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初めてブルートレイン(「寝台特急列車」)に乗ったときの感想を聞かせてください!

初めてブルートレイン(「寝台特急列車」)に乗ったときの感想を聞かせてください! ただし調査関係上日本国有鉄道時代(1987年3月まで)に限ってください。 また列車名と年代があるとありがたいです。

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回答No.4

質問ではないので、削除されてしまうかもしれませんが、面白そうなので協力しましょう。 初めて乗ったブルートレイン(と呼ぶ場合は、寝台客車特急に限られますので寝台電車特急や急行寝台車は除外ですね)は、昭和48年9月に乗った特急「さくら」で、名古屋~下関でした。47年3月に20系から14系になったばかりで、もちろん3段寝台。それでも、同年の8月に始めて乗った急行のB寝台の52cm幅よりも格段に広い70cm幅の寝台に感激しました。食堂車に行きたかったのですが、なにぶん夜も遅く、小学生でしたので飲食はしませんでした。ただ、当時は東京発の食堂車を営業するブルトレには、列車のスタンプが食堂車にありましたので、スタンプを押すついでに食堂車を除きました。すでに居酒屋状態で酔っ払いがたむろし、タバコの煙で真っ白の食堂車を見て、小学生では使いたいとは思えなかったです。9月の平日にも関わらずかなりの混雑で、上段まで使う区画も多かったです。翌朝もきっちり7時は起され、車掌補による寝台解体も経験しました。解体と言っても14系は、下段のシーツ、カーテンを外して、浴衣と枕と共に中段に上げて、中段をボタンで上昇させるだけです。 鉄道好きの小学生ですから、嬉しかったですね。実は、この年の8月に往復ブルトレで九州旅行に行く予定だったのです。お盆時期を外し、指定券発売日(当時は1週間前)に始発の地下鉄で最寄の「みどりの窓口」で並んだのですが、ブルトレはもとより定期急行の寝台車さえとれず臨時急行のB寝台がやっととれたという状況でした。ですから、うれしさはなおさらでした。2回目は、49年3月の「富士」の予定で、寝台券は確保していたのですが、当時はブルトレよりも設備がよい電車寝台の方が人気が高く、それにつられて583系の「金星」に変えてしまいました。その後の年に何回かは夜行を使いましたが、急行が多くブルトレは昭和50年1月に名古屋→米子で乗った「出雲」まで機会がなかったですね。これは20系でした。同年3月には、青森→大阪で14系化されたばかりの「日本海」に乗ろうとしましたが満席でかなわず、臨時急行「八甲田」に乗り、上野経由で関西に向ってます。 当時は国内線飛行機は高くて便数も少ないので、やむを得ず夜行に乗るケースが多かったですから、何回か寝台車に乗ると当初の感激は薄れ、昼間の特急が一番・・はやく飛行機で遠くに行けるようになりたいというのが、正直な感想でした。この頃の日本は、今よりも貧富の差が激しかったのか、私が九州まで急行で往復した時の名古屋の小学校のクラスでは、東海道新幹線さえ乗った事がないクラスメートがいた反面、飛行機で九州に行ったクラスメートもいました。飛行機で九州というと、今ならヨーロッパ旅行以上のインパクトが子供にあったように思います。 大人になるにつれ、貧乏にもなりましたが、夜行を優雅に使う時間的余裕もなくなり、夜行利用自体がへりましたね。そういう余裕があるなら、個室でゆっくりしたいのでフェリーの1等以上を使います。先日も昔のレールファン仲間と「富士」に乗ろうと誘われましたが、私はフェリーで九州に行き、ヒルネ区間だけ「富士」に乗りました。

imperialho
質問者

お礼

これは面白いですね。 確かに今と違って当時は夜行列車に飛行機の高さを理由に乗る人は多かったですよね。

その他の回答 (8)

  • kuni-chan
  • ベストアンサー率22% (678/3075)
回答No.9

 あまり参考にはならないでしょうが、私の経験をUPします。  1983年に「あさかぜ2号」に乗りました。これは下関発東京行きで2段式B寝台のみの編成です。A寝台も食堂車もありません。車内は思ったより静かでよく眠れました。使用されていた24系25型客車は上段が固定された100番台車でした。当時としては新しい車両で、よく整備されていました。牽引はEF65です。  初めてに限定されていますので、2回目以降の乗車は省略しますが、20系客車、14系客車は2段式と3段式にも乗っています。

imperialho
質問者

お礼

有難うございました。

  • nature345
  • ベストアンサー率15% (155/977)
回答No.8

  こんにちは   昭和35年~昭和38年頃ですが、東京~博多及び東京~青森  当然、青函連絡船に乗り仕事で出張しました。  東京駅を深夜22時頃出発、翌朝、九州へ着きました。  新幹線はまだ走っていません。航空機はDC8でした。  当時はこのような時代で旅館に泊まりこみでした。    ブルートレイン(「寝台特急列車」)が出張の交通手段でした。    

imperialho
質問者

お礼

古い邦画を見ていると結構寝台特急での出張シーンが出ますね。 実際そうだったんだ---。

回答No.7

以下、中年おじさんの独り言としてください。  夜行列車はそれ以前の75年頃(十九か二十歳のころ)に名古屋-横浜間を「臨時」の「銀河」で経験していました。残念ながら、予算の関係からBOX席の客車を選ばざるを得ませんでした。以来ブルートレインへの憧れは消えることはなかったのですが、学生時代にもかかわらず、機会を作ることなく就職。入社2年目の80年5月、福岡市へ約半年の業務応援のため赴任するとき初めて乗車する機会ができました。  当時、会社の旅費規程では東京-福岡の移動には航空機使用が認められておらず、新幹線か夜行かの択一でした。ここぞとばかり手配した切符が「東京発博多行 あさかぜ1号 B寝台下段」(当時はたしか「3号」もあったかと思いますが、3号ではなかったと記憶しています。)17~18時東京駅発、博多11時過ぎの到着ではなかったかと思います。  乗車前から、同僚と景気付けに飲って(勤務時間内なのに…、いい時代でした。)ご機嫌で乗り込んだまでは良かったのですが、直前までの居酒屋の騒ぎと一人旅との落差、初めての土地で暫時暮らすことの不安とで、気持ちが夜の深さに比例してい萎んでいったようです。  とはいえ、そこは呑ン兵衛の特権。向かいの座席(上段は空いていました。)の中年間近のサラリーマンといつの間にか意気投合し、食堂車に繰り出して、営業終了まで粘っていました。(終了時刻は記憶になし。)ですから、乗り心地の印象は不覚にも記憶の外です。  翌朝は、当然の報いを受けていて、起こされた覚えはあるのですが、昨夜の友がどこで下車したのか(挨拶くらいはしたはずですが)わかりません。その後も下関あたりまでは座席に横たわったまますごしました。  どうやら、私のブルートレインは「動く居酒屋」だったようです。ただ、関門のどちらかで交代した車掌のアナウンスで、「次は●●までとまりましぇん。」と聞いたとき、九州に来たんだなと実感したものでした。  余談ですが、半年後帰京するとき「ブルートレインで帰るのか?」と聞かれ、「いいえ、自前で飛行機で帰ります。途中の飲食費を計算するとトントンだもん。」これ以降ブルートレインに乗ったのは「富士」のヒルネ一度のみです。

imperialho
質問者

お礼

面白い体験記ですね。

  • k-josui
  • ベストアンサー率24% (3220/13026)
回答No.6

マニアではありませんので詳しくは覚えておりませんが・・・・ 私が高山市に住んでいた頃(昭和50年代です) 昭和50年代半ばのある日会社から5時に帰ってきて、会社の寮にいたら電話が掛かって来て急遽日立市まで出張に行けと・・・・      富山に向けて高山線でその夜9時頃高山を出発、富山で夜中の12時頃まで待ち、そこから上野に向けて寝台特急に乗りました。 (富山駅前に大型トラックの屋台ラーメンが出ていて、そこでラーメンを食べました)       で、寝台車に乗ったのですが、3段のベッドの一番上段に上がって下を見下ろしたらその高いこと! 落下防止用のベルトがある事をはじめて知りました。     翌日は出張費を浮かせるためカプセルに泊まりましたが、余程寝台特急の高さが頭から離れなかったのでしょう、カプセルの片側の壁に(寝台特急の下に落ちないほうの壁)何度かぶつかった覚えがあります。     まあ、今となってはいい思い出です。

imperialho
質問者

お礼

面白いですね。

  • nebnab
  • ベストアンサー率34% (795/2317)
回答No.5

私がはじめて寝台特急列車に乗ったのは1982年の秋。 青森から上野まで「ゆうづる?号」(号数は忘れた)に乗りました。 高校の修学旅行の帰りで、札幌から大阪まで一気に国鉄で帰るというなかなかすごい行程でした。 青森→大阪の「日本海」は修学旅行では使えなかったようで、東京経由となりました。 車輌は581系か583系電車。ですから狭義のブルートレインではありませんが。 中段が当たったので、幅も狭く天井の高さも低く、せせこましいものだなと思いました。 下段が当たった友達の寝台にお邪魔して、広さの違いに不公平感を感じた覚えがあります。

imperialho
質問者

お礼

せせこましい---。ベッドについてそう感じる人は多かったようです。

  • tefu1073
  • ベストアンサー率51% (700/1363)
回答No.3

 こんにちは。  当時は既に、大阪発のブルートレインには食堂車は連結されていませんでした。  なお、定期列車は15系だったようです。 http://urawa.cool.ne.jp/beppu/m/myoujou2.html  ただし、私が乗ったのは臨時列車のほうで20系だったみたいです。寝台幅も52cmと狭いものでした。(現在では考えられませんね)  たまたま、検索していたら当時の写真らしいのが出てきました。 http://blogs.yahoo.co.jp/shuu_205/19914045.html  それ以来、夜行列車は通算250回くらい乗っていますが、寝台車は15回くらいと相変わらずの貧乏旅行が続いています。(笑)  

imperialho
質問者

お礼

そうでした。この形式に食堂車は無かったですね。

  • tefu1073
  • ベストアンサー率51% (700/1363)
回答No.2

 こんにちは。  学生時代はブルートレインは高根の花でした。(笑)  初めて乗ったのが就職してちょうど1年経過した1985年3月、新大阪から乗った臨時「明星」号でした。  20系客車だったかちょっと記憶にありませんが、特急なのに3段寝台でした。(笑)その上、中段、横になって寝るしかないようなスペースでした。  この時は、翌日限りで廃止となった室木線とかに乗った記憶があります。この日限りで北海道・九州の多くの路線が廃止になりましたが、北海道は遠すぎて行けなかったのでしょう。今なら、飛行機で北海道行っていただろうなあ。(笑)

imperialho
質問者

お礼

「明星」ありましたねえ。 寝るスペースは狭かったのでは---。 食堂車は利用されました?

  • kuni-chan
  • ベストアンサー率22% (678/3075)
回答No.1

 質問があります。 >調査関係上  とのことですが、どういう意味でしょうか。どこかの依頼を受けて調査するという事でしょうか。  また、 >日本国有鉄道時代  に限る理由も教えていただければと思います。

imperialho
質問者

お礼

いや、私個人で調べるだけでどこかからの依頼とかではありません。 またJRグループになってからの意見や乗車記は相当数(1,000以上かな)読んでいるので、あえてまだブームがあった日本国有鉄道時代に絞ったのです。

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