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罪を憎んで人を憎まず?
罪を憎んで人を憎まず、とはどういう意味なのでしょうか? 罪は独立して存在するわけではなく、それを犯す人がいるわけです。 だから、罪だけを憎むのは無理かと思うのですが。 罪を憎むという事は、それと同時に人も憎む事になると思うのですが。 例えば殺人があったら、犯人を憎むのは当然です。 犯人を憎まないで、殺人という行為を憎む? うーん、どうもピンときません。 どなたかご解説の程、よろしくお願いいたします。
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この世で一番恐ろしいのが、憎しみの感情です。 私たちが理性を持つ者ならば、 誰に 何に 罪があるのかを見定めるべきです。 人には慈悲を。 罪には罰を。 それが私たちに許された行いです。 罪を犯す、犯してしまった人と、 平穏に、実直に生きる人。 誰が 何が それを分けるのですか。 罪を犯せば悪。 犯さなければ善。 恐ろしい二分化です。 なぜ恐ろしいのか、わからない人が増えました。 私たちは神ではないのです。 裁く権利など、誰にも許されていません。 今、私たちは何を信じるのか問われているのです。 法か。 他者か。 自分か。 愛か。 論理か。 感情か。
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現実その言葉が通じるのは相手が反省していて人殺しなど 取り返しのつかないケースを除いた極めて軽い犯罪のみの場合です。 ほとんどの場合反省していないので手加減なしで情けは無用です。 自分がやられたら相手が二度と立ち上がれないくらい法的に徹底的 に叩きのめしてやってください。
>罪を憎むという事は、それと同時に人も憎む事になると思うのですが。 >例えば殺人があったら、犯人を憎むのは当然です。 これが当然だから、「罪を憎んで人を憎まず」が憎しみの連鎖を戒めるための格言として使われると思いますが。
例えば、求職活動をするものの仕事にまともにつけず、 身体も壊して貯金も底をつき、コンビニで弁当を万引きした 人がいるとします。 泥棒は泥棒、犯罪は犯罪ですが、 普通に仕事につけていれば まっとうな社会人として生涯をまっとうしていたとしても、 人生の中にそのような不遇な時があって、 仮に犯罪を犯したとして、 本人が悪いというだけで罪を裁くより、 そのような社会が悪い、その人の本性はそんなに悪い人では ないのだという観点から自戒や更生を促した方が 世の中のためになる。という考え方です。 なんの咎もなく身内を殺された場合には、 身内にはその諺は通用しません。 ただ、上のコンビニの万引きの例で、 ちょっとした押し問答の末、不幸にも相手を死に至らしめて しまった場合を考えると、 身内にはやはり通用しませんが、 社会的にみれば、そこまで困窮する人を作らないことが やはり求められるわけです。 飢えなければ泥棒もなかったし殺人もなかったと。 前に生活保護を打ち切られて「おにぎりを食べたい」と 書き残して死んだ人がいますが、 普通に考えれば泥棒してでも生き残るべきだと 思うのが庶民感情なのではないかと思うのですが。 自分の命と引き換えに法律を守る必要があるのか。。 もちろん考え方は人それぞれでしょうから、なんとも言えませんが。 ただ、死刑廃止を求める国々が先進国では圧倒的に多いですが、 そのような考え方がベースになっていることもあると思います。
- globef
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罪を犯したことを反省し償わせることは大切、 だが「罪を犯した」というそのことをもって、その罰以上の制裁を 加えるようなことがあってはならない。そういうことを戒めたのでは? 「犯人を憎まない」という意味ではないと思いますよ 他にもこんな解釈も... http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub2-75.htm
- dulatour
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中国人は、日本人を憎んではいません。ただ、侵略行為を行った当時の軍国主義は憎んでいます。 日中は現在友好的ですが、軍国主義の象徴としての靖国神社は非常に憎んでいます。 つまり、個人を憎むのではなく、個人を犯罪に駆り立てた欲望の存在を憎むと言うことです。 殺人を犯した人間でも、そうした欲望を起こさなくなった人間は、社会復帰します。もちろん、遺族としては犯人を許す気にはならないかも、知れませんが、ひとりの人間が悔い改めて新たに生まれ変わったとするならば、それを受け入れないわけにはいかないという人道主義です。