私も人生経験はそんなに長いわけではないですが、私の答えは端的です。
「何で生きているのか」と問えば、結局何も導き出されないでしょう。確かに時々人はこんなことを考えるし、歴史上の人間も考えてきたことですが、どうしてこういう風に考えるか考えたことがありますか? 私が思うに、これは類推による目的論です。つまり、いすがいすとして使われるために存在するように、机が机として使われるように、人間(この場合は特に個人を志向します。)も、それぞれ何らかの目的のために存在しているのではないかと考えることです。このことは、壊れたいすや机が使えなくなるように、人間が有限であるということからの類比であり、このことから導かれることは、人がいすや机を製作するように、人間も造物主から作られたという思想です。
ですので、たとえばギリシャ神話の世界の神のように、人間もまた不死の存在であれば、思いつき得ない問題です。とはいっても、やはり私たちはたぶんいつか死ぬ有限な存在なので、自分の存在の目的(意味)を知りたくなります。
ならば、逆から考えてみましょう。私たち人間にそれぞれ何らかの存在意義があって、人生のストーリーが予め決まっていてそれをなぞって生きているという場合、思考はそこで終わりです。なぜなら、たとえそうだとしても、人には未来を知る能力が備わっていないからです。(一部の例外は除くべきなのかもしれない。)なので、何かわからないにしても、自分には何かあるはずだと信じて先に進むほかありません。失敗しても、それが意味なのだ。死にたくなっても、死にきれなかったなら生きるべき運命だったのだ。今生きていることこそが、私の運命なのだ、と。
ところで、よく考えたら、質問者は自分の思うように生きられていないと感じていることが本当の質問内容なのではないでしょうか? <社会や先生や家族に、といったように、周りに規定されて生きているような気分なのかもしれません。たぶん学生さんでしょう。学生時代はよくこんなこと考えますが、こう考えたなら、もしも今感じている束縛がなければ、自分は何をしたいのか、よく考えましょう。あなたの考えているとおり、たぶん今は何もできないでしょう。無理して何かする必要もありません。その代わり、何をしたいのか真剣に考えておかないと、後々後悔します。学生時代は、確かに不自由な反面、守られています。そんな中では、本当に嫌なことだけきっぱり嫌だと言いましょう。
それから、私は生きる意味について、何かあるなんてこれっぽっちも思ってません。こんなこと考えるより、もっと具体的でわかりやすい問題のことを考える方がよほどいいです。そして、そんなことを考えているうちに知らないうちに死んでいるのが一番いいと思います。死んでも自分の灰や記憶なんて結局は残らないでしょう。墓場の灰を誰も掘り起こしたりなんてしないし、死んだ人の記憶は段々薄くなるものです。
そしてまた、人生は一度きりでとてもとても貴重なものなのに、自分以外のものによって理想から引き離されて消費してしまう、なんてロマンチシズムは無意味です。だって、人生を二度生きる人がいない以上、この命題は対比が空想でしかなく(命題がそれ自身を意味する他なく)、「白いものが白い」(トートロジー)とか言う場合と何ら変わりがないからです。
お礼
その通りであると思います。甘えていただけでした。もっと自分について考えたいと思います。どうもありがとうございました。