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文法的には正しいけど

久しぶりの質問です。 私の信じる事は今回の質問なりお礼・補足には出来るだけ入れないようにしますので出来るだけ多くの方々からの回答をいただければと思っています。 このカテで5年間いろいろな方々の質問や回答を読ませてもらってきてひとつ非常に不思議と言うか理解が出来ない事があります。  それは 1)「文法的には正しくないけどアメリカでは一般的に使われている」 2)「文法的には正しいけどネイティブだったら使わないでしょうね」 3)「文法は大切」と言いながら「あまり文法にこだわらないほうがいい」 4)「アメリカ人の文法はひどい」と言いながら日本人の国語文法のことは無視 5)「日本人留学生の英語文法の成績は抜群」でもコミュニケーションは出来ないのは文法と表現力とは無関係 6)英会話に対して「日本の英語教育は読み書き重点」と言いながら「卒業生の多くが読み書き出来ない」 これらの矛盾に関して誰も日本では関心が無いようの思われます。  これは私の無知から来るものなのでしょうか、 それとも実際に関心がないと言えるのでしょうか。  もしいえるとしたらなぜ関心がないのでしょうか。 それともまったく気がつかないと言うレベルなのでしょうか。 そして、なぜ試験にしか使われない文法と呼ばれるものの一部と実際に使える文法の一部との区別をしないのでしょうか。 (いわゆる私が言う試験文法と社会的に認められている社会文法との違いですね。 学校文法にはこの二つが組み込まれているので最近試験文法と言ったほうがいいと言うアドバイスを使わせてもらっています)  いろいろ質問を書いてしまいましたが、結局はひとつの質問になると言うことなのではないかと思っています。 現状の説明でもかまいませんし、同意・反論何でもかまいません。 とにかく少しでも日本の状況や英語学習者、英語教育者、そして英語関心者の思いを知ることを望んでいます。 文法の得意な方もこれを機会に文法がどれだけ大切なのかを「説得」してください。 お礼補足では決して批判的な言葉は使わないことをお約束いたします。 そして、特に、試験文法批判者の方々もご意見いただければうれしいです。 私の信じていることを論じるための質問では決してありません。 ただ、これらの矛盾の存在について疑惑の念を強くしていることは確かです。 言い換えれば、この辺にも高校卒業者の英語力に影響していると思うわけです。 よろしくお願いいたします。

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  • ベストアンサー
  • jayoosan
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回答No.12

無関心ではないが、直せない軌道修正しにくいというのが実情ではないでしょうか。 どんな物事にも二面性があり、またその二面のギャップは、一般的なサービスでは提供側(例えばメーカー)の意図と、受け取り側(例えば消費者)のニーズのあいだにギャップがあった場合は、それは自然と修正されていきます。 例えば民間の企業でしたら、技術者や開発者が商品をつくります。それはコインの表側を作ったのかもしれません。しかし、消費者ニーズがまったく逆でコインの裏側を求めていた場合は、次期バージョンや製品改定を経ながら、ある意味メソッドを変えてまで「表を裏に合わせるくらいの意気込みで」商品開発と改革を行います。売れなければ、商売が成り立たないからです。 しかし教育においては、受験というニーズにまず変化がないことと、提供側の意識もメソッドも「他に代替物」もなく、また民間のように独断で変革に動けるわけでもなく、勝手なこともできない。誰か企業プロジェクトのようなリーダーがいてくれればいいが、英語教育においては全体をひっぱるよう、あるいは指針を示すようななリーダはもう出ない。 さらに、消費者(生徒)の側も、人と違うことをやると自分のニーズ(受験)を充たせないのではないか、(他の代替メソッドを知らないので)間違っているのではないかという不安にかられてしまい、やはり従来のメソッドに戻る、あるいはそれが基本だと誤解する。 それを見て教師側も、「ほらみろ、そこしかないだろ?」と圧力をかける。 学校教育とは違うアプローチをやっている民間英語学校は沢山あるんです。しかし、生徒の側がネイティブ圏の実際の英語を知らないため、「それはいままでのやり方からすると邪道だ」「どっかのおかしい先生が自論でやってるだけでしょ」で終わってしまい、英米の大学や大学院でせっかく英語を目にしてきた先生たちでさえ、旧来のメソッドとのすり合わせをしながらやらざるを得ない(極端にはずれると、生徒が来ない)という実情があるからだとおもいます。 そういった海外で英語を学問として修めた先生の本をいくつか読みましたが、海外で学んだ人たちは国内だけの専門家と異なり、さすがに現地の生きた英語を知っているなと思います。しかし、食べていくために塾で教えたり、受験にあわせた本を書くにしても、受験生はいままでの解釈を質問としてぶつけてきたり、「日本語による英語の解釈」で理屈を構築してぶつけてくるそうです。 アメリカの大学だと先生も「それは私は知らない」とか「その部分は私の学問の範疇ではない」「英語で考えろ」と言えてしまうものが、日本だと「先生は何でも答える」「先生は何でも知らなくてはならない」病に先生も生徒もかかっているため、そういった受験生の独自の理屈の質問に、いかに答えるかに苦労すると書いている方もいました。

Ganbatteruyo
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 いつも英語だけでなく中国語へのご回答も交えて勉強させてもらっています。 上海語で最初に習ったのが謝謝儂でした。 (もちろん、試験文法なしでです<g>) 受験、これは試験文法と名づけられるほど大きな弊害となっていると考えています。 そうすると、教育システムに受験システムへ質問と回答がそれてしまうようなのです(私自身、直接かんけいがあるとしんじていますが) しかし、これだけ多くの人が実際に英語を使っている環境になってきているわけですから生徒やその親御さんの関心はただ試験英語を勉強していれば事がすんだ昔とは違ってきていると思いますがいかがでしょうか。 つまり、今では、英語習得環境が非常に複雑になってきていると言うことでもありますし、生後教師の知識だけでは「ついていこうとしない」か「出来ればついていきたくない」と言う生徒もかなり出てきているのではないでしょうか。 昔は、高校・大学があるから英語を勉強する、それだけだったですね。 そして、その環境についていけていないのが英語教育制度だとも言えるわけですね。 また、楽をして英語を身につけたい、と言う時代(つまり、なんでも楽をしたい、だから商品が毎年よくさせざるを得ないというメーカーにしても迷惑千万と感じる管理者も出てくるわけですね)になって島田のだと思います。  高校3年なのに中学一年の英語の文章がわからないということがおかしいとは思わない(これも矛盾の一つですね)環境が存在しているのです。 高校生になっても掛け算ができないと言うのと同じくらい大きな問題とは思わないのは過去5度の進級はどうしていたのでしょう。 この点何かお考えはありませんでしょうか。 林家小三治師匠が自分は高校卒業(予備校中退)ですが英語は中学2年中退だと言い、高校の3年間は師匠曰く「ずる」を通したと言っています。 だからと言っていまさら高校卒業を取り消されても何の支障もないとうそぶるのも結局そういうことなんだなと思いました。 しかし、50になってUC Barklayに語学留学したのにはやはり違うな、と感じました。 この質問を立てて、文法の区分けだけでなく教育システムとそれを牛耳る政府とも問題があまりにも大きいと言うことになってしまいそうなフィーリングを感じているところです。 ご回答ありがとうございました。 P.S. いつも思っていたことですが、How do you pronouce your ID name?なんでしょうか。 お聞きしてもよろしいでしょうか。 (聞いてしまいましたが) Appreciate it if you wouldと言うフィーリングです。<g>

その他の回答 (17)

回答No.7

いつも回答を拝見しております。 基本的にはGanbatteruyoさんと近い立場を取っているので、少しは理解できるのではないかと思っています。 (1)言語というのは生き物なので、その時々で進化(退化)を繰り返しているけど、常にアップデートするのは大変でなので、ある時点からの変化は認めない。日本語に関しても、中高生などが仲間はずれにすることを「ハブる。」などと言うようですが、語源は「省く」から来ているそうです。なぜか、カ行5段活用の言葉がラ行5段活用になったようです。現在のところは「ハブる」という言葉自体を存在しないとして日本語文法も教えていると思うので、ましてや英語での文法の変化までを許容することは難しいでしょう。 (2)この問題は難しいです。俗に言う"sounds funny"とか"sounds strange"という感覚は人にもよりますし、その状況で明確なのか不明確なのかも変わってきます。従って、正しくそれを教えることはかなりの困難なことと思います。が、この辺が本当は大事なのだけどなと感じてます。 (3)これに関しては、私の解釈は「文法は知っていると便利である」という考えです。ある程度の知能が発達してから学ぶことに関しては、原則論などがある方が習得が楽であると思います。 慣れで全てをカバーするのは困難とすれば、文法に頼るのも仕方ないと思います。 アメリカ人であっても日常会話の仮定法でついつい"I was ......"と言う時はありますよね?もちろん、アメリカ人の多くは正しくは"I were ....."であることは知っていると思いますが、ついつい"I"に続くbe動詞の過去形だと"was"と言ってしまうのだと思います。 これは慣れがなせる業で仮定法だから、????と考えて話す日本人は必ずと言っていいくらいにしっかりと"I were ......"と話します。 逆にわかっていてもついつい"I was"と言ってしまえる位に慣れているならば、あまり文法に捉われずともいいのではと思います。 (4)これは(1)と同様の次元のことと考えます。 現代用語では、実際には「全然・・・・ある」という表現を日常では使ってます。が、正しくは(昔からの日本語としては)「全然・・・・ない。」です。 それで英語と現代日本語の共通点でもあり軽視されていることとしては、元々書き言葉と話し言葉が似ている言語であるので、ついつい話し言葉と書き言葉が違うことの認識が薄いのです。ましてや日本人にとって他国言語である英語でも、話し言葉と書き言葉は違うということは尚更希薄です。 英語において、通常の正式な文書において「"'"(アポストロフィ)は所有格を表す以外では使わない」という原則はほとんど教えてもらいません。 まるで"I am"を"I'm"とか"is not"を"isn't"と書くのが正しいような教え方をされます。これは日本語でいえば、「してしまった。」と「しちゃった。」と書いているようなものであることは理解してません。 (5)これは英語力よりも人としてのコミュニケーション能力の欠如と思っています。 個人的な例ですが、私は日本の高校でそれなりの英語力しかない状況でアメリカ留学をしました。ほぼ同時期に日本の英文科を卒業した日本人留学生もました。当然のことながらその時点での英語力は彼の方が数段上でした。が、彼は日本語の話も面白くなく決して日本語でのコミュニケーション能力が高いとはいえませんでした。一方で、私は昔から話が面白いとか言われていました。それから1年も経過すると私は(きっと非常に拙い)英語を駆使しながらもアメリカ人をはじめ他国人の友人を作りましたが、彼は(きっと私より英語が上手いのにも関わらず)カフェテリアで一人でいることが多かったような気がします。 やはりコミュニケーションはいろんな手段を使って、意思の疎通をしたいと思わうことから生まれるものと思います。 極端なことを言えば、日本語の全くわからないアメリカの幼稚園児と英語の全くわからない日本の幼稚園児でも、数時間くらい一緒にいるとなぜか仲良く遊んだりします。これはきっと言語以外のコミュニケーションツールを活用して意思の疎通を生み出しているのだと思います。 もちろん、言語はコミュニケーションツールの中で重要なパーツですが、それが全てではありません。従って、英語をいくら磨いてもそれでコミュニケーションが成立することはないと思ってます。 (6)これが今回のメインテーマと思いますが、実際に高校で教えていることは読み書きの準備であり、決して読み書きは教えてません。 (5)に書いたような状態で留学した私でも、留学先では最初から授業の半分以上は書くこと聴くこと読むこと話すことでした。問題集やドリルなんて10分位のクイズでやる位でした。きっとすごく拙い英語でありながら何百語の文章を書いたり、数十分の話を中断無しに聞いたり、平易な言葉とはいえ数ページの文章を読んだり、10分前後のスピーチをしたりなんていうことをやらされました。これこそが英語を習得する方法であり、その中で遭遇する困難を解決したり、その質を向上するために文法などを勉強したような気がします。 但し、そのような書くこと聴くこと読むこと話すことの訓練を始めると日本で習った文法や単語力は決して無駄にはなりませんでした。 言い替えるなら、日本の英語授業は運転をするのに交通規則と自動車の仕組みを一生懸命習っているようなものです。それだけで運転はできないのは当然と思いますが、いざ実践で運転を習えばそれらの交通規則と自動車の仕組みがあることが無駄にはなりません。但し、交通規則ばかりに気を取られていて回りの流れに合わせるとかそういう運転が苦手なのだと思います。 ここからが私の考えの総括です。 個人的には一般論として日本人の英語力は英語を母国語としない他の国の人たちに決して劣ってはいないと思います。但し、その使い方や使う方法を習っていないだけだと思います。 学校教育の中での英語の授業においては、多分ほとんどの人が必要としているコミュニケーションツールとしての英語の側面が希薄で、英語の研究者等が必要とする英語学の側面が強いと思います。 私はアメリカに行く知人に、「別に細かい文法なんて気にしなくても大体通じるもんだよ。例えば、"I go to school yesterday."って言っても、ほとんどの人は"I went to school yesterday."と言いたかったんだなと思ってくれるし、"He don't like this"でも"He doesn't like this."だと理解してくれるから。」と言います。"go"の過去形が思い出せくて白紙答案と"I go to school yesterday."と書くのは学校の試験なら共に×だけど、コミュニケーションではその差は大きいと思ってます。 最後に日本の受験システムとの関連を考えると、入学試験というのは受験者に差をつけなくてはいけません。許入学者の数が決まっているのでちょっと勉強すればみんなが満点を取れては意味がありません。そうなると英語でも難関校になるほど重箱の隅をつつく問題を出さなければなりません。また、ある意味では日本人は公平性や公正性を重視します。従って、何百字にも渡る英作文になると仮にアメリカの先生でも人により評価が変わってくるので、あまり好ましいとは思われません。そのような事情で一般のアメリカ人すら覚えていないような文法や単語力を問う問題が出題されるのが現実と思います。 まだまだ書きたいことはあるのですが、この先は教育システムから果ては日本の文化や文明論まで展開する必要があると思うので割愛いたします。

Ganbatteruyo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 はじめまして、ですね。 明日(6時間後なんですが)朝が早いのであまりかけないことの気がつきましたのであまり書けないのですが、私も文法なしに、アメリカ人も日本人も英語を使えるように習得するのは非常に効率のいいものではないと信じています。 なぜなら文法の知識を「応用すれば」英語力は伸びると信じているからです。 わかってくれる表現を作れることからまず始まるでしょうね。 英語学の研究者を作るほどの文法知識がそれほど必要なのか、と言う事が本題なのかもしれません。(英語教育改革も含まれてしまってきていますが) 受験システムはいろいろな面で教育側では便利すぎるのでしょうね。 ATLを雇ったほうが簡単なんでしょう。 おっしゃられた「現実」自体が私の疑問を浮かびあげたともいえると思います。 しかし、改善しようとする一般人がいるからこそ、この5年間の日本での英語教育に変化を生み出したともいえると思います。 もしいなかったら(仮定法ですね<g>)、40年前とまったく同じ環境が今も存在したことになったと思います。  いつかこのカテで、中学のPTA全国的な団結(一般人ですね)のよって、自分の子供には英語を使えるように教えてほしい、と嘆願したら改革が起こる土台ができたと言えるのではないでしょうか。 ここに、公平性と公正性とを「求める世論」が作られていくわけです。 まだないから必要ないと感じているのが政府だとも思ってはおかしいでしょうか。 英語習得を夢見た人たちも少なからずいるわけで、私たちのように、一応は英語を使えるようになると、使えない人のことまで気が回らないと言うこともあるのではないでしょうか。 いま、ご存知のように中国では英語の必要性を感じている人が考えられないほど多くなりましたね。 必要性を感じさせるように中学で教えられるのは、やはりそれに合うだけの給料に満足できるいわゆる教えることの出来る一流の先生を配置することが必要なのかもしれませんね。 なんでもそうですが、習得しようと思わせる洗脳作業を出来る教師が英語教育にも必要なのかもしれませんね。 おっしゃったように教育システムから果ては日本の文化や文明論まで展開しなくてはならない必要性が十分あるようです。 ありがとうございました。 試験文法と社会文法とを区別する必要性はどう思いますか?

noname#47281
noname#47281
回答No.6

おはようございます。僭越ながら、私なりの考えを述べさせて頂きます。 >1)「文法的には正しくないけどアメリカでは一般的に使われている」 これは日本人の正しい文法というのが100年前のとある文法書を規範として日本人が独断で解釈した部分もあるからではないでしょうか? 2)「文法的には正しいけどネイティブだったら使わないでしょうね」 ↑の裏返しですね。 3)「文法は大切」と言いながら「あまり文法にこだわらないほうがいい」 これは教える側が文法を用いると教えやすい反面、生徒に鋭い質問をされると困窮するからではないでしょうか。 4)「アメリカ人の文法はひどい」と言いながら日本人の国語文法のことは無視 これは一種の英語信仰みたいなのがあるからでしょう。世界的には日本語と英語では言うまでもなく英語の方が通用度が高いですが、だからといって、英語の方が言語的に優れているというわけではないのです。確かに、通用度を度外視しても外交の言語としては英語の方が便利ですが、言語を通用度や利便性だけで優劣を決めるべきではないし、日本人も自国語に誇りを持ち、自国語の文法ももっと一生懸命に勉強すべきです。 5)「日本人留学生の英語文法の成績は抜群」でもコミュニケーションは出来ないのは文法と表現力とは無関係 無関係ではないでしょうけど、比例の関係でもありません。そうですね、市町村の面積と人口の関係に似ているかもしれません。 6)英会話に対して「日本の英語教育は読み書き重点」と言いながら「卒業生の多くが読み書き出来ない」 これは日本では何でも日本語で用が足りてそもそも英語の必要性が低いからです。また、日本での文法と訳読を中心とした教え方では読み書きさえ十分なスキルが身につかない証明でもあります。インドやフィリピンなどでは英語を読めないとパソコンも使えません。ですから、日本ではTOEICの高得点獲得者でさえ、ネーティブの小学生も知っている常識語彙を知らないのです。そして、その必要性の低い中で英語力をアップさせるなら 東南アジアのアメリカやイギリスの旧植民地が手本になります。授業の一部をイマージョン教育にするんです。それには、数学や理科のレベルが大幅に低下しますが、中学からは数学と理科を英語で授業を行うのです。数学なら 1+1を英語で言うことから始め、2次方程式などの難しい項目は高校に回します。理科にしても、小学校で習ったことを英語で表現するのです。例えが pollenとかpetalという用語を覚えていきます。

Ganbatteruyo
質問者

補足

myrtille55さん、ご回答ありがとうございます。 1)2)は私の考えと同じようですね。 初心者にとっては自分の向上がわかりやすいと思えるのかもしれませんね。  3)これからは教師がしゃべれるかどうかが学校で試されるようになるでしょうし、試験文法に関しての突っ込みはどんどん多くなると思います。 昔のような先生に対するマナーが必要とされなくなってきたのではないかと思います。 私がこのカテで言っている突込みは使われてしまう懸念はあります。 4)英語崇拝・信仰は私には見たくない現象です。 英語カテで回答していますが、外国人のために英語(だけ)を使わなくてはならないのは気になります。 日本語の表現を覚えてもらえばいいだけのことだと考えています。 日本語にもっと誇りを持ってもいいじゃないかと考えるわけです。 5) 日本で教えられていてこちらでテストする文法の知識が実際に応用されていないのは私自身経験したことで、こちらの英語の先生にこっぴどく言われて「開眼」しました。 文法の知識があっても使えないんじゃ「どうしようもない」と。 紙の上ではアメリカ人のクラスメートより出来るのに、一つ一つの文法の知識しかテストできないのが文法のテストであり、それらをいかにリンクさせ、応用して、オールランドの知識として使えるようにしろ、と。 学校文法(学校での社会文法プラス試験文法)を「使えるように」教えてくれなかった事をうらんだことはそれまでありませんでした。 それからですね、今もっている偏見とそれを原動力として使われている文法を徹底的に身につけたのは。 そこからフィーリングを大切にすると言う考えが原点だと感じはじめましたね。  何かここに試験文法の成績とコミュニケーションスキルとのギャップを感じてしまうのです。 ここに使える文法と試験文法の様な区別をちゃんとすることでこのギャップを縮める事が出来るのではないかと思うわけです。 しかし、別々のクラスではなくあくまでもはっきりと区別はしていながらでもしっかり「両立」させていく必要はあるのではないかな。  6)必要性が低いと言うよりも現在の必要性と将来の必要性を感じさせてくれる文法教師が少なすぎるとは感じませんか? このカテで質問を読んで来て多くの質問に「英語を職場で使わなくてはならなくなった」「海外旅行に行くのですが」「留学したいのですが」「外国人のお客さんがお店に来るようになって」「外国人なのですが結婚を前提に付き合っていますが」「メル友の英語がぜんぜん」など例文を覚えるだけでは難しすぎる、でも一般的な表現を訳してもらいたい人たちはたぶん時代的に必要性が高くなってくることをヒントだけでも教えてくれなかったのではないかと感じるのですが、いかがですか? 一般的な単語を教えてくれないしその単語を使って簡単な表現を、日常生活に合わせた表現を教えないのは? 英語の授業で週一回でも算数の授業をするというのはいいアイデアかもしれませんね。 (ただ質問とは関係なくなってしまいます) となるとまた教育システムの話題になってしまいますね。 ありがとうございました。

回答No.5

はじめまして いつも分かりやすいご回答に感心しておりました。 >それとも実際に関心がないと言えるのでしょうか。 あるかないかでは、関心がないのでは。 日本で普通に生計を立てる上で英語の重要度が理数系の科目と変わらないほど低いからではないでしょうか? >もしいえるとしたらなぜ関心がないのでしょうか。 私の環境から関心がない理由を。 私が在職している企業は、従業員2万人に弱ですが、日常的に英語(会話も含めて)が必要な社員は100名位、簡単な英文メールのやりとりや論文を読むなどの能力(現在の英語教育で十分)を必要とする社員は2~3000名程です。他の社員は英語を必要とはしません。私が勤めてる企業の例ですので全く比率が異なる企業も多いかと思いますが、私が感じるには、日本の平均的な企業としては英語に触れる機会の多い方かと思います。この社会システムを考えると、英語の必要性は数学や物理化学と同じ位少ないのではないでしょうか。その結果が、日本の英語教育に大きな変化を生じない要因であるように感じます。と言いますのも会話を重視した幼児からの英語教育となると莫大な数の教員が必要とされ、その予算を考えただけでも実現不可能な事と感じてしまうからです。 >「日本の英語教育は読み書き重点」と言いながら「卒業生の多くが読み書き出来ない」 >文法がどれだけ大切なのかを「説得」してください。 上記に書いたとおり(読めませんが)完璧ではなくとも訳し文章の意味をとる事は出来ます。試験に出る難解な文法は私もコメントできませんが、文法知識で論文を読む(訳す)事が可能な状況です。これは教育の成果と感じます。 >これは私の無知から来るものなのでしょうか 失礼ですが、私は研究職なので日常的に理数系の能力が必要とされますが、Ganbatteruyoさんは必要とされますでしょうか? もし、必要とされないのであれば、それこそが日本の教育の根底であり、英語はやはり特殊能力の一部なのでは。 英語を話せる事に越した事はない程度では、そう簡単に教育システムは変わらないと思います。大学まで日本語で受けられるような国ですので。 一ヶ月程度ですが、南アフリカに滞在した経験があります。ご存知の通り、歴史的に色々あり、貧富や教育の差は地球を凝縮しているような国です。公用語は英語ですが実際に英語ネイティブは低くアフリカーンや各種民族間の言語が主です。しかし、「英語を話せない=バイトにも就けない」が成り立ち、若い世代は英会話学習が必須です。その状況が日本ではとても生まれるとは考えられません。繰返しになりますが、大多数の人が英語を必要としていない事実が日本にあると言うことです。 >「日本人留学生の英語文法の成績は抜群」でもコミュニケーションは出来ないのは文法と表現力とは無関係 否定的な意見を述べてしまいましたが、私の自信は「何故、英会話を教えてくれなかったんだ」です。 ですから、教育のあり方としては、義務教育までは現在の英語教育でも「可」かと思いますが、それ以上は「英会話」を必須科目に取り入れる時期とも感じております。 いきなりこんな回答で申し訳ありません。

Ganbatteruyo
質問者

お礼

はじめまして!! ご回答ありがとうございます。 >いつも分かりやすいご回答に感心しておりました。 もう少し日本語がうまく書ければいいと思うのですが。でもそういってくれて感謝しています。 確かに必要性を感じるか感じないかで大きく変わってくると思います。 しかし、どうでしょう、これからの時代で「英語くらいは」と言わざるを得ない生活環境がすでに作られ始めているのではないではないでしょうか。 私は今になって中国とのお付き合いが仕事上浮かび上がったのは、やはり時代の流れと言うものがあり、もう少し若かったら中国に2-3年駐在してもいいとまで考えています。  20代、30代の人たちは今学校を卒業して実社会で活躍されている方々で英語がもっと出来たらなあと思っている人は多いと思います。 若い人たちはもっとその必要性を実生活で感じているのではないでしょうか。 その実生活において、20年前の周りの人たちで英語を片言でもしゃべれる人と、今の時代での状況とはすでにはるかに違う環境にいるのではないでしょうか。 実生活とは仕事だけでなく、ネットを使って物を買うなんて誰が考えたでしょうか。 誰がこれほどの多くの外国人の方たちが日本にいるようになったでしょうか。 英語が入った歌も、英語圏の雑誌・新聞も想ですね。 20年前に誰がTimesを読みたいと思ったでしょうか。 ほんの一部ですね。 >大多数の人が英語を必要としていない事実が日本にあると言うことです。 あきらめ、経済的余裕がない、時間的余裕がない、仕方ないか、ということなのではないのかなと私は感じているのです。 もし彼らが学校での英語教育が「全国日本人50%が片言が使える」と言う状況を作ることが出来たらどうでしょうか。  俺英語わかるけど関係ないや、と本心で言える人(女性は私英語わかるけど、となりますが<g>)のほうがまれなのではないでしょうか。 事実今英語を使える人たちが受けている恩恵をその人たちは「利用価値」を認めないでしょうか。 試験だけに通用する文法、が私はネックになっている(ネックのひとつ)と考えもしかしたら違う考えもあるのかと思い書かせてもらったわけです。 ありがとうございました。 これからもよろしくお願いいたします。

  • new_hope
  • ベストアンサー率49% (513/1032)
回答No.4

おはようございます。 質問者さんが上げたいくつかの項目には僕も思うところがあります。 ただ、矛盾と言えるようなところは僕には特に見当たらず、また英語教育の問題点に関してもそれほど関係無いように思いましたので、そこについてまず述べさせて頂きます。 1)「文法的には正しくないけどアメリカでは一般的に使われている」 言葉は生き物ですから、日々新しい単語が生まれたり、形を変えたりしていきます。それが必ずしも文法のルールに従っているとは限りません。また、そういう言葉がリアルタイムで日本に伝わってくるわけでもありませんし、そこまで覚えようとしたらきりがありません。習ったはずの文法的と見比べて正しくないはずの言葉が普及しているのはよくあることです。なにも矛盾など孕んでいないように思います。 2)「文法的には正しいけどネイティブだったら使わないでしょうね」 言葉は文法が全てじゃありませんから、流行や微妙なニュアンス、口語と文章の違いなどもあって、実際には相応しくない言い回しなどいくらでもあるでしょう。日本語だってこんなのいくらでもあります。「カレーは私にとって美味です。」こんなの文法的に正しくても日本人は誰も言いません。こういう微妙な部分は、習ったことを踏まえながら自分で学ぶものです。矛盾とはいえない気が致します。 3)「文法は大切」と言いながら「あまり文法にこだわらないほうがいい」 これも矛盾してません。「大切なものと言えど、それにこだわりすぎるのはよくない」というのは、どこかおかしいでしょうか? 「お金は大切と言えど、あまりお金にばかりこだわらないほうがいい。」 「仕事は大切。でも、仕事のとこばかり考えているのはよくない。」 これらと同じで当たり前のことです。 4)「アメリカ人の文法はひどい」と言いながら日本人の国語文法のことは無視 こういう声が上がるのは、自覚して文法を習ったか自然に習得したかの違いによるものだと思います。英語ネイティブにとっての国語とズレた英語を使う人も多いでしょうけれど、普及している言葉を本人たちが気にすることはないでしょう。英語を作り上げているのは英語圏のネイティブですからね。気にするのは文法を厳密に学習した外国人、つまりこの場合日本人だけです。一方日本人も同様に文法的に正しいとはいえない日本語を使いますが、問題なく使っている自信がある以上は、取り立てて気に留めないのも当然と思います。いくら本来の文法に合わなくても、日本人みんなが使えばそれは立派な日本語なわけです。 5)「日本人留学生の英語文法の成績は抜群」でもコミュニケーションは出来ないのは文法と表現力とは無関係 これはこの文章の意味がちょっとわかりにくいですが、少なくとも文法と表現力は無関係ではありません。 度胸があれば英文法などせこせこやらなくてもコミニュケーション取れると言うい人もいますが、カタコトの外国人の立場に甘んじているだけで、結局は文法力が無いゆえに相手の理解力に助けられているだけです。 ネイティブではないから、という甘えが認められない状況、例えば論文を書く場合、専門分野の話をする場合、相手がクライアントだったり抜き差しならない時など、正しい言葉を使えず中途半端な英語で押し通すのは無謀です。公式の場やビジネスにおいては、「自然だけど正しくない英語」より、「少し不自然だけど文法的に正しい英語」のほうが間違いもトラブルもありません。 6)英会話に対して「日本の英語教育は読み書き重点」と言いながら「卒業生の多くが読み書き出来ない」 できないのではなく、やらないといったほうが正しいでしょう。英語で論文を書いたり新聞を読む程度の文法は十分に教わってますが、使わなければ当然忘れていくだけです。教えることを教えられたら、あとは個人が必要に応じて英語を読み書きすればいいだけだと思います。 以上の理由で、やはり僕も質問者さんがあげたこれらの点にはそれほど関心はありません。 試験に出る文法と、実際に使える文法とを分けて教えないのは、単にそれが無理だからではないでしょうか。英語教師や教科書が、日々変わっていくネイティブの英語についていけるはずもありませんし、そういう能力のある教員を必要数育て上げるのも難しいと思います。また、口語と文章の上での言葉でも違いがあるので明確な線引きはないでしょう。日本語でさえそうではありませんか? ところで、質問者さんの上げられた点の中で6番目には少し思うところがあります。 会話が大事だ、いや文法が大事だ、などと日本の英語教育に関する批判や議論はたくさんありますが、僕としては会話だとか文法だとかの違いははそれほど大きいとは思っていません。足りないのは使わせる機会だと思っています。 コミニュケーションの本質は自分の考えを相手に伝えることと、相手の考えを理解することなわけですが、日本の英語教育からはその本質が抜け落ちています。 文法だの会話だのにばかり目が行って、なぜその本質に誰も注目しないのか不思議でなりません。英会話の授業が少ないと言われてますが、挨拶や日常会話などいくら増やしたところで無意味でしょう。形式的な日常会話など暗記で十分ですし、宿題で覚えさせる程度でも十分だと思います。文法に関しても空欄埋めや書き換えなどの基礎ばかり徹底していますが、最終的に「英語を使わせる」という一番大切なところに行き着いていません。 例えばですが、会話ならスピーチやディベートを導入したり、英作文にしても絵本やエッセイを書かせるなど、あくまで教科書ではなく「生徒に主張を考えさせ、その内容を英語で表現させる」というところに到達させれば、少しは日本人の英語は変わるのではないでしょうか。結局英語を学んで何をするかと言えば、文章会話に限らずそうやって意思伝達し、コミニュケーションを計るためなわけですからね。 また理解力に関してですが、洋画や洋楽が好きな生徒は英語の成績も伸びる傾向が高いです。聞きたい内容、理解したい内容であればいくらでも覚えられますからね。そういうコミニュケーションにおける重大なヒントを、生徒個人の趣向の違いとして軽視しているのも問題です。 毒にも薬にもならないような、くだらない「アメリカの文化」みたいな教科書読まされても、一体誰がそんなもの読むために英語覚えたいと思うでしょうね。頭にもはいりません。生徒を引き付ける重要性に気づけば、教材にも改善の余地はいくらでもあると思います。 言葉を学ばせる上での本質的な部分の改善が、英語教育には一番大切ではないかと考えています。

Ganbatteruyo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 1)2)ですが、新しい表現を、ないし表現方法を学校で教える文法の中に取り込むのは至極の技だと私も思います。 私が言いたかったのは、誤解なされたかもしれないので、長い間一般的に使われている表現方法のことです。 I ain'tとかHe don't doと言うようないまだにこちらでも「正しい(社会)文法」としては認められていない表現の文法知識のことを言っています。 確かに改善はされていますが、全国一貫しているとはいえないレベルですね。 これは、新しい表現方法に「追いつく」のではなく、実際的には「改善」であり、全国一貫して教育方針としてすることは出来ると思います。 3)も必要のない文法項目があるように思われるのです。 こだわらない、と書きましたが、試験には必要だけど、と言うフィーリングがこもっているように私は理解してきたのです。 この点ご意見いただければうれしいです。 4)で >いくら本来の文法に合わなくても、日本人みんなが使えばそれは立派な日本語なわけです。 と私も感じています。 母語でない限り文法は「意識的」に使わなくては身にはつかないと私も信じています。  これは5)につながるわけですが、表現力につながらない、教養以上の文法(試験文法と私は読んでいるわけですが)が本当に必要なのか、と言う部分で私の理解が足りないのではないかと思っているしだいです。 >そういう能力のある教員を必要数育て上げるのも難しいと思います。 難しいと言うことは私自身が指導できる指導員の養成と言う事を私個人の人生の一部としてきて身にしみて感じていることなのです。 しかし、難しいからしない、ではなく、難しいからそれを出来る教師の養成が必要なのではないでしょうか。 大学での教育学科にそれを求める権利が親御さんにはあるのではないでしょうか。 (補足に続きます)

Ganbatteruyo
質問者

補足

<お礼からの続きです> これほど、実際に英語に携わったりバイリンガルと言うような他も認める肩書きを持っている人たちが増えたにもかかわらず、表現力と言うものを実際に使わせて育てる教育は出来ないはずはないと思いますし、それを目標として教師養成をする必要があるわけですね。  こう書いてくると、本題からそれてしまいそうですが、結局は私の愚問は教育改革を目指す必要性を感じていると言うことなのかもしれませんね。 >言葉を学ばせる上での本質的な部分の改善が、英語教育には一番大切ではないかと考えています。 今の教育方法を妥当化するのではなく、と理解してよろしいのでしょうか。 ありがとうございました。 これからもよろしくお願いいたします。 

noname#42396
noname#42396
回答No.3

ごめんなさい。 #1です。もう一つ書いておきたいことがありました。 4)「アメリカ人の文法はひどい」と言いながら日本人の国語文法のことは無視 これについてです。 実際、アメリカ人の文法はひどいと思います。 また、日本人の国語文法がひどいことも事実です。 理由は至極簡単で、両者とも「文法」を自覚していないからです。 唯、自覚していないというだけで、 感覚的に「文法」を体得しています。 少なくとも、「どんな表現が間違っているか」は かなり高い精度で(無自覚だとしても)体得しています。 先ほど、 読み聞くという「受信型の勉強」と 書き話すという「発信型の勉強」というふうに書きましたが、 日本人が苦手なのは特に「発信型の勉強」だと思います。 「受信型の勉強」を通じてこれを磨いていくことも 可能でしょうが、 ネイティブとの会話を通じて 「なにが間違っているか」を確かめ、 常に自分にフィードバックしていくことが大切だと思います。 そのためにも、 失敗してもくじけない、 失敗しても笑わない、 そんな環境が大事なのではないでしょうか。 私はそう思います。

Ganbatteruyo
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 はい、私も使われている表現を使われている文法で作ろうとする発信型の勉強が実は私がここで5年間書いてきたことなのです。 そして、ネイティブチェックをしなくてもいい環境を支えることの出来る英語教師が必要なのでないでしょうか。 そして、試験での完璧性を教え込んで失敗を恐れるような性格を生徒に植え付けるのではなく、発明の王とも言われているエディソンは失敗なくして発明は存在しないと言う考えも紹介し、おっしゃられた、 失敗してもくじけない、 失敗しても笑わない、 環境を英語教育の場に作り上げることも教育改革の課題だと私は信じています。

  • taked4700
  • ベストアンサー率37% (777/2050)
回答No.2

こんにちは、Gさん。お久しぶりです。 なぜ、日本の英語教育が余り使い物にならない文法偏重か、その理由を知りたいと言うことですよね。 自分もずいぶんそれについて、この10数年、考えてきました。そして、行き着いた答えは、たぶんに政治的なものがあるのではないかということです。それも日本国内の独自の事情というよりも、少なくとも今は、国際的な、地球上の国々全体をコントロールしようと言う意思の元に行われている政策的なものの影響を感じます。もちろんそれに対抗しようと言う勢力と言うか、努力はいろいろなところで行われていて、そのひとつがGさんのここでのご回答だと思っています。 自分がそう考える理由を次に書きます。 1.英文法のほとんどは非常に簡単で、かつ感覚的に理解できるものであること。これは、次のような自分( taked4700 )が行った投稿ですでに証明されていると思います。 たとえば他動詞と自動詞の区別( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3094481.html ) や、a boy swimming in the river とか a boy good at playing tennis など言い方、または「非常に背の高い少年」と言う場合、a very tall boy か a boy who is very tallか、どちらが普通の言い方になるかの判断であるとか( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3108036.html ) 、または、使役動詞の構文で補語の部分に動詞の原形が来るのかto不定詞が来るのか( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2197891.html )、また、動詞の目的語にto不定詞をとるのか動名詞をとるのかthat節を取るのかなどについての説明である目的語駆動力と言う考え方について(1)から時制の表現とその意味について(前置修飾の意味)までの9回にわたる投稿((  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3092547.html )から( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3132204.html ) まで)など。 2.しかし、上にあげた自分の投稿のような説明は、まったく教科書でされていません。上のような文法的な事柄が感覚的に理解できることは、これらの自分の投稿で、十分に証明されているはずです。しかし、これらの投稿も、非常に不思議なことに、ほとんど反応がなく、無視されているようなものです。 3.無視については、新英研という日本国内の英語教育に関するかなり良心的な民間教育団体のサイト( http://plaza.rakuten.co.jp/shineikenkngw/bbs/#200710092134144750 )でも変わりません。自分の目的語駆動力についての投稿にまったくレスがつきません。 4.これらの自分の投稿にまともなレスがつかないのは、基本的に、英語を始めとした各教科の勉強を、一面、生徒、つまりは、若い人たちをふるいわけ、権力に都合のいいものたちだけを拾い出すための道具としているからだ。わざと理解しにくい形で教科書にして、落ちこぼれを組織的に出す仕組みを作っているからだと感じています。 5.これらが組織的に行われていたもっとも大規模で分かりやすい例が、セサミストリート ではないでしょうか。いかにも良心的な番組でしたが、フォウニクスに取り組むなら、もっと組織立ったやり方が出来たはずですが、単に細切れの教材をシャワーのように浴びせるという方針で作られていました。日本で見ていた人たちの多分1割もフォウニクスの初歩理論に気が付かなかったはずですし、アメリカ国内の人々もあの番組だけでは同じような状況であったはずです。 6.まったく事情は異なりますが、英語が市民を選別するために使われているのと同じような、真実がごまかされている例をあげます。ひとつは、日本で発生している銀行のATMを重機で壊して現金を盗む犯罪です。アメリカ国内のATMはひどい揺れを感知すると特殊なペンキを紙幣に吹き付ける装置がついていて同様な犯罪はすでに10年近く前になくなっているはずです。しかし、そのことは日本の警察も銀行も知っているはずなのに、依然として何ら防犯措置がとられていない。同じことは振り込めサギについても言えて、現金を引き下ろしに来る犯人の、防犯カメラの映像はまったく公開されていない。毎年全国で300億円ほどの被害があるのに。 まだ、未完ですが、この辺でやめておきます。

Ganbatteruyo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 本当にお久しぶりですね。 (帰ってきてくれてうれしいですよ) 英語教育改革には教科書も「押し付けるのではなく」「考えることの面白さを感じさせる土台作り」「教えるのではなく習えるようにしてくれる」習得書に変えたいですね。 私は使われている文法は実は非常に簡単なものだと考えていますので、 >1.英文法のほとんどは非常に簡単で、かつ感覚的に理解できるものであること。 を実感として感じていますし、出来るだけ私からの文法説明はそのようにしていますが、専門用語をふんだんに使わないと文法ではないと言う環境がいまだに崩れていないように思われます。 よって、特にまだ英語道の道を歩みはじめた初心者には価値が見えないのでしょう。 仕方ないとは思いますが、土台を土台から作り直す事をこの40年日本では行われていないのですね。 政治家が持つ「恐怖」なのでしょう。 わざと文法をわかりにくくしていると言う事実はこれからは常識として認識されていくと思います。 ただ全国的な一環とした常識にするにはやはり教育改革が必要なのではないでしょうか。 表面だけ変えても政治家さんは根本的な理解をもたないのか(英語を使えない政治家さんじゃ無理でしょう)、矛先を政治力で違った方向に向けさせているとしか思えないのは理解できます。 わかっているのにしない、これほど「詐欺的」なものはないのかもしれませんね。 ありがとうございました。

noname#42396
noname#42396
回答No.1

Ganbatteruyoさんのご意見で いつも勉強させてもらっているものです。 ご参考になれるかどうかわかりませんが、 私なりに協力させてください。 まず私は、英文法というものをかなり重視して勉強してきました。 きっかけはよく覚えていません。 学校の教育カリキュラムで 最初から英文法に重点が置かれていました。 それから、まず標準的な単語を覚えさせられ、 あとは多読・多読・精読・多読と読み込まされました。 復習法は主に音読か、CDの利用か、書きなぐりでした。 多くの進学校は、多少の差はあれ、 このようなカリキュラムだと思います。 私の学習歴はこんな感じですが、 私は決して英文法を卑下していません。 むしろ、英語が母国語で無い人には必須だと思います。 しかし、日本人の学習は異常なくらい 「文法の用語」に執着しすぎているとも思っています。 例えば、あの仮定法とかへのあくなき探究心が どこからでてくるのか不思議です。 そうかと思うと英文法はまったく不要という人もいます。 どちらのスタンスをとるにしてもその人の勝手ですが、 1)「文法的には正しくないけどアメリカでは一般的に使われている」 2)「文法的には正しいけどネイティブだったら使わないでしょうね」 という、どっちつかずの対応が私は大嫌いです。 唯、これについては分かる気がします。 3)「文法は大切」と言いながら 「あまり文法にこだわらないほうがいい」 ガチガチにsyntaxにこだわれば、 逆にsyntaxだけにかたよる危険性がわかってきます。 そのせいで、より細分化された英文法の世界に 引きこもってしまうひともいますが、 逆に自分のスタンスを対象化しようという人もいます。 自分もそうならないように、常に自分に言い聞かせています。 (それでもsyntax寄りなのは間違いないですが) 日本人はよく、読み書き・聞き話すを分けていますが、 私はむしろ、 読み聞くという受信型の勉強と 書き話すという発信型の勉強に 分けるべきだとおもっています。 そうすることですぐさま問題が解決できるとはおもっていませんが、 少なくとも問題意識を共有するきっかけに なりうるのではないでしょうか? べたな意見で申し訳ありません。

Ganbatteruyo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 こんなに早くご回答をいただけるとは思いませんでした。  私自身も実を言えば英文法と言うものを「鵜呑みにして」覚えた生徒の一人です。 文法と言われて習ったものが、どの辞書も、どの参考書もそして、どの先生も(一人個人英語塾の先生を除いて)みんな同じ事を教えていたわけですし、その頃は「本に」書かれていれば「ほんに、正しい」(駄洒落でした、ごめんなさい)、間違ったことではない、これを知らなければ英語を知らないと判断されていたのです。 つまり、辞書に書いてある、参考書に書いてある、英語の先生がおっしゃった、の一言が絶対的な「正しいと証明する証拠」だったわけです。 (今でもそれをする人は残っているようですが) 非常に楽でしたよ、言ってみれば。 私のような「邪推」を促すような人間はいなかったし、事実今みたいに実際の英語に、インターネットやネイティブで、接することなんてなかったわけです。  そして、話す・書くというものをただクラスで朗読し英作文をして、方道理の文章を作ればよかったわけですね。  しかし、受信型・発信型のお考え方が今必要だと言う理由は多くあると思います。  文法と呼ばれるものには試験文法と使える文法(この発信型に使えると言う意味です)とがあるんだという認識は必要ありませんか? 短いいわゆる青春時代を試験文法が必要のない人は勉強しなくても言い、とするか、はっきり、これは試験で点を取るには必要な文法です、と受験塾では言っているようですが、これは普通の学校では教えてはだめだと思いますか? これによって、試験文法と言うものに対しての認識と同時に、英語教育革命を引き起こす引き金にもなるでしょうね。 ありがとうございました。

Ganbatteruyo
質問者

補足

いま、帰ってきたのですが、この数時間ほどにこれほどレベルの高い回答をいただけるとは思っても見ませんでした。(今書いているのは#10まで読ませていただいています) この補足の欄をお貸しいただき今現在の私の感想を述べさせてください。 確か補足はすべての回答者に届きお礼は確答する回答者のみに届くこはずだと理解していますので。 まず、ご回答のすべてが単なる「誰かが言ったことを覚えた」物ではない、ご自分にはっきり感じ取っている考え方が実存していると感じました。 つまり、生半可な「文法の対する(文法に関するではなく)考え方を持っておられる、と感じました。 そして、私の考え方を見てこられてきた方々でも私の考えを「批判することなく」違う価値あるご意見をいただいていると感じています。 私の考え方とは違っておられる方もおりますが私は尊敬にあたると言っても過言ではないご意見だと感じています。(takedさんご自身もおっしゃられたときがありましたが、長い間その関係で私たちを支え育ててきた奥の深い間柄と感じております) そして、私には今後も皆さんと新しく作られていけたら、今まで書いてきてよかった、と必ず思わせてくれる人生の一ページが今日この数時間で開かれた思いです。  自分の考えを確実に持ったご意見は、違った考えであっても間違った考えではなくただ違う価値ある考え方に過ぎない、ある意味ではその違う考え方は自分の考え方への贈り物、と考えて生きてきました。 ご存知だと思いますが、私は日本の空手武道(と真剣での居合い道と)を人生の生きがいとし、また私の人生を作り上げて来た土台のひとつとしています。 しかし空手だからと言って、合気道や柔術などの他の武道や他の流派のしっかりした考え方は「私が死ぬ一瞬」で必ず同じものになる、と考えるのもご理解していただける物だと思っています。 このカテでの常連さんすべて、英語に関して関心のある方すべてがどんどん書いてくれる事を願って一応この補足は閉めさせていただきます。