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自民党が野党だった時代の話
自民党が野党だった時代は、1993年で、その期間は10ヶ月ーというのは調べたのですが、教えてください。 この背景と、この間の採決はどうなっていたのでしょうか。今はねじれ国会ということで、ある意味わかりやすいのですが、自民党が野党だったときの採決と、また何故、野党となったか。
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選挙で負けたから。 あるいは、小沢一派が抜けた分を回復できなかったから。 http://ja.wikipedia.org/wiki/第40回衆議院議員総選挙 選挙では 自民党は +1 だが、事前に自民党から分離した新生党・新党さきがけの分は取り戻せなかったということです。 ねじれに関して http://ja.wikipedia.org/wiki/第16回参議院議員通常選挙 1992年の段階で、すでにねじれ。 1993年の衆議院選挙で、非自民が与党になりましたので、自動的に参議院の多数派がそれまで野党から与党になった。なので、ねじれは解消されました。
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- teinen
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何故自民党が野党になったのか。 それは,衆議院議員選挙の結果,自由民主党よりも,日本社会党・公明党・新生党・民社党・日本新党・新党さきがけ・社会民主連合の合計議席数が上回ったからです。 自民党は政権を握っていることが求心力であり,野党に転落してからは,その求心力を失い,ボロボロと離反者が出ました。自民党が反対している議案に賛成したり,離党したり。ですので,結構,時の政権が提出した議案は可決されました。自民党を離党した議員は,「新党みらい」とか「自由党」(後に民主党と合流する小沢氏を代表とする自由党ではなく,柿沢氏を代表とする自由党)などの会派を結成して,時の政権にすり寄りました。 ただ,衆議院議員選挙を小選挙区比例代表制にする公職選挙法改正法案に関しては,小選挙区制になると議席を失う可能性が高い与党の議員が反対に回ったりして混乱したことがありました。結局は,自民党に譲歩した形に法案を修正して可決されました。
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ご回答ありがとうございます。 福田内閣のことも、だんだんと記憶から遠のいて、いきそうです。 ネジレ国会も、数年後には「そういうことも、あった・・・」の 話になるんでしょうね。
- tyr134
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連続投稿すいません。 訂正です。 >初戦は右派・左派入り乱れ→誤 「所詮」は右派・左派入り乱れ→正 >そんな中、またまた東京佐川急便事件を使って自民党が細川首相を追求して反撃に出たために解散。→誤 そんな中、またまた東京佐川急便事件を使って自民党が細川首相を追求して反撃に出たために「内閣総辞職。羽田政権が発足します」→正 以下は追記です。 羽田内閣は在任期間64日間という戦後2番目に短い在任期間でした。 さらに追記で、、、。 政策決定に当たっては、「与党代表者会議」が設けられました。 与党5党代表幹事長クラスの幹部が集まり、政策の意志調整を図ろうとする機関でした。 しかし、閣議をさしおいて政策決定をしているように見えることから、与党内で不満がたまり、分裂を招く結果に終わりました。 採決は、さきにも書いたとおり議案によっては離反者を多数だして否決されたり、自民党に歩み寄ることでなんとか成立させたりしていました。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- tyr134
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この背景には、政治の腐敗が絡んでいます。 まず、1988年に明るみにでた「リクルート事件」が起こります。 詳細は割愛しますが、これは当時まだ未公開だったリクルート・コスモス社(当時)の株券が賄賂として、中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一、安倍晋太郎、渡辺美智雄など、自民党の有力議員に譲渡されていたことが発覚します。 公開されれば、値上がり確実と言われていた株だったので、贈収賄にあたるとして検察当局が捜査し、リクルート社の幹部や官僚、政治家(藤波孝生(自民)・池田克也(公明)のみ)が逮捕・起訴されました。 しかし、中曽根・竹下などの大物政治家の逮捕には至らずに終わります。 続く、1992年には「東京佐川急便事件」が発覚します。 この事件は、自由党経世会会長の金丸信が佐川急便側から5億円のヤミ献金を受けた事件です。 この事件の背景には、右翼団体日本皇民党と自民党内の権力争いが絡んでいます。 こちらも、複数の大物政治家が絡んでいると見られていましたが、例によって闇に葬られうやむやにされて終わりました。 しかし、この二つの事件が政界と世間に与えたショックは大きく、自民党の支持率低下、自民党分裂を引き起こし、1993年の歴史的敗北と野党転落へと続くことになります。 また、この自民党の支持率低下と自民党分裂による大量の離党者が出たことで、「日本新党」「新生党」「新党さきがけ」など、次々とミニ政党が作られる「新党ブーム」が起こりました。 結果として、第40回衆議院選では55年体制の一角であった日本社会党も惨敗し、どの政党も単独過半数を取ることが出来ませんでした。 自民党よりの「日本新党」「新党さきがけ」を取り込むために、日本新党代表の細川護煕を首相にする事を落としどころに野党連合政権(8党派)が発足しました。 しかし、、、、とういかやはりというか、初戦は右派・左派入り乱れ意志の統一もままならない野党連合は右往左往することなります。 同じく右派・左派入り乱れているとはいえ、党議拘束で意思統一が図れた自民党政権との大きな違いですね。 小選挙区制導入にあたっては社会党の反対によって参議院で否決され、自民党に譲歩してなんとか成立する始末。 他にも消費税に変わるる「国民福祉税構想」を発表したことに社会党と新党さきがけが反発し撤回などなど。 与野党入り乱れての政権争いが繰り広げられ、議案ごとに与党・野党が微妙に入れ替わるような感じでした。 そんな中、またまた東京佐川急便事件を使って自民党が細川首相を追求して反撃に出たために解散。 「自民党・社会民主党・新党さきがけ」の三党連立政権が発足します。 その後も政界再編が行われ、2003年の民主党と自由党の合併をもって一応現状に落ち着く事になりました。 と、駆け足となりましたが、参考になれば幸いです。
お礼
だんだん、思い出しました。 ご回答ありがとうございます。
- PENPENMAKKY
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この時、細川率いる日本新党(残党が小池百合子)、羽田・小沢が率いる新生党、武村・鳩山が率いる新党さきがけ、社会党、公明党、民社党によって連立政権が成立しました。 その成果が小選挙区比例代表制です。その後、消費税を社会福祉税にして税額を引き上げようとして失敗し、社会党と新党さきがけが裏切って自民党と手を組みます。こうして細川連立内閣が瓦解しました。その後、羽田孜が後任首相になりますが少数与党となり直ぐに瓦解、村山社会党政権が自民党の後ろ押しで成立します。 採決は連立与党は皆が向く方角が違ったため閣内不一致を繰り返し、バブル崩壊で経済が大変だったのに国会が機能不全に陥ったのです。結局、バブルの処理は村山政権下で公的資金注入が決定され、政権運営能力は自民党にしかないを露呈したのです。 当時の世相としては「自民党は駄目だ、一度野党にやらせた方が良い」でした。結果は非自民は野合集団であることを暴露しただけなのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 でも・・・経験者って?
補足
すみません、 それで、採決などで問題とかは発生しませんでしたか。 こんにちの、ネジレ国会は、衆議院の再議決っていうのが ありましたが。