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死刑廃止を願う方に質問です。
タイムリーな話題ですので、この手の質問が増えましたが、法律の話が出てくると、難しくよく分かりません。 説得力のある、あなたの死刑廃止支持の理由は何でしょうか? 小学五年生にも分かるように、分かりやすく説明して頂ければ幸いです。 ---------------------------- ■何となく、共感できる廃止論■ ○「人を殺して良い理由をなくしたい。」 理想は国家殺人の最大単位「戦争」を無くすということでしょうか。まずは最小単位の「死刑」からでしょうか。 ドラマ女王の教室で「人と人との絆を断ち切ってよい権利なんて誰にもありません。だから人は殺してはいけないのです。」っとたくましく言っていましたが、「じゃあ、死刑囚を殺すのもダメだし、個別的自衛権を行使し、テロリストに応戦(射殺)もダメなのですね」って突っ込みいれてしまいました。 そんな野次を無くしたい、と言うのは共感できます。 ■何となく、共感でない廃止論■ ○「冤罪のために人を殺せない」 その他刑罰の冤罪は許せる。と言うのは倫理的に受け付けません。 ○「死刑は、他の国が次々と廃止しているから」 まずは、憲法九条から、廃止しないといけませんね。 ----------------------------
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- sdfwer23
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死刑を廃止すると殺人が減ります
- naya_naya
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死刑制度の 廃止を 望みます。 ヒトが ヒトを 殺してはいけない という 大原則 その大原則に対して、いかなる理由をもってしても 国であろうとも、例外を設けるべきではない。 なぜなら 例外の容認は、 「悪人であれば 殺してよい」という思いにつながり 「愛の実践のための殺人」・「正義の実現のための殺人」 「一時的、正義として戦争(殺人)の容認」へ 繋がると考えるからです。 報復感情と戦争 冤罪・誤判による死刑の可能性 死刑による 事実の 隠蔽 犯罪被害者の救済・保障の充実を 行ってこなかった国が、 流れ作業的に 行う 「死刑」 そこには、多くの疑念を 抱きます。 死刑による 犯罪抑止力がないことは、明らかになっています。 死刑を 実施することで 何が 得られるのでしょうか? saeka_011 さんが 突っ込みをいれた 個別的自衛権 テロリストに応戦 に関しても、極力、殺人以外の手段の選択を優先すべき、だと思います。
- welovekobe
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>小学五年生にも分かるように、分かりやすく説明して頂ければ幸いです。 すみません。これは私の力量では無理なので、後で、読んでから お子様(達)にお伝え願います。 死刑廃止論は、あくまでも理想である。理想は大事である。しかし、 そこに近づくには、ひとっ飛びには行かない。 神様の愛を中心とする人類一大家族世界の実現を阻む「国家エゴ」という枠組 みを、後生大事に存続させる限りにおいては、国家権力は、依然、国内におけ る、万人の万人による闘争状態である個人間での「自力救済」という報復・ 仇討ちを禁止しなければならない。そして、そのためには、国民の生命と財産 を守るため、警察は、人を射殺しなければならないこともあると言えるであろ う。しかし、国家権力に、生命与奪権利(国民を殺しても良い権利)までをも、 附託して預けることは、「国民の生命と財産を守る」という統治権者の一番重 要な義務とはそもそも矛盾する。ましてや、自力救済の復讐が禁止されていな がら、その代理として、言うなれば、必殺仕事人として、国家権力をしてその 個人に成り代わって成敗、復讐的な、死刑という応報的罰を処するということ であれば、実は、ただ単に、国家が、代わりに「仇討ち」しているだけにな る可能性があり、「仇討ち」というものが、依然として昔と同じようにまかり 通る「近代国家」であることを裏付けているということでもまたある。 なので、刑罰は応報的であるよりも、目的刑、教育刑でなければならないのだと思う。 問題は、死刑という刑罰を設けることで、その犯人による犯罪再発を完全に防止する ことは出来る。死ぬんだからね。けど、凶悪犯罪の抑止になるかどうかである。死刑では、 もはや教育できないのであるから、もはや、「教育刑」ではない。「懲役」とは根本的に違う。 もし、死刑に価するような犯罪を犯した人間が、無期懲役と言いながら、社会 復帰した途端に、また殺人を犯すとしたら、なんら、その人間は、刑期中に更 正したとは言えない。再犯防止の為の「必要な教育」が十分なされることが一 番まず大事である。 また、被害者遺族の感情を回復させるシステムがなければならないであろう。 人質をまさに今殺そうとしている犯人に対して、警察は、犯人のその足を狙っ たりして致命傷を外すことで応戦することもできるはずである。今まさに人質 が殺されようとしている時に、犯人を殺して良いのは、それが「正当防衛」と 見なされるときだけであって、基本的に、最初から、そのような状況において は、常に、犯人を無条件にのべつまくなしにいつでも射殺して良いこととはま た全く別のお話である・・・ もし、人質を殺そうとした瞬間、射殺されたとしたら、警察のせいである。 犯人のせいではない。犯人を殺す余裕があるのなら、腕を狙ったり、足を狙っ て撃つだけでも犯人が犯行することに対しての十分な威嚇・抑止効果があるはず だ。人質を殺してもいないのに、警察により射殺されたことで、死刑確定であ る。ところが、人を一人殺しただけでは、今でも刑法では死刑にはそう簡単に はならない。残虐に殺そうと、そうでなくして殺そうと、一人の殺された命の 重さに代わりはない。なのに、もし、警察が、残虐性があまり酷かったので、 或る犯人は更正の余地なしと死刑判決。ところが、人を一人殺しても、自首し てくれば死刑は軽減される・・・と言うのでは、これこそ、人間一人の殺され たその被害者の命に対して不平等な扱いを「国家権力」はしているのではない か?ということになってしまう。しかも、人質は生きているのに、警察が射殺 すれば、問答無用で裁判もなくてその場で即死刑である・・・ このように、死刑制度が存在している現在でさえ、加害者の命、また、被害者 の命の重さを国家権力が平等に公平に取り扱うことは非常に難しい。 だとすれば、それは被害者遺族の復讐には到底また成り得ないとも言える。 つまり、本当の意味で応報刑には成り得ないのである・・・。 極刑を遺族が願いながら、そうならない場合、遺族の感情はどうなるのか? 誰が責任を取るのか?国家が仇討ちしてくれると思ったのに・・・とでも いうのか??要するに、「死刑という制度」は、復讐とか応報というような非 合理的な感情的な制度であっては決してならないと言うのが私の結論である。 国家権力であるならなおさらである。だから、国家権力が、人間の命(加害者 ではなく被害者の命を指す。)を不平等に扱うことは、立憲主義に違反するの であるから、「死刑を廃止すべき」であると言うのが持論である。 犠牲になった被害者の命を平等に扱えるわけがないからである。 加害者のためにではない!! それどころか、国家権力が、不合理に殺された被害者の命の尊さ・重さを、皆、 常に、平等に推し量り、加害者を裁くことなどができる、などと期待しないほ うが良い。 国家権力は、国民の生命を守る為にあるのであり、国民の行為を裁いて殺すた めに存在しているのではない。 それよりも、我々一人一人の良心基準が高まるべきなのであり、またそのよう な教育を、国家は為すべきなのである。これこそ、国家の責任なのである。 「国家は人を殺さなければ成らないこともある」という人もいるが、それは、 国家間における戦争のたぐいの状況のだけのことであります。なぜなら、国家 と国家との間の軋轢を収拾させることのできる強制的な統治力などと言える 「国際的機関」は未だにないからです。だから、大統領がたとえ自分は、人を 殺したくなくても、軍隊を侵攻させて、相手国の兵隊の命を奪う命令をしなけ ればならないこともあるのです。これが、国家自体が「必要悪」である何より の証拠です。神様を中心とする本来の神様の創造理想である人類一大家族世界 が実現されるまでは仕方がないことです。そこまで、人類の良心基準が高まら なければならないのです。 従って、「目には目を、歯には歯を」という法を「タリオの法」ないしは「同 害報復の法」と言うらしいですが、前近代的な法であると言わざるを得ないで しょう。 我々は、そのような復讐的感情により生命与奪の権利を国家に預けてよいので ありましょうか?これが果たしてキリスト教の教義だと言ってよいのでしょう か。そもそも、「近代憲法」の概念の根底に流れているものは、西欧における 自然法の法源とも言うべき「キリスト教的宗教基盤」であり、国民を根底にお いて帰一させることのできる心情的精神的支柱・機軸がそこにある。 この自然法に根付く宗教的教育、愛国的教育、自分の国に誇りを持つべく「規 範教育」をするべきではないだろうか? 14歳未満はこれを罰せずなどと、国家は、「無責任」に刑法に線引きしてはな らない。刑法とは、裁判規範であり、被告人を裁くものではない。ゆえに、刑 法は、「人を殺すなかれ」などというような規範では決してない!!裁判は、 行政の代理である検事を裁く者であり、刑法は、裁判官を裁くものである。ゆ えに、国家の自然法に基づく宗教的教育・規範教育なくして、「死刑廃止論」 は、まったくのナンセンスなのである。被害者遺族の感情の回復にも宗教教育 は必要である。が、しかし、もっと先決問題は、貧富の差をなくすなどの経済 的問題もあるかも知れないが、こと日本においては、それよりも、まず、「国 家規範教育」である。道徳教育である。国家の責任ある規範教育こそ、犯罪の 最大の抑止である。この問題を議論せずに、「死刑廃止論」を議論しても、頭 隠して尻隠さず。のれんに腕押し。国家の良心基準を高めることが先決問題な のである。死刑廃止論は、それからなのである・・・・ 死刑廃止は、どこまでも理想であるが、日本は、まだ そこまで議論できる土壌ではない。アメリカのように、 多国籍国家でもなく、銃社会でもないのに、死刑廃止論が 正しく議論できないとは・・・・!!なんと情けない国か? 全ては、無神論国家であることがそもそもの元凶である。
- Roman0
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> ○「人を殺して良い理由をなくしたい。」 「人」一般で語ろうとする時点で誤りです。 そこから見直しましょう。 そもそも、人を殺して良いか悪いかといえば、ケースバイケースであって、一義的な解などありません。思考停止しないようにしましょう。 > そんな野次を無くしたい、と言うのは共感できます。 あなたが挙げたものは、内容としては野次ではなく、正しい指摘ですよ。実際、あなたは答えられないでしょ? 「人は殺してはいけないのです。」が単に誤りだというだけの話です。 ちなみに、「人と人との絆を断ち切ってよい権利なんて誰にもありません」というのが誤りですから、それを前提とした「だから」以降には何の正当性もありません。 近代国家においては、その権利を与えられているのが、司法です。実際、死刑以外でも禁固だの懲役だのとして人を拘束し、「人と人との絆を断ち切って」いますよね。 なお、与えているのは、政府に司法権を信託している国民です。 > ○「冤罪のために人を殺せない」 > その他刑罰の冤罪は許せる。と言うのは倫理的に受け付けません。 倫理という軽く動かせる話よりも、一貫性の問題で、「その他刑罰の冤罪は許せる」は誤りなので、そちらで否定した方が一般性があります。 倫理の話にしてしまうと、あなたと違う倫理観のグループとは議論不能ですから、対立したら実力行使(戦争とか)にしかなりませんから、そうとう危険です。 > ○「死刑は、他の国が次々と廃止しているから」 > まずは、憲法九条から、廃止しないといけませんね。 これは、おっしゃる通りです。
- koikoi810
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現代日本において、重要なのは 凶悪犯を次々と死刑によって葬り去ることではなく そのような人間を作り上げない社会を目指すことだと思います。 巷で子育てしている人達なんかを見ていると、時々 「そんなんでいいの?」と思う時があります。 自由と放置の履き違え、叱れない、虐待・・・ 自分達で自覚なく歪んだ人間・社会を作り出しておいて、 いざとなったら国家に処分して下さいって、ムシが良いのではないですか。 今の社会は、間違いなく歪んでいて、大なり小なり ひとりひとりがそれを作り出している要因なわけです。 だからと言っておとなしく殺されろとは言いませんが、 凶悪犯が犯罪に至る精神メカニズムとか、家庭や社会がどう絡んで そうなっているかとか、世間の人達は知ろうとしなさ過ぎると思います。 今のままの社会では、凶悪犯をどんどん死刑にしていっても 新たな凶悪犯が後を絶ちませんよ。 社会全体が、凶悪犯を作り上げる要因を取り除くどころか 原因も真面目に究明しようとしない人が大半なのですから。 犯罪の一番の抑止力は、まぁ綺麗事かも知れませんが 私は「教育」であると考えています。
- misa-on28
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法律論で言えば死刑は残虐な刑だとかんがえます。 病気の人間は健康体にして 死の恐怖と向き合わせる事でほとんどの死刑囚に反省と悔悟の気持ちを持たせ真人間にした上で 吊るしてしまうと言うのですから、これが残虐でないはずがありません。 死刑の利点と言われる犯罪抑止効果も、実際はほとんどないと言っていいでしょう。 以前、グループで女性を誘拐し殺害した犯人の一人が「死刑になるのが怖い」といって自首したケースがありました。死刑存続を望む人は「やっぱり死刑の抑止効果がある」と言ったものでしたが、果たしてそうでしょうか? この犯人も、結局自分が殺害の罪を犯して初めて「死刑」の可能性に気がつくと言うお粗末な話で、死刑自体が犯罪自体を抑止する効果としては不十分である事を露呈しただけでした。 むしろ、理由があれば国が人を殺していい社会の方が「人殺し」にたいする敷居は低くなる事も考えられ得れます。 また、死刑とマスコミの関係についても、疑問を感じざるを得ません。 たとえば「光市」の事件の報道についても、偏った報道がされ、 犯人はまるで理解不能な「モンスター」のごとく扱われました。 事実と反し、反省する可能性もない人の心を持たないもののごとくに報道されていたと思います。 (あげくに無期懲役は10年も経てば皆社会に出てくると言うような誤った「常識」を流布し、社会不安をあおったりするにいたっては、そっちの方が犯罪的だなとすら感じます) そのように報道する事によって、本来問題にすべき現在日本の問題点をすり替え、見えなくしてしまう効果があるように感じています。 最後に感情論ですが、実際に自分の家族が被害にあった訳でもなく、おそらく深く共感する能力があるかどうかすら疑問に感じるような人たち(テレビの某コメンテータ含め、です)が「つるせ、つるせ」の声を上げる事に嫌悪感を感じます。 安全地帯から因果応報の芝居見物のようにすら見え、こんな事で日本の将来はどうなんだろう?と思います。
- winngu11
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個人的な意見ですので、一般的な死刑廃止を訴える人とは、あらゆる面で私とは全く違う意見になると思いますが・・・。 私の場合は、今回のような大量殺人とか、無差別殺人、あるいは、日本に数々ある犯罪は、その社会の持っている歪がすべて現れてる気がするんですね。 今回のように、無差別に殺人を犯す人は、必ず「誰でもいい」わけでなく「親」を殺したいということらしいです。最初から悪意を持った人間はいません。その環境によって人間の心は、どうにでも歪むのです。 この犯人の場合も、その母から凄まじい教育を受けました。ただ厳しいだけでは、そう簡単に人の心は歪みません。この容疑者の場合も、母親の家系が殆どがエリートで母親は、容疑者を青森高校に行かせることと、誰から見ても立派な職種にすることだけに意欲を燃やしました。 最近容疑者の弟が手記を出しました。 一部手記をまとめるとこんなものです。ある時母親に怒られた容疑者は、東北の極寒の地で半そでで何時間も立たされました。ある時は新聞紙の上に食事を撒き、そこで食べろと言われました。ある時は、小さな子供に出ていけと言いました。そして、行くあてのない兄弟が祖母の家にたどりつくと、母親は祖母の家には二度と行くなといいます。尊厳を長年無視された子はどうなるでしょうか?いろんな症状が出ます。 ギャンブル依存、DV、摂食障害、鬱、統合失調症、アルコール依存・・・ほんの一部です。 兄も、弟も、母親の望むとおりにクタクタになるまで勉強しました。 ある時、兄の成績が落ちると、母親は「お前はいらない」と言います。 あれだけ苦労し、あれだけ慕っても、いまだに子供は認めてもらえません。親から尊厳を踏みにじられた子は、外でも何をしても自信がありません。いつも「自分が悪い」と植えつけられているからです。 悪意なく、コンビニで小銭を渡されても、「自分が醜く、気に食わないからだ」と思ってしまいます。苦しい環境の中で、親から認められたことがないので、自分の個性や存在も、消すことになれてしまいます。管理された子は、おとなしいのです。けど、普段から傷つけられているので小さなことでも爆発します。日本では、同じように精神的飢餓を背負っている子がたくさんいます。物は豊かですが、精神は破壊されてる子が多いのです。 だからと言って、この犯人が他人様を傷つけていいとは思えないし、同情もしてません。けれど、人間が狂気に走る時はどうしてなのか、ということは、同じ人間として汲み取り、学ぶべきだと思います。 今まで母親のことを書きましたが、これは母親もほとんど親から愛情をかけてもらってないのです。母親の実家はエリートです。エリート以外の人間は人間どころか、物としての価値もないのです。 だから、母親は子供を立派にしたかったのです。親に認めてもらいたかった。 ここまでで、だいぶ事件のことを書きました。この世にある殺人は、理由なくしては起こらないのです。人を殺し、傷つける人は、同じくらい傷つけられています。 そう。殺人をして死刑になってもいいくらいに。いえ、早く死刑にしてくれと望むほどに。 けれど、人間は死んでもそこでは終わりではありません。カウンセラーがよく使う療法らしいのですが前世療法というのがあります(私はスピリチュアルカウンセラーではないですけどね)それは人は輪廻転生し、己が持つ問題と、向き合うために生きるという発想です。 死んでしまったら、そこで学ぶべきことは終わってしまいます。 終わるだけならいいですが、次も同じ問題にぶちあたります。 だから人は死んではいけないのです。 社会は、自分達の生み出したモンスターの責任も己で取らなければいけないのです。戦後から、社会は人をモノとして扱い、そこで精神を壊すものやはみ出すものの声を自分のために潰してきました。社会や国は、社会や国という親としての責任があります。 人を殺しても、そこから死んで逃げるのは実際は卑怯なのです。一生自分がしたことと対峙し、自分の弱さを確認しながら生きることが必要だと感じるのです。そして、あだ討ちを果たしたとして一瞬は満足しても、遺族やその場に居合わせた人の心の傷は癒えないし、殺された人も帰ってはきません。 死ぬことで終わりはあっても、そこから学べることは何もありません。 結局「ケリをつけてやった」と社会的に見放すことでしょう。相変わらず、腐った社会はそのままです。 私の死刑廃止の考えは、そういうところから来てます。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
死刑廃止論の本質は「身体罰を認めるべきか」というところじゃないかなあと思います。死刑は、刑罰として命を奪う刑です。それが認められるなら、窃盗犯の腕を切り落とすとか、ムチ打ちの刑とか、そういうのも認められるべきだという論点はあると思います。 あとは「人を殺すのは犯罪なのに、国家がやるなら犯罪にならないの?」という論理もあるかと思います。 現代の日本人の多くが「目には目を」という考え方には賛同しないのではないかと思います。「強姦罪を犯した者の家族が強姦されることで刑罰とする」ということにはおそらく誰も賛成しないでしょう。しかし、人を殺したのだから殺されて当然と考える方が多いのには少し矛盾も感じます。ちなみに私個人は消極的死刑賛成論者です。他人の命を奪ったのだから、自らの命で贖うのもやむを得ないと考えています。 死刑賛成論者がいう「死刑による犯罪の抑止」は実際に統計をとればそれは無意味なのは明らかだと思います。7年前に大阪で児童連続殺傷事件があり、その犯人は異常なスピードで判決が出て異常なスピードで刑が執行されましたが、今年に入ってかつてないほど通り魔殺傷事件が相次いでいます。これこそが「人を殺せば死刑の判決が出て、執行もされる」ことでも犯罪を抑止することは不可能であることの証明だと思います。むしろ、社会に恨みを持つ自殺願望者が「どうせ自殺するならただ自分が死ぬのであれば負け犬みたいで腹立たしいから多くの人を巻き添えにして死のう」と考えてしまうのではないか、と考えてしまいます。 死刑賛成論者の多くは感情的賛成論者であり、「腹の立つ奴だから殺してしまえ」であるならその本質においては通り魔殺人の犯人と同じだといえると思います。そこから逆説的に考えると「死刑賛成論者が多いから通り魔殺人が絶えない」といえるのかもしれませんね。
- unicpp
- ベストアンサー率20% (3/15)
賛成も反対も、究極的には各個人の利害得失の問題に絡んでくると思います。 それは、被害者が応報感情を晴らすために死刑を望む場合でも、第三者が犯罪者の遺族を思いやって死刑を望む場合でも、人権思想を援用し死刑廃止を望む場合でも同じ事です。 そう私は考えるので、この種の問題をいきなり正しい/正しくないという観点で論じるべきではないと思います。 それはさておき、私が死刑に反対する理由(私の利害)を書いておきます。 ・死刑制度は古代ローマのコロシアムのように一部民衆の憂さ晴らしの機能を担っている側面があるように思われる。たとえば格差問題に由来する鬱憤が、格差問題と関係する凶悪犯の死刑によって晴らされる。だとしたら、社会が格差問題を呪術的なやりかたで忘却することになるのではないか。このような忘却癖は政治利用と同種の凶悪事件の再来を招く。そうならないようにするため不安や不満を煮え切らないまま残す=社会不安を増大させることで、各人がそれらの原因に本気で向き合うよう仕向けるべきである。それが不安や不満を持つ人々にとって一時は酷になるとしても、私にとってはそのような社会の方が居心地が良い。 ・以上の利害は私の中で、被害者側へのシンパシーや、見せしめ効果への期待といったものを完全に上回る。私が死刑をある種の憂さ晴らしとしてみていることから推察いただけるだろうが、私のこの薄情さとエゴは、実は死刑賛成側のそれらと大してて違いないと内心思っている。 ちなみに、多くの日本人が社会不安をお祓いチックな方法でやり過ごすのをやめるようになったら、一旦廃止した死刑制度を復活してもいいと思います。(そのころは廃止論者が増えていると思うけど、まあそんな日は私が生きている間は来ないだろうと踏んでます) 以上、私に文章力がないせいで小五的に理解不能だったかも。 だとしたらもしわけありません。
- tamoht
- ベストアンサー率43% (60/137)
犯罪による殺人と国家による死刑とはおのずと異なるものです、死刑は国の権力による殺人であり、国家権力の行使であります、したがってこれが頻繁に行なわれるようになると、独裁政権につながりやがては戦争につながることにもなりかねません。ただ最近の日本の死刑執行数の増大はこれほど深刻な問題は含んでいないようです、つまり死刑という派手な宣伝を使って自分の立場を優位にしようとしている、人の死を道具に使って保身をはかろうとしている、無能な一法務大臣の卑劣にして憎むべき仕業からきていると思います、とはいっても常軌を逸した異常な執行は、人命を軽んじ、社会を荒廃させ、犯罪を誘発し、犯罪を助長させており、極めて危険な行為であることは間違いないところです。 法律によって殺人を禁じておきながら国家による殺人が許されるわけがありまん、死刑は残酷かつ残虐、野蛮な究極の人権侵害であり、人間の尊厳を踏みにじるものであり、絶対に許されることではありません。 処刑場に置いてどんなむごたらしい、残酷な地獄絵が繰り広げられているか想像してみて下さい、人間が同じ人間にできる行為とは到底思えません、まともな人間なら正視できる光景ではないそうです。そのむごたらしさは筆舌につくしがたいであろうことは容易に想像できます。 国連総会で「死刑廃止条約」が採択されて以来、国連人権委員会でも「死刑廃止に関する決議」がなされ、ついに国連総会で死刑の執行停止を求める決議が採択されるにいたっている。 死刑はこのような残酷性、人権や人しての尊厳等の問題だけでなく、冤罪や裁判官による量刑の差など、執行してしまったら取り返しのつかない重要な問題がやまずみされており、まずは執行のモラトリアム、死刑に変わる刑罰の導入、死刑廃止と早急に進めなければならない課題ではないでしょうか。
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