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村上春樹がアンダーグラウンドを書いた本当の理由は?
村上春樹が地下鉄サリン事件の被害者にインタビューしたノンフィクション作品『アンダーグラウンド』(1997年)を書いた本当の理由は、田中康夫氏によればノーベル文学賞対策だそうです。 ノーベル文学賞の受賞条件は、小説だけでなくノンフィクション作品も書いている事だからだそうです。 私はこの田中氏の意見は非常に鋭い指摘だと思うのですが、村上春樹ファンの人たちはどう思いますか?
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- paris1895
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僕なんかは思うわけですが、質問者さんの言う「不思議なことに誰も教えてくれなかった」という村上春樹の言葉は、メディア(あるいはそれに準ずるもの)にたいする言葉なんではないでしょうか。 つまり、村上春樹が知りたかった「東京の地下でほんとうはなにが起こったのか」という問いに答えてくれるものが誰もいなかったからこそ、村上春樹はインタビュイーの話を訊くという手段を講じなければならなかったのではないか、と。 そういう文脈であの本のインタビュイーの話を眺めると、「サリンが撒かれ、大勢の人に影響がでた」というメディアのくれた情報よりかは、「ほんとうはなにが起こったのか」を伺い知ることができる気がします。 誤解を招きやすいところに置かれているせいで、質問者さんは読み違えてしまったのではないでしょうか。 かつ、村上春樹が言うには一つの視座を読者に与えるためにあの本を書いたのでなく、多くの視座を得るためのマテリアルとして書いたそうです。 だからもちろん、質問者さんの視座もその範疇だとは思うのですが、田中康夫ごときの意見はまぁどうでもいいとして(壁と卵のスピーチへの彼の意見の浅はかさは周知だと思います)、 村上春樹の本としての色合いの薄っぺらさはあるにしても、あの本のインタビュイーたちがわれわれに渡してくれることのぶ厚さは村上春樹の言うところの、多くの視座へのマテリアルを形成するのに一役買っていると思います。 現に、あのような形で事件被害者の声をプレーンな状態で伝えようとした本があまりにも少ないではないですか。 その声のプレーンさが、そして、村上春樹色のなさが、あの本の逆説的な成功だと思います。 ちなみに、これは余談ですが、私は村上春樹が嫌いです。 どうでもいい作家たち(ほぼすべての現代作家)がたくさんいるなかで、嫌いと思わせるのもなかなかのものだと思います。
- g4g4p8
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ノーベル文学賞から読み解こうとすると 1994年の大江さんから見て1996年だと無い話ではないですが 大陸持ち回り説を踏まえると刊行するタイミングが悪いですよね、 それとノーベル賞は天から降ってくるというよりも 曖昧な候補になり続けて、なんとなく受賞するようなもので、 村上さんはすでに十分な功績を持っていると思います。 受賞を目的に作品を起こすような必要はないかと。 田中康夫さんから読み解くと 彼も作家としての一面を持っています、発言は公人としてよりも 作家の一員として、リップサービスで多少盛った上での発言かと思います。 「ノーベル文学賞はノンフィクションを書かなくてはいけない」という 有る意味レース結果のこじつけから勝ち馬を見つける競馬予想師のような、 あたかも正しいことのようにつなぎ合わせたのかと思います。 田中さんの言う事に事実もありますが、「それは違うかも」と思う点もありますよね、 一理はあっても、鋭い指摘だとしても、イコール真実とは結びません。 当の作品から読み解くと ノンフィクションは取り扱うのに難しい問題です。 対象を丸裸にするのと同時に自分自身も丸裸になる必要があります。 個人的にはテクニカルな要素を排除してシンプルにファクトを繋げて アイデンティティを上乗せしたような息の詰まる内容でした。 誰しもが知っているようで知らないテーマを村上さんが扱うのですから よっぽどのことだったんだと思います。 ノーベル賞のために書いたならよっぽど欲しかったんだなと(笑) 実際に欲しかったかどうかはわかりませんが 「田中氏の指摘にファンがどう思ったか」ですよね? 個人的には言いたい人には言わせておけばいいし、 むしろ村上さんが賞が欲しくて書いたならそれでもいいし、 手元に「アンダーグラウンド」があってよめるのであれば 賞がどうこうはどうでもいい。と思います。
お礼
確かに、1994年の大江健三郎のノーベル文学賞受賞のすぐ後の1996年ではタイミングが悪いですが、1995年に地下鉄サリン事件が起きてしまったので仕方なかったのでしょう。 私が田中康夫氏の指摘が正しいと思う理由は、アンダーグラウンドという作品の内容に不自然さと嘘臭ささを強く感じたからです。 アンダーグラウンドにおいて「本当は何が起こったのか?」という村上の問いの答えが「でも不思議なことに私が知りたいことは誰も教えてくれなかった」だと村上は言う。 私もg4g4p8様が仰るように、被害者は何が起こったのか息の詰まるような事実を語っていたと思うのですが、村上が知りたかったことは単なる事実ではないらしい。 そうであるならば、村上が知りたかった単なる事実以上のことは、筆者と被害者が討論でもしない限り得られないものですが、でも不思議なことに村上はそれを全くしなかった。 この理由は、村上には対象を丸裸にして知りたいことは何もなかったし、同時に知りたいことが何もない自分自身の本当の姿が丸裸になることを村上は避けたかったからでしょう。 そして、そうした結果出来たこのようなただ被害者にインタビューしただけの内容の作品がノンフィクション作品とはいえないと村上自身も十分解かっていたから「でも不思議なことに~」と後書きで作品の内容についての言い訳を書いたのでしょう。 『1Q84をどう読むか』で島田裕巳氏が「これは「卵」側の小説なのか」と述べていましたが、私も同様の疑問を持ちました。 恐らく、アンダーグラウンドの時と同様に、村上は「卵」の側のふりをした第三者に過ぎないのでしょう。 g4g4p8様が仰るように、被害者は何が起こったのか息の詰まる内容の事実をきちんと語っていると私も思うのですが。
- kusun_001
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何が気になるの? 元来、コミュニケーションとは個人的なものであるでしょう。 アンダーグランドは作家にとっても、読者にとっても個人的なものです。 村上氏が個人的に書いて、読者は個人的に読む。 小説家の書く文章はそこにしか意味がない。そこにしか価値がない。 田中氏の指摘が鋭い? そのことについて10年ぐらい本気で自分で考えてみて下さい。
お礼
「アンダーグランドは作家にとっても、読者にとっても個人的なものです。村上氏が個人的に書いて、読者は個人的に読む」 というkusun_001様のご意見は全くその通りだと私も思います。 確かに、全ての文学作品は作家が個人的に書き、読者が個人的に鑑賞するものだと思います。 ただ、その中には実存の問題に過ぎない問題を普遍的な問題のように語るだけの作品もあると思います。 例えば、作詞家の秋元康が「AKB48の女の子たちが僕より後藤次利の方にばかり関心をもっていた。作詞家より作曲家の方がモテるんですね」と語っていましたが、これは単に秋元より後藤の方がモテたというにすぎない話だと思います。 また、フランス料理店ヌキテパのオーナーシェフの田辺年男がフランス修業時代に修行を断られた話をして「フランス人は日本人が大嫌いだから」と語っていましたが、これも田辺個人が嫌われただけの話だと思います。 ですから、秋元と田辺の「作曲家の方がモテる」「フランス人は日本人が大嫌い」という話は「秋元は若い女にモテない」「田辺は人に好かれない」というだけの話だと思います。 私は、アンダーグラウンドも「村上はノーベル賞のためにどうしてもノンフィクション作品を書かなければいけなかった。後書きだけではダメなので被害者にインタビューをした」というだけの作品だと思います。
- shape_1981
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何回か回答させてもらってるのですが、心境の変化があったので投稿します。 自分の中で変化が明らかに表れ始めたのはエルサレム賞の頃からです。 受賞時のスピーチに違和感を感じました。人間としての都合のよさ、政治家のようなあいまいさ、言葉の表現による自分の正当化です。 そこで、もう一度この質問に逆の方、つまりノーベル賞対策なのかもしれないという方向から考えてみました。 選択肢を絞って二択(そうなのか?そうでないのか?)で考えた場合、私も「ノーベル賞対策である。」という結論に至りました。 ただ、完璧な黒ではないと思います。目的はそれだけではないでしょうから。 そして、私がこの理由に至ったには2つの理由があります。 まず一つ目に、単純に賞が欲しいと考えます。 エルサレム賞の受賞に関して辞退する・しないで騒がれていましたが、村上は結局行きました。そしてあのスピーチです。受賞するのも行動・辞退するのも行動です。行動によってその人がわかるように、私はそういうことなんだと判断しました。 批判するつもりはありません。賞とはステイタス地位を表すものであり、ノーベル賞を取ろうと思って努力したり、自分の影響力を高めるということを考えると、彼も一人の人間ということから妥当な流れのような気がします。 文学者としてそうあってほしくないと思いますが、、、。 次に二つ目ですが、売上をあまり考えているように見えないのもノーベル賞を意識していることと考えられます。 売れる訳がない。 ターゲットははっきりしているものの、その需要がターゲット側にない。道路の向こう側の人は関心がありません。 加えて村上読者はこのような作品は望んでいない。表現がうまい・緻密である村上の作品は、いろいろと計算しているはずですし気持ちを文章で表わす天才ですからこういうジャンルは基本的にありえない。そう考えていくとノーベル賞を意識しているという確率は大変高くなってきます。 ここで、私がこの作品で問題と思うことは、事実をまとめたからそれで終わりだということです。 最後に「祈る」とありますが、祈るだけ?でしょうか?ここまでまとめて祈る???この言葉の意味に全く理解できません。困惑しています。私自身、祈るという行為は最後の手段だと思っています。 その後、村上が何らかの行動を起こしたのかどうかは把握しておりませんが、 村上は『システム』と戦い尽くしたのか? いや、そうではない。放棄しているように思います。 影響力があるからこそ、戦うべきものがある。また、それが今回の作品に対する責任というものだと思う。わざわざ被害者に回答してもらった意味がありません。失礼で、この無責任さを批判しないといけない。 ただ、批判しにくい。もう終わったことだから。日本の『システム』ですね。戦いを挑むべきシステムがいい方向に作用しています。 本末転倒。 そう、村上は直接的ではなく間接的(小説で)何らかのアクションが起こせるはず。勝ち目のないシステムと戦いを挑まなくてはいけない。それが賞を受けること、インタビューイへの感謝と恩返しです。都合のいい「不完全な一人の作家」という言葉ではすまされません。そんなことは誰もがわかっていることです。 では「目印のない悪夢」(システム)とどう戦うのか? 私にもわかりません。 システムと戦うことは今までの歴史と戦うことですのであまりにも大きすぎる。ただ、村上は今回の事件が阪神大震災と似ているとの「危機管理体制」を挙げていますので、彼なりの結論は出ている。まずはそちらをメインにアクションを起こすべきでしょう。 彼の言う「システム」は明らかに間違っていると思いますし、彼も彼なりの血を流さなくてはならない。 しかし現状の結果としては、彼の行動が目に見えてこない。 残念ながらこのことを考えた末に、自分の結論として村上という人間にがっかりすることになるとは思ってもいませんでした。そして、もしノーベル賞がとれればノーベル賞にもがっかりするでしょう。 我々はいつも喪失することしかできないのでしょうか?
お礼
三たびご回答を頂き誠に有難うございます。 お礼が遅れまして申し訳ございません。 エルサレム賞の件は以下のサイトが引用しているように 「エルサレム賞を受賞してもノーベル賞をもらえる保障はない。しかし拒否すれば確実にノーベル賞は遠ざかる。そこで考え出されたのが『壁と卵のスピーチ』だろう」 というのが真相でしょう。 http://blog.goo.ne.jp/ichimurasan2006/e/ee5df0146efc3c9e7ea224cecdaf4bd9 私も村上がノーベル賞が欲しいと思いながら作品を書くのは問題ないと思いますが、ノーベル賞のために作品を書くのは問題だと思います。 私は『アンダーグラウンド』は100%ノーベル賞のために書かれた作品だと思いますが、私もshape_1981様が仰るように、村上が「事実を書き終えてそれで終わりで何も行動しない」という事が一番の問題だと思います。 最低でも被害者に印税を寄付するくらいはできるでしょう。 本当に村上は一切何も行動していない。 http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20090224/p1 昨年4月に村上は韓国の新聞のインタビューで「日本人にはまだ戦争で犯したことに対して本当に反省する気持ちがない」と述べていました。 http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=98533&servcode=400 もし村上は本当にこう思っているならば、こういう言説は日本国内で日本人に対して言わなければ意味がないはずですが、なぜか村上は全くしない。 これもノーベル賞対策だからでしょう。 私も、shape_1981様と同じく、エルサレム賞後に村上という人間に完全に失望しましたが、村上が「アリバイ工作」をしない理由が解りません。
- yakiniku21
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回答の前にまず、わたしの村上春樹に対してのスタンスを書かせていただくと 「全作品の1/4くらいを読んだことがある。 ストーリーに引き込まれるのは毎度のことだけど、 読み終えた感想としてはいつも疑問がついてくるので 好きとも嫌いとも言えない」 というようなところです。 ストーリーテラーとしての力は評価していますが、 その作品が好きか、村上春樹は好きか、というと、まだ 結論が出せないということです。 今回の質問者さんの問題提起ですが、確かに上の質問文を読んだとき 「ええ~村上春樹ってそういうこと考えて本を書くのか」 と単純に驚き、そしてすこしがっかりしました。それは事実です。 でも冷静になって考えると、それが事実だったとしても、私の この作品への評価ははあまり変わらないということに気付きました。 あるすばらしいボランティア活動(なんでもいいのですが)をしている人がいて、その活動に心を打たれた。でも、その人が活動を始めたきっかけは、実はニートとしての自分に言い訳をつけるためだった、、、ということが判明したとしますね。でも私はその人を、その動機ゆえに、さげずもうとは思いません。 動機が低俗だったり情けなかったり自己中だった場合、どんな偉業を行ってもそれはダメだと言い切れるものでしょうか。それを言い出したら、誰もがみな胸を張れないのではないでしょうか。私も、あなたも、誰でも。 と、まあこれはこれでおいて置きまして、これは村上春樹の「アンダーグラウンド」を、質問者さんが全く評価していないから出てきた問題だとも思えます。質問者さんは村上ファンの一人である。でもアンダーグラウンドにはひどく幻滅していた。そこに、田中康夫さんの指摘が追い討ちをかけて、ものすごく嫌な気持ちになってしまったのではないでしょうか。 でも私は逆です。ほかの村上作品には心の底から感服できないのですが、このアンダーグラウンドはとてもよい作品だと思っています。 だから回答ついでにひとことだけ言わせてください。 質問者さんは、アンダーグラウンドを「他人へのインタビューの録音テープを文字に起しただけの作品」といいましたね。でも、「他人へのインタビューを文字に起こしただけの作品」だからこそ、わたしは意味があると思います。村上さん自身も言っていたと思いますが、生の言葉を集めて、それと、その背景に見えるものから、読者にいろんなことを考えてほしかったのでしょう。今までの多くの報道との違いを出すために、村上さんが考え抜いて編み出した手法だと思います。この手法を真似するのは簡単かもしれませんが、この手法を思いつくのは、おそらく結構たいへんなことだと思います。 この手法をとったことで、shape1981さんが言ったことに近いですが、読者が、「読み取って、考えて、血肉にする」時間を作り出せたのではないでしょうか。 ちなみに私は各人のインタビューを読むことで、サリン事件が「被害者の立場で」どういうふうに起こったのか、会社に属する日本人がどういう人たちであるのか、ということを読み取りました。あと、予想以上の事故が起こったときに、どう行動するのがいいか、というのを深く考え、今後に備えることもできました。また、仕事への向き合い方も考えさせられました(地下鉄で働く社員、アルバイトの仕事ぶりや、被害者たちの仕事への向き合い方から)。また、村上春樹の書いた「あとがき」から、オウムと日本社会との相似点を知り、村上春樹と同じように、ではどこが違うのか??ということを考えたくなりました。 この作品の「あとがき」は、とても秀逸なものだと私は思います。もう一度、この「あとがき」だけでも読んで評価しなおしてほしいなあと身勝手ながら思います。
お礼
「すばらしいボランティア活動をしている人がいてその活動の動機が低俗なものであったことが判明したとしてもその動機ゆえに蔑もうとは思わない」 というyakiniku21様のご意見は全くその通りだと私も思います。 ただ、私は村上の行為はボランティア活動のふりをして被害者を欺いた詐欺行為だったと思うのです。 以下のサイトの指摘は実に的確です。 http://www.venus.dti.ne.jp/~personap/under.htm (1)後書きとインタビューの遊離が気になる。恐らくインタビューしなくても村上はこの結論を導き出せたに違いない。 (2)「本当に何が起こったのか?」という問いの答えについて後書きでは早々とこう書かれる「でも不思議なことに私が知りたいことは誰も教えてくれなかった」あれだけの労力を払ったインタビューの総論がこれだけに集約されてしまうのは残念だ。 (3)インタビューの手法が間違っていた。筆者の知りたかったことは筆者と被害者が討論でもしない限り得られないものだ。それは多数の人の証言から事件を再構成するという手法とは全く違い、一人に深くコミットメントすることで可能になったはずだ。筆者はコミットメントを避けニュートラルな位置でインタビューを取りまとめたに過ぎない。 なぜ村上はこのような手法を行ったのか? 実は、村上は最初から「本当に何が起こったのか?」などと思ってなかった、 だから村上はこのような手法を行ったのだと思います。 そして、その結果が「でも不思議なことに私が知りたいことは誰も教えてくれなかった」となったのは不思議ではありません。 なぜなら、最初から村上には知りたいことはなかったし、知りたいことがないのに相手と深くコミットメントする必要はないのですから。 もし、村上が後書きだけを書いていたら問題ありません。 しかし、それではノンフィクション作品にならないからインタビューを行ったのでしょう。 前書きの記述は凄いです。 「被害者が後遺症を理由に職場を解雇され二次被害を受けたことを知りどうしてこんな事が起こるのだろう?と驚いた」 これが被害者にインタビューをしようと思ったきっかけだったと書いているのですから。 確かに、後書きは秀逸だと私も思いますし、インタビューにも資料として読む価値があるとしても、被害者はボランティア活動だと思って応じたのですからこの作品は酷すぎると私は思います。
- shape_1981
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No8で以前回答致した者です。 前回の続き、質問者への回答になってしまいますが、申し訳ありません。 さて、本題ですが、 今回の種(tukijiさんの言葉から)はおいしい実をつける為のものでなく、芽を出す為のものだったのではないでしょうか。 種まき。(我々の心の中への被害者62名の種まき) 中立的立場で、日本社会のゆがみの根源を見出したい。読者にも見つけて欲しい。つまり、村上春樹からの一種の問題提起の一つで、そこに村上の欲求があるように思えます。 実(うまみ?)を付けず、リアルな物語(←好ましくない表現ですが)。 しかも、小説でも一貫していますが、最終的な喪失の裏側にある思いの鎮め方は作者からではなく、自分自身で模索する。また、思いやそこからの発展性は個人個人の持ちようにあります。 もちろん作者はおいしい実をつけることも出来たでしょう。しかし、それをしてしまえばメディアと一緒で最初の欲求と矛盾してしまう。また、影響力のある作者は読者の考えが自分と同じ方向を向いてしまうのを避けた。 あくまで中立を保ちたい、今までの既成概念から判断したくない。して欲しくない。純粋な気持ちで何が本当の悪なのか、というのを冷静に判断したかったのではないでしょうか。 もしかすると、きっかけにノーベル賞はあったかもしれない。しかし、それはもはや関係ありません。彼もまた喪失の中で生きている一人の人間です。 もちろん、受賞すれば私としてはうれしいと思います。 しかし、それはゴールではなく一種の通過点、しかもゴールは一生見えない。そういうところに彼は生きているのでしょう。我々もそうです。 だとすると、本当の理由は村上自身に問い掛けてもわからない。 >「その人をその人らしくしているものはその人らしいものとは限らない」だと思います。 というtukijiさんの言葉やこれまでのやりとりで、私なりに解釈するとこの質問の結論は出ないと思います。 もはやtukijiさんの質問は哲学的で、例えば「何のために生きるのか?」という質問とあまり変わりません。 つまり、「本当の理由」を探ろうとするのはナンセンスではないでしょうか。理由は見つかりません。(ただ、「何のために生きるのか」等々の哲学的な答え・理由をお持ちでしたら私の言っている事は間違っているでしょう。) ただ、tukijiさん自身、質問された時と今とでは何らかの変化があるように思いますが、tukijiさん自身の現状の結論がありましたら教えていただけませんか?
お礼
私の文章を最初から読んで頂き誠にありがとうございます。 shape_1981様が仰る「種まき」という見方は一理あるお考えだと思います。 ただ、私は「好意的に見ればそういう見方も可能かもしれない」とは思いますが、個人的には心から納得はできません。 アンダーグラウンドが出版された時に「なぜ村上はこんな作品を書いたのか?」と疑問に思った人は私だけではないと思います。村上自身の執筆動機の説明を読んでも私の疑問は解消されませんでした。 確かに、shape_1981様が仰るように村上春樹が、たとえどのような理由でアンダーグラウンドを書いても良いと私も思います。 しかし「ノーベル賞欲しさに地下鉄サリン事件の被害者をダシに使った」としたらそれは批判されるべきだと私は思います。 私の現状の結論を申し上げますと、私はアンダーグラウンドを読んで以下の出来事を思い出しました。 1981年にさだまさしが「防人の歌」という反戦歌を発表した時に「なぜ反戦歌が歌われなくなったのか?」というコメントを出し、そのコメントにタモリが「みんな反戦歌を歌うなんて恥かしいと思ったからじゃないか」と激怒しました。 タモリが激怒した理由は、1981年当時すでに反戦歌は時代遅れだった、だから、本当は「なぜさだまさしは反戦歌を歌うのか?」とみんなが疑問に思っているのに、さだは「なぜ他の歌手は反戦歌を歌わないのか?」と「自分ではなく他人の方がおかしい」というような自分の行動を誤魔化す発言をした。それだけならまだしも、昔は反戦歌を歌って今は恥かしいと思っている歌手たちを侮辱した。 その事にタモリは激怒したのだと思います。 さだが時代遅れの反戦歌を歌った本当の理由は、反戦歌が時代を超えて歌われるべきだからではなく、さだ自身の創作の行きづまりとか全く個人的な事情でしょう。 私はアンダーグラウンドもこれと同じような作品だと思うのです。村上の場合はノーベル賞ですが。 でも、私は作家とはそういう人種だと思っていますので、村上の行動は賛成はできませんが理解はできます。 私はもう村上に「アンダーグラウンドの続編」は書かないでほしいのです。 これが私がこの質問を書いた真の動機です。 私は村上の理解者の端くれだと自負しています。 私は村上が本当にトルストイのような作家になりたいのならば、日本人の心配よりも自分自身の心配をしてほしいと思っています。
- shape_1981
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投稿されてから、かなりな時間が経ちますが失礼します。 まず初めに、私は村上春樹ファンです。 最近になって『アンダーグラウンド』『約束された場所』を読んでいますが、どうしても彼がノーベル賞対策に書いていると思えません。むしろそう思いたくない。 彼の小説の作品上、ノーベル文学賞や我々読者に自分の思いを分かって欲しいという欲求はあまり無いように思います。(完全に無いとは言えません人間ですし。。。) 書きたいから書いた。 うまく言えませんが、「食べたいから食べる。」「眠たいから寝る。」そういう根源的な欲求でこの作品を書いたように思います。 小説家ですし、もしかすると翻訳家っていうのも多少影響があるのではないでしょうか? あとNo1の方の回答に 「長野県の元知事の言葉とは思えないです」 というのは私も同意見です。どういう経緯があったにせよ知事であった人としてあまりにも軽薄過ぎると思います。 他の人ならともかく、心の中に留めておく内容だと思います。
お礼
ご回答頂きありがとうございます。 田中康夫氏の発言は長野県知事になる前の雑誌での発言です。 私も、shape_1981様が仰る通り、村上春樹は他人に自分の思いを分かって欲しいという欲求はあまりなく、自分が書きたいから書くという根源的な欲求で作品を書いている作家だと感じています。そして『アンダーグラウント』もその例外ではないと私も思います。 ただ、私はその『アンダーグラウンド』を書いた村上の根源的欲求が村上という作家の真の本質であると考えているのです。 幻冬社の見城徹社長は「作家は小説を書くことで辛うじて自殺を免れている。そのくらいでないと作家にはなれない」と言いましたが、私も作家という人種は「書くために書く」という方法以外に作品は書けないと思います。 その一方で、私は作家という人種の根源的欲求は形而上的なものも形而下的なものも常人以上だと思います。 美智子皇后が嫁いだ時に父の正田英三郎氏が「どんなに親しくなってもその人の中にはその人らしくない部分がある。そこに踏み込んではならない」と戒めたそうです。 この言葉の意味は「その人をその人らしくしているものはその人らしいものとは限らない」だと思います。 仏のように心の優しい人とは、虫も殺せない人ではなく普段はとても優しいが非常時には人を殺せる人だと思います。 例えば、果物には中心に種があります。種はその周りに実をつけるために存在するわけですが、種と実が全く違う物質でも不思議はない。 私は作家とは中心に種がある果物みたいな人だと思います。 そして、作家は自分の中心にある種の周りに美味しい実をつける事で精神のバランスを保っている人種だと思います。 そして、村上は『アンダーグラウンド』でそのバランスを崩して美味しい実をつけることに失敗したと私は感じています。なぜ崩したのかはわかりませんが。 私は映画『犬神家の一族』のラストシーンが理解できませんでした。事件を解決した金田一耕助が犬神家の人たちが自分を駅まで見送ると知って一つ前の汽車で逃げるように去っていく。 恐らく金田一は事件解決後に残された最大の謎「金田一耕助とは何者か?」を暴かれるのを恐れたのでしょう。これを暴かれたら今後新しい事件を解決する神通力を失う。 この映画が最後でなく、まだ金田一耕助シリーズに続編があるならこのラストシーン以外ありえないでしょう。
- may1995
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前に回答したものです。こんにちは。 まずは、回答から。やはり「思わない」それだけです。 これは、いろんな人がいろんな考えを持つものだと思うので、 質問者様が「思う」と思われるのは別に間違ってはいないとおもいます。ただ、「思わない」人のほうが多い、それは 仕方ないでしょうね。 なんだか、中島みゆきさんが、昔のと違う曲を歌うようになって、 ビフォアアフターをきめて、ロック的、メジャー的になったのを 否定されるファンがいる、と語っていたのを思い出しました。 質問者様にはアンダーグラウンドがビフォアアフターの境目なのですね。と、感じたわけです。ちょっと関係ないですが。 筒井康隆さんの小説も「これなら俺も書ける」とおっしゃるかたが けっこういたりしますが、じゃあ実際かけるかとか、 書いてみたかというと書いてみてないわけなので、 それは実行を伴わない以上「ただ思った」だけなのです。 時間、労力をつかえばひょっとしたら だれでも出来たかもしれません、それは みんな考えることかもしれないですが、しかし あれほどのセールスをあげられるでしょうか? 村上春樹氏はご自分のネームバリューを使ってそれは (たくさんの人に読んでもらうこと)考えられたとは思いますが、 質問者様が同じ内容のものを出版して、 はたしてどれくらいの人が読むでしょうか。 村上氏をこえる売り上げは難しいでしょう。 これは、個人的な意見ですが、アンダーグラウンドのあとの 作品がつまらなくなったとは思いません。 質問者様は、たぶん、質問したいのではなくてご自分の意見が云いたい、と感じましたが、違いますでしょうか。 回答よりもいつも長いお礼を書かれることや、 常にご自分の主張を述べられて、あまり回答の中身には 感銘や影響は受けられないような気がします。 絶対的に自分の考えを動かすことはなく、 それに共鳴してもらうために投稿している...と感じました。 もしそうなら、質問という形ではなく、ブログとかを たちあげてご自分の思ったことをかかれたほうがよいかもしれないですね。人の意見を聞くより、ご自分の主張を述べるほうが中心の。
お礼
私は司馬遼太郎のファンでもあります。 その司馬が1986年に「22才の自分への手紙」という発言を始めました。司馬は22才で敗戦を体験して「昔の日本人はまともだったのではないか?それが私が日本史に関心を持つきっかけになった」と発言しました。 私はこの司馬の発言を聞いて驚きました。すなわち、従来の敗戦の原因の考え方は「明治以後の近代化が不十分で日本の後進性を克服できなかったから」というものでしたが、司馬の考え方は「明治以後の近代化の過程で日本の特質が失われたから」という全く正反対の歴史観でした。そして司馬は「昭和前期の日本は非日本的な時代である」ということを証明するために歴史小説を書き始めたと語りました。 司馬作品が「戦後の日本人の日本史に対する自信を回復させた作品」と評される理由は、司馬作品が「第二次大戦の敗戦は日本史の非連続性の結果である」という歴史観の作品だからでしょう。つまり、司馬作品全体が『坂の上の雲』であるわけですが、実際『国盗り物語』『花神』でも昭和前期の日本人との比較を意識して書かれた箇所が見受けられます。 ところが、司馬夫人は司馬の発言は「事実ではない」と語りました。 私は夫人に反論の手紙を書き、事務所の方が謝意の電話を下さいました。 ところが、夫人の方が正しかったのです。 実は、司馬が1986年から始めた発言はウソだったのです。司馬は発言の通りの理由で作品を書いていたのではないのです。 もし、司馬が本当に発言の通りの理由で作品を書いていたならば、司馬の問題意識の核心である昭和前期の日本の非日本化の原因の解明という仕事に着手するはずですが司馬はそれをしなかった。その理由は何か? 恐らく司馬はそれを解明してしまったら自分の仕事がなくなってしまうと恐れたのでしょう。 私が思うに、性急な近代化は人間の大脳を非常に酷使する。近代化社会を構成する情報量は前近代化社会の百倍以上でしょう。 実はこの私の推論は司馬夫人宛の手紙の中で書いたのです。 私でもこのくらいの推論は立てられる。 司馬がしなかった理由は、司馬の創作活動の理由が自己顕示欲とか形而下的なものであったからとしか説明できません。 少なくとも、司馬は形而下的な理由の方を優先させた。 「作家という人種は凡人の理解を超えている」と私はこの司馬の件で思いました。 お答えになっていないかもしれませんが以上です。
- super32x
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なるほど。あなたは村上春樹が気違いだと思ったわけですね。 気違いが形而下的な理由だけで醜悪な作品を書いたからやっつけようぜ、 と言われても、 「いや、別に醜悪でも無いし、気違いでもなさそうだから遠慮しときます」 と返答するしかないですねー。 おひとりでがんばってください。
お礼
村上春樹が、たとえどのような形而下的な理由でノンフィクションを書いたとしても、そのノンフィクションが素晴らしい内容の作品だったら、私も何も文句はありませんし嬉しいのですが、アンダーグラウンドは村上でなくても書ける内容の作品だと思います。 極論すれば一般読者である私でも、時間や労力を投じれば、書けるような気がするくらいです。 村上が、小説を創作する時と同様に、ノンフィクションを手段ではなく目的として書いていたらこのような内容の作品には決してならなかっただろうと私は思います。 そうした意味で、村上の小説のファンである私はとても残念に思います。
- super32x
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アンダーグラウンド以前の村上春樹の周辺には、ノーベル賞の話題は皆無でした。 今まで全くおのれの人生にかかわりのなかった「ノーベル賞」なんてものの仕込みのためだけに、膨大な時間をかけて聞き込み、何百ページも書いたのだとしたら、そりゃ関係妄想の精神異常者です。 というところであなたのご質問を要約します。 「村上春樹は気違いですか?」 なんか斉藤美奈子さんが爆笑しそうなオチになってしまいました(笑)
お礼
どうもありがとうございます。 私は1996年の段階で村上春樹は将来のノーベル文学賞について意識していたと私は思います。周辺でノーベル賞の話題が出始めてからノンフィクションを書き始めたら仕込みとしては手遅れでしょう。 また、私はアンダーグラウンドはページ数は多いですが他人へのインタビューの録音テープを文字に起しただけの作品だと思います。私は1997年にアンダーグラウンドを読んだ時に 「これは文学でもないし、評論でもないし、関係者に会ってインタビューしただけで自分で足を運んで取材したわけでもないという意味でドキュメンタリーでもルポルタージュでもない。何なんだこれは?」 とまるで鵺(ぬえ)のような非常に奇妙でとても醜悪な作品だと感じました。 しかし、このアンダーグラウンドが、地下鉄サリン事件ではなく村上春樹という人間の内面を「口開けてはらわた見せるザクロかな」というように開陳した作品であると考えれば、私は納得できると考えています。 私は村上はアンダーグラウンドを書く必要は全くなかったと思います。 ダマテンの方があがりやすかったのにリーチをかけてしまったような感じです。 私はアンダーグラウンド以後の村上作品はクオリティーが落ちてしまったと感じています。
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お礼
お礼を書くのが大変遅れまして誠に申し訳ありません。 >質問者さんの言う「不思議なことに誰も教えてくれなかった」という村上春樹の言葉は、 >メディア(あるいはそれに準ずるもの)にたいする言葉なんではないでしょうか。 確かに、paris1895様がご指摘の通り「不思議なことに誰も教えてくれなかった」という村上の言葉は、インタビュイーに対する言葉ではなくメディアに対する言葉であり私の読み間違いでした。 従って 「村上は「東京の地下で本当は何が起こったのか?」などとは本当は思っていないで被害者にインタビューをした」 という私の批判は私の読み間違いに基づいた誤りであり、この点につきましてはお詫びをして訂正をさせて頂きたいと思います。 私のアンダーグラウンドに対する感想は、宮台真司が書評で述べた以下のような否定的意見と同じです。 かつて湾岸戦争に際し「いつまでも戯れてちゃダメだ」と集った「新人類文学者」たちがいて、「そういうことは折り込み済みで戯れている」ものと思っていた私は仰天した。それで言えば、オウム事件に面し「逃げちゃダメだ」と『エヴァ』の主人公シンジばりに「エヴァ=自分(たち)の物語」に「乗る」ことを村上は選択したのだろうか。とすれば、そんな分かり切ったことのために才能が空費されることを、残念に思わずにいられない (週刊読書人 1997年4月11日) 私も地下鉄サリン事件に際して突然として社会にメッセージを発し始めた村上の行動には、湾岸戦争の時の新人類学者と同じような大きな疑問を感じました。 また、作品の内容にも私は大きな疑問を感じました。 「東京の地下で本当は何が起こったのか?」という村上が被害者に行ったインタビューは、多くの視座を得るためのマテリアルとはいえ、仮に村上以外の人間が行っても恐らく同じ効果が得られた内容に過ぎません。 また、あとがきの「目じるしのない悪夢」も、すでにどこかで聞いたことがあるような内容だなと私も思いました。 そして、村上がこうした不可解な行動をした理由は 「ノーベル賞候補作家は何でもありの相対主義者だと思われてはいけない。これだけは絶対許されないというモラルの持ち主であると思われなくてはいけない」 「また、社会の出来事にコミットメントしないノンポリや個人主義者だと思われてはいけない。社会の出来事に対して自分の立場を鮮明にして社会に向けて自分の意見を発信しないといけない」 と村上は考えたからだろう私は思いました。 実際、村上があとがきで書いた内容はすでにアニメ作品で語られているテーマです。 例えば、機動戦士ガンダムは、社会のシステムの中でもがき苦しむ個人を描くことで、社会で生きる個人のあり方をテーマにした作品だと私は思います。 ガンダムという作品の魅力については、人類がスペースコロニーに住むという近未来、モビルスーツという兵器としてのロボット、ジオンという悪の組織の側にも強固な論理が存在する、戦争と人間についての考察、などの作品のリアリティー性がよく指摘されます。 しかし、私はこの作品の魅力は、非常に人間臭い登場人物と、彼らが体験する心の葛藤にあると思います。 主人公のアムロと敵役のシャアはそれぞれ自閉とニヒリズムという現代人の二大特徴を体現したキャラです。 そして、ガンダムではアムロが地球連邦軍の巨大なシステムの不条理と矛盾の中でもがき苦しむ姿をこれでもかと描きます。 そして私は、ガンダムという作品で制作者が訴えたかったことは 「連邦軍はこんなに酷い。しかしそれでもジオンは悪なのだ。その理由を考えてほしい」 だと思います。 私の作品解釈はこうです。 「人間は一人では生きられない。だから誰もが否応なく社会の歯車になってしまう。そして感受性が豊かな人ほど社会の不条理や矛盾に敏感だ。そうした人は社会に根本的な疑問を感じ過激派やカルト宗教に入ってしまう。実はジオンはそうした人の象徴なのだ」 「ジオンになってはいけない」 これがガンダムの作品テーマだと思います。 実際、アムロがもがき苦しみ辛く悲しい体験をしながら最後まで逃げずに戦い抜いた姿に読者は感動するのだと思います。 サックス奏者のマルタが 「芸大でどう演奏すべきか何も教えてくれなかった。でも音楽家としてこれだけは絶対してはいけない事を教わった」 と述べましたがガンダムもそういう作品だと思います。 一方、村上の「向こう側(オウム真理教の人々)とこちら側(被害者)は実は境界が曖昧である」という作品テーマはガンダムに比べて浅薄です。 しかし、アンダーグラウンドがノーベル賞のためのポーズという村上の個人的事情で書かれた作品だと考えるとその薄っぺらさが納得できる気が私はします。