいかないまでも、楽しい気分になって子供の頃を思い出します。 大人でもブランコって必要!って思ってしまいました。 恥ずかしいかもしれないけれど、試しにやってみてはどうでしょうか? それか、子供の頃好きだったことをしてみるとか。 何か作ったり、絵を描いてみたり、音楽をしてみたり。 子供の頃にしていたことや子供がしそうなことをやってみてはどうでしょうか?
- kimari14
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目で聴く 耳で観る は禅僧の必修項目です きっと子供は そうしているんじゃないですかね 目に見えるものと目で聴きわけるものとは どちらが楽しいのかを知っているのでしょう 子宮の中で、10ケ月間 見えぬ目で聴き、聞こえぬ耳で観て 何かを、掴もうとしていたと思いますね 一度、お近くの参禅できるところを探して 座ってみたらどうでしょうか 重力があるうちは ドンドン意識の内を下がっていくでしょうから 底にたどり着いたところで、その感覚ほ試してみてはどうでしょうか オイラはなかなか 辿りつけませんがね
- yyuussaa
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ん~(難) 何でも、心の中でも、口に出せるなら出して、 言葉にしてみる!のは、どうでしょうか・・・。 日々、目につく物・者・モノ・・・。を、 「可愛い・綺麗・欲しい・気持ち良い・やってあげたい・してほしい・おバカ、だなぁ・・・(苦笑)・上手だな・下手だな・有難い・有難う・」とか、・・・。 小さな事から、コツコツと・・・。 楽しい事を見つけるより、感じる事が、早い解決かも! 感じたら、言葉にしてみる。 のは、どうかなぁ・・・と、思いました。 楽しいって気持ちを感じるのは、癖でもある? ナイナイと思ってたら、壁が大きくなりそうです。 もう考えないで!! 私の方が、焦ってきます。(なんて、笑えませんか?・・・) 童心・・・私は、単純がいい。 と、思いました^^
- Mokuzo100nenn
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まず、専門医に相談して鬱病を直すことです。 鬱病でなければ、日々の生活を楽しむことが来ます。 今日、午前中は、東京地域では五月晴れでした。 素晴らしいことですね。 このような日に昼休み外を歩くと楽しいですよ。
お礼
回答ありがとうございます。 日々の生活が楽しくない人はみんな鬱病ですか?
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お礼
再びの回答ありがとうございます。 感動ではなく楽しさを感じたいのです。 で、ありきたりなことへの楽しさは 子供の時の記憶を辿れば、新鮮である必要は必ずしもなかったです。 新鮮さなんてなくても、友人や家族と喋ること自体が楽しかったり ただ近所の公園へ散歩するというだけでも少し楽しかったりした あの無邪気な感じは行為に対して意味や必然性を求めるようになるにつれて 失われていったのだと思います。 でも、繰り返しになりますが、ちょっとした知恵で 延々と繰り返される日常の中にまた童心が返ってくるような気がするんです。