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少年の凶悪性について
香川県で高1男子が同級生をなたで殴打、千葉県で中3男子が包丁で切り付ける、という事件が起きました。最近、このような短絡的とも思える事件が頻発しているように感じます。 少年達(一部の少年達)が、何かのトラブルで殺意を抱いた場合、 1.「キレル⇒我慢する」 2.「キレル⇒暴力」 3.「キレル⇒暴力⇒凶器を使った犯行」 4.「キレル⇒凶器を使った犯行」 というパターンが考えられると思いますが、どうも4のパターンのように、いきなり凶器を持ち出し、最終審判(殺人)を犯してしまう傾向が強く出ているように感じますが、なぜ、暴力を飛ばして、いきなり凶器での犯行を選んでしまうのでしょうか? 暴力を選択すると、後で復讐されるという怖れがあるため、最終手段であるはずの殺人を選択してしまう傾向が、少年の心理に働いているのでしょうか?(暴力と殺人とでは、誤解を恐れずに言えば、殺人の方が敷居が低くなっているように感じます) ゲーム世代、バーチャル世代という名が示すように、殺人の疑似体験が、殺人への容易さを醸成してしまっているのでしょうか? どうも、「頭に来たら、殺(や)っちまえ」という短絡的な少年達が少しずつ多くなっているように感じます。この懸念に対して、この心理が分かる方にご回答頂きたいと思います。
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- jdklliufeh
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コミュニケーション不足も原因かと思われます。 例えば、何か問題が起こると親が先回りしてそれを未然に防いでいたため、問題解決能力がない。または、核家族化が進み、親子や他人との会話が少なくなっている。テレビやゲームもコミュニケーション不足の一因かもしれませんね。 本来なら「キレル→我慢する→言葉で相手に伝える→暴力」ではないですか? 事件を起こした後でさえ、犯人は動機をちゃんとした言葉で言ってませんよね。暴力的な人は、言葉のコミュニケーションが苦手な人に多いと思います。 言葉は人間の特権ですから、もっと言葉で分かり合えるはずなのに、その方法が分からないのは残念です。 キレてすぐ暴力に訴えるのなら、動物みたいですね。
- aho0xff
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再度です。 一時期、TVを中心としたメディアが、いわゆる「ゲーム」「アニメ」「オタク」 の人間をバッシングしていた時期がありますよね。あの考え自体がとても嫌いなのです。 あの報道の仕方は、子供に、ゲーム好きはおろか、容姿、性格的に「オタク」と 言われやすい子供を「犯罪者」だからと言ってイジメを正当化させてしまう「理由」を 与えてしまっていると思っています。子供は質問者様のように人と物を分ける事など 出来ないです。虐められた人間はその過去は引きずります。そうそうそれを乗り越えられる 人間などいないです。「人を否定」と書きましたが、イジメのことです。 大人が率先してあんなバッシングしたら、子供はもっと分かりやすい形で身近な 人間に対して同じ事をすると思えるのです。 そしてタバコの例を出していますが、私はタバコは吸わないのですが、 タバコが好きな人がタバコ規制に乗りざるを得ない理由は「実感」が あるのだと思っています。つまり「本当に健康に害がある」という「実感」です。 「経験」があるはずなのです。タバコ吸っている本人が、もしくは周りで タバコ吸っている人が本当に健康を悪くした経験が・・・・ でもゲームに関しては「ゲームをやるとキレやすい」と言う実感が 無い人がいると思うのです、周りを見ても当てはまる人当てはまらない人「キレる」人だけでも ゲーム好きな人、やらない人、ゲームを馬鹿にする人様々です。 少なくても私自身はともかく、周りの人間でゲーム好きでキレやすいと私が思える人間は いません。だから私自身、ゲームは害であるってどんなに専門家にそういわれても 実感が無いので納得できないのです。ゲームを好きな人が必ずしも ありていに言うオタクの典型なわけないです。それは戦闘や残虐表現の激しい物だって 同じことです。 実感が無いからこそ、ゲームに原因が・・・と言うのはタダのイメージの決め付けで しか物を言っていないように見えてしまうのです。 だから私個人は「自分たちがよければいい」とかではなく「何故そこまでゲームを嫌うのか」 が分からないし、納得いかないのです。 まあ話がずれてしまうのは申し訳ないですが・・・・まあ、視点が全然違うのでしょうね。
お礼
回答ありがとうございます。 私も学生時代、一時期ゲーム機に填り、夜な夜なクリアする為だけに、時間を過ごしていた時期もありました。そして、アニメも大好きだったので、様々なアニメ雑誌を買い込み、見ては喜んでいたものです。また、漫画も大好きだった時期があり、少年誌、青年誌を読破していました。いずれも、現在は、嗜好の対象からは、少しズレてしまったので、全盛期に比べると、大幅にトーンダウンしている感があります。 ですから、ゲーム好き、アニメ好き、漫画好きの方の気持ちがさっぱり分からないという事はありません。敢えて、過去に恩恵を受けていたモノであっても、次世代の子孫にとって、負の遺産になりうるものなら、真摯に対応しなければならない、と考えているから、問題に挙げているのです。 パチンコも一時期填りました。思考は停止していたように思います。ゲームもクリアする為に、ある一定のパターンを覚える以外は、思考停止で楽しめると思います。この思考停止を1日のうちで多くを占めること、あるいは、日々連続的に行われる事に対して、少し危険性を感じています。 自分を自分の言葉で、相手に伝える、思いをはっきり主張する、ことが困難な人達が少なからず増えている中、それは、人とのコミュニケーションという修羅場から逃れ、安易な世界に逃げ込む傾向から、起きているのではないか、と想像しています。 うまく自分の主張を伝えられない、一言二言ことばで、露骨に伝えることで、相手にぶっきらぼうな表現と取られ、不快感を買ってしまう、という摩擦を経験してしまうのは、ゲームとの相関関係を考えてもいいのではないか、と思うわけです。(続く)
補足
(続き) ゲームの世界は、現実逃避の場、とも考えられます。厳しい現実社会から逃れたい、家庭不和から脱したい、職場・学校から解放されたい、不条理な社会を忘れたい、等々、安全地帯としてのゲームの世界なのだと思います。 そういう意味では、これだけ厳しく混沌として生きづらい社会を作ってきた我々大人世代の責任、怠慢だと言えます。 見解の相違だという点は拭えないと思いますので、ゲームについては、個人的に調べたいと思います。ありがとうございました。
- gohara_gohara
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No.6です >定性的に見ても、やはり杞憂に過ぎない、と判断されますでしょうか? はい、その通りです。 そもそも「短絡的な事件」とは一体、どういうものでしょう? どのような基準で、「この事件は短絡的」、「この事件はそうではない?」と判断するのでしょうか? 同じようなことは「人間の質」なんていう部分に対してもいうことが出来ます。基準そのものがそもそも曖昧なものを前提にしても、議論は何も出来ないのです。まず必要なのは、定量的な部分から考えるべきだと思います。 そして、私が一番拙いと考えるのは、それを無視した印象論がはびこることによって悪循環をもたらしてしまう、と言う点です。 例えば、「近所の人にあったら挨拶をする」。これは、一般的に「良いこと」とされているものだと思います。 しかし、昨今の定量的な議論を無視して「子供の誘拐が増えている」だとか、「少年がすぐに暴れる」などと言う言説が広がったことで、それをしづらい土壌が形成されてしまっています。 これは大阪であった事例です。繁華街で寄り道をしていた少女に「こんなところで遊んでいてはいけない。早く帰りなさい」と注意した中年の男性がいました。この男性のしたことは、褒められることでしょう。 しかし、昨今の不安を煽る言説によってか、この男性が「不審者である」と近隣の小学校などへの「不審者メール」として通報されてしまったのです。 こういうものが実際に起こっているわけです。 このようなものは、大人の側が不用意に子供に話しかけることを躊躇させてしまうでしょう。「今の子供は危険だ。すぐに暴力的に振舞う」などと言うのも、大人が注意をすることを躊躇わせます。 そして、このような形で接触がなくなれば、さらに世代間ギャップなどが大きくなり、相手が「モンスター」のように見えます。そうなれば、さらに「今の若者は危険だ」と言う印象を強くしてしまうことでしょう。完全な悪循環に陥ります。 最初に書いたように、「短絡的な事件」や「人間の質」などと言うものは基準からして曖昧です。見方によっていくらでも変化してしまう可能性を持っているものです。 そして、そこから出発し、その部分だけで統計的などを無視して「現在の若者は危険」などと言うのはこれまで書いたような形でさらなる悪循環をもたらしてしまいます。 その意味でも、私は定量的な判断を優先するのが当然である、と考えます。
お礼
回答ありがとうございます。 回答者様の基本的な考えについては、賛同できる面もあります。言われる通り、マスメディアで事件を無防備に喧伝する事で、二次的事件が起きているケースはあろうかと思います。事件を誇大に取り上げる事で、必要以上に恐怖を植え込まれ、周囲に対して疑心暗鬼になる人達が大量に増えている現実も疑うことができないでしょう。 私が感じている基準が、そもそも曖昧なのは、それは主観的な基準だからです。私の個人的な危機感から発した主観的感想が、短絡的な事件が増えていないだろうか、という事です。言われる通り、曖昧な基準で議論すること自体が空論であり、不毛なのかもしれません。 今、現在悪循環に陥っているとの見解ですが、この悪循環に対して、どのように良循環に変えていきますか?放置する事で、良循環は生まれるのでしょうか?それとも、放置しておけば、うまい具合に事態は収束するということでしょうか? ブログで、「灰色のベンチから」というのがあります。 http://futu-banzai.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_baf8.html この中で、少年2人が確執の上に、やり合う、寸前の実話が収録されています。この少年達の短絡的思考について、いかがお考えでしょうか?
- usokoku
- ベストアンサー率29% (744/2559)
>とは、どういう意味ですか? ネットでは見つかりませんでした。心理学関係の情報が古いので最近は言葉が変わっているのかもしれません。精神医療関係ですと大幅に言葉の見なおしがなされています。 学習心理の一般的内容をみていただいて、学習がどの様にして成立するのかを見てください。 http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/6gakusyu.html http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/gakusyuu2.html 学習内容として、水中迷路 http://kuni-tsurezure.at.webry.info/200709/article_6.html のような、高度な要求をした場合に、実験対象が「難しくて判断できない」ような状態になり、実験自体を嫌うようになりなります。過去の学習成果を否定するような行動(迷路から脱出できたのにできなくなり、過去の学習が使われていない等)を取ったりします。 サルの実験(何かの認識の実験)では、サルが暴れて実験ができない状態になりました。 これを「実験ノイローゼ」と呼びます。 学習心理学の入門書(最低でも大学教科書クラス)ならば載っているはずです。極端に高度な要求を行った場合には、発生するのが常です。 参考になりそうな内容としては http://www.president.co.jp/pre/20020304/03.html で「追込む事は危険」という状態は実験ノイローゼを発生する状態に有る・実験ノイローゼ予備軍と考えられます。
お礼
回答ありがとうございます。 なかなか難しい心理学ですが、参考にさせて頂きます。
- merimotti
- ベストアンサー率33% (92/275)
こんにちは。少し調べてみたのですが、「短絡的な犯行が、最近増えている」という前提自体を見直すといいかもしれません。 全てネットで調べたものなので、鵜呑みにするのは危険ですが、いくつか調べてみたところの感想は、「昔から短絡的な人はいた」です。 --------------------------------------------------------------- 下のサイトの犯罪件数のグラフはわかりやすいです。 http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html --------------------------------------------------------------- 下は、少年刑法犯、少年凶悪犯の統計です。 ほんとにここ10年ほどの範囲で見ると、増えたり、減ったりで、アップダウンの幅も少ないように思います。 統計によって細かい数字は変わってしまっていますが、全体の傾向はわかると思います。 http://ms-t.jp/Domestic-statistics/Data/Transition-statistics.html (これの、「少年犯罪」の表の、「少年人工割合(凶悪犯)」の数字の「20」「27」などは、それぞれ「0.020%」「0.027%」のことだと思います。) ------------------------------------------------------- こちらは、別のサイトの統計です。1950~1970年ごろには殺人事件がかなり多いですね。そこから比べると、最近はむしろかなり減っています。 http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Satujin.htm 下は同じサイトの、犯罪内容のうちわけです。 http://kangaeru.s59.xrea.com/toukei.html ------------------------------------------------------- また別のサイトです。 上のほうにある人の目もとの写真がちょっと怖いですが、下のほうにグラフがのっています。 http://pine.zero.ad.jp/~zac81405/juvenile.htm ------------------------------------------------ それと、明治時代にも「短絡的な」刺殺事件はあったようです。 http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/meiji/meiji33d.htm ------------------------------------------------ とはいえ質問は、「最近、短絡的な犯罪は増えたのか」ではなく、「なぜ、暴力を飛ばして、いきなり凶器~」ですよね。 素手ではかなわないと感じている相手にたいして、凶器をもちだすのだと 思います。実際には、男性が女性に対して凶器を使っている事件も多いですが、そういう男性は、普段からいろんな意味で、自分に力がないと感じているのではないかと思います。 ゲームが関係しているかどうか、ですが、個人的にはあまり関係ないと思います。むしろ上手に使えばストレス発散という意味で、犯罪が減るかもとさえ思います。まあ、何ごとも使いかたによっては毒にも薬にもなるということだと思いますが。
お礼
回答ありがとうございます。 貴重なサイトの紹介ありがとうございます。 素手でかなわないから、凶器を使って自分を防御する、という傾向ですかあ。その飛躍があるとすれば、なぜ?、と思ってしまいます。 凶器を使うという事は、最悪、相手を殺してしまう可能性があるという危険性に苛まれると思われるのですが、苛まれない心情に変化しているのでしょうか。なかなか、心理が分からないですね。
- dai-ym
- ベストアンサー率22% (848/3824)
ゲームやテレビ、アニメ、漫画などの暴力的描写が原因と言うのは少し疑問に思っています。 昔からヤクザ映画などありましたし、それこそ戦争の時期にこのような事件が多発していましたでしょうか。 問題は想像力の欠如が酷く、鉈で殴打したら・包丁で切りつけたら相手がどうなるかの想像力、またはそういうことで相手を傷つけ最悪相手を殺してしまったら自分がどうなるのか。 と言う想像ができなくなっている、または想像してもそれは自分の都合の良い想像で現実とはかけ離れている想像しかできないようになっているように思えます。 そういう想像力の欠如の一因にゲームやテレビ、アニメ、漫画などがあるとは思います。 昔物語を楽しむのには本か言い伝え。 これは言葉から人物や背景、動きなどさまざまなものを想像しなければなりませんでした。 これが漫画は絵になってしまい、想像する範囲が動きや音、においなどかなり狭くなりました。 テレビ、アニメ、ゲームでさらに狭くなり音も動きも想像する必要がなくなりました。 しかも今のこの手の作品は表に出ない設定なども公表されさらに想像する範囲が狭くなっています。 昔は楽しむには想像力豊かでないといけませんでしたが、 今は想像力などなく何も考えなくてもさまざまな娯楽が存在してしまっています。 そのために想像力が弱くなっているようには感じます。 かといって、この手のものをなくせばいいのでなく、他にもいろいろ想像力を発揮しなければいけないことをさせたり、 そのゲームやアニメなどについて友達やできれば大人とも話すようにしていくことが大事なんだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど、と思える回答で色々と考えさせられました。 想像力の欠如ですか。確かに、背景や情景、行間の意味を想像する場面は、現代社会ではなかなか得られない機会だと思います。テレビにしても、ゲームにしても、思考しているようで、思考していなく、ただ漫然と快感を得ているだけで、何も後には残らないように感じます。無思考を強要するモノと言えるでしょうか。 テレビ、アニメ、漫画、ゲーム、パチンコ、等は、確かに無思考を情勢する現代アイテムと言えると思います。
補足
>確かに無思考を情勢する現代アイテムと言えると思います (訂正) 情勢⇒醸成
- ben1151
- ベストアンサー率22% (153/681)
8さんへ ゲームとの因果関係は、述べましたが、すぐにとりあげるとか、そういった話では、ありません。 バーチャルの世界へ、行ったまま、戻ってこれなくなる、一定人数は、ゲームに限ったことでは、ないとわかっています。 私自身、また、子どもも、ゲームは、好きですし、帰ってこれれば、何の問題も、ありません。 私たちの世代は、漫画が、悪者にされました。 ただ、10000人に、一人くらい、バーチャルの世界へ、入り込んだまま、帰って来れない人が、いると、感じます。 この程度の割合では、誰が、どう、訴えても、ゲームの禁止には、繋がりません。 あなたは、いつ、どの瞬間でも、現実世界に帰って来られるので、何の心配もいらないと、思います。
お礼
回答ありがとうございます。 バーチャルの世界からの帰還が可能ならば、OKという考えは、その通りだと思います。 ただ、現実のリアルな社会があまりに不条理社会に化けつつあり、リアルな社会よりバーチャルな社会に住んでいた方が、生きやすい状況にあるのが、今の時代のような感じがします。 そういう意味では、この不条理社会を変える努力を我々大人世代が責任を持ってしなければ、と思います。
- aho0xff
- ベストアンサー率12% (218/1771)
はっきりと書きます。一人のゲーム好きとして、質問者様のように社会の問題とされる原因を ゲームが悪いという方向に持っていこうとする考えは正直理屈抜きで嫌いです。 例えそれが、本当は正しい事だとしてもです。ゲーム好きの人間の心のよりどころは ゲームです。それを否定する事はゲームが好きな人間は自分が否定されたのと等価に取ります。 「ゲームが無くなればいい=ゲーム好きな人間などいなくなってしまえばいい」 になっていませんか?自分達の正しさにかまけて他人を「人を否定」していませんか? そして「否定されている」と常に感じている人間の気持ちを考えた事がありますか? そしてこんな極端な考えが、子供に蔓延していたらどうしますか? 他人を否定する事でしかコミュニケーションを取れない子供がどうなりますか? そして他人に否定されつづけた子供はどういう行動を取ると思いますか? 正直私個人は質問のような考えこそ、質問者様の恐れる子供を増やしてしまう一因だと思えます。 例えこの回答が、単なるゲーム好きのだだっ子みたいな反論にもならないものだとしてもです。
お礼
回答ありがとうございます。 かなり反感を買ったことに関しては、お詫び致します。しかし、反感を買ったとしても、この質問の意義は否定されないものと考えています。どんな質問にも、賛成、反対、中立の立場があり、よほど偏向的な質問(主張)でなければ、即取り下げる必要はないかと思います。 回答者様は、理屈抜きと言われているので、感情的な判断をされていると思います。また、仮に、ゲームに問題があるという考えが仮に正しいとしても、ゲーム好きには到底受け入れられないという立場を取っていると解釈します。 ひとつ勘違いしないで欲しいのは、ゲーム好きな人間を排他しよう、という考えにはない、という事です。誤解を恐れずに言えば、ゲーム好きな人に客観的視点を取り入れてもらって、ゲームに関して冷静に大局的に考えて欲しい、というところです。 ですから、即、「自分達の正しさにかまけて他人を人を否定」という飛躍の論理にはならないと考えます。 ゲームの好きな人に対して仮に、ゲーム好きという一点で非難しても、それは、一側面の非難であって、全人格の否定には繋がらないことは理解できることと思います。ただ、非難される側が、ゲーム好きで非難されることは、全人格を否定されるのと同じ、という受け止め方をしていれば、回答者様のような捉え方になると思います。 人は、多面的な面を持っており、一面を非難されたかたと言って、それだけで人生が終わるということにはならないと思います。ただ、様々な面がある中で、宜しくない一面が全人格に悪影響を及ぼしていると断定されたならば、その一面については、改善する必要はあるかと思います。
補足
(続き) ゲーム好きな人間がいて、ゲームが作られた、のか、ゲームが作られてゲーム好きな人間が増えたのか、は、卵とニワトリの論理と同じように判断し難いのですが、ゲームに問題があれば、戦闘系のソフトだけでも一部制作中止を考えてもよいのではないかと考えます。 >そしてこんな極端な考えが、子供に蔓延していたらどうしますか? この意味がいまひとつ分かりません。自分が正しいから相手を否定していいという思想に対して、ということですか? >他人を否定する事でしかコミュニケーションを取れない子供がどうなりますか? 他人を否定する原因は何ですか? >他人に否定されつづけた子供はどういう行動を取ると思いますか? どういう行動を想定されているのでしょうか?(具体的に) >正直私個人は質問のような考えこそ、質問者様の恐れる子供を増やしてしまう一因だと思えます 頭にきたら、やっちまえ、という人間が増えてしまうという事でしょうか? 回答者様は、既存のモノに対して否定するな、というガチガチの考えの持ち主なのかな、と思います。悪い政治であっても、それは既存の政治家の利権の為に存在するのだから、国民がいくら嫌であっても否定してはならない、というのと似たような感じに受け取れます。 タバコ、酒の愛好家も、恐らく否定されることを嫌がっていると思います。しかし、ゲームとの違いは、タバコと酒は顕著に自分の健康に影響してくるという事です。死に直面した時、人は、嗜好してきたモノであっても止める決断ができます。しかし、ゲームに至っては、身体的な健康影響は顕著にでないので、ある意味、歯止めがかからない状況かと思います。 自分さえ良ければいい、という考えは、本来通用しません。他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい、という考えも、客観的評価を入れれば、迷惑がかかっていないと言い切れないものもあります。 他人への配慮、気遣いができない世代を大人世代が作ってしまうならば、それは、大人世代が責任を持って転換しなければなりません。なんでもありの風潮に流され、モラルも正しさも失われたならば、それは、人間として生きている意味はないと思います。 「○○好きの方」には、大変申し訳ないのですが、大人世代の責任を認識した上で、自分の利権だけにしがみつかず、冷静に判断して欲しいと思います。
- usokoku
- ベストアンサー率29% (744/2559)
心理で。、定性的に説明するのであれば 実験ノイローゼである の一言で住ませられます。 >少年の心理に働いているのでしょうか? 働きません。定性的に考えるのであれば、その場にたまたま合ったものを使うだけですから。 >まっているのでしょうか? 定性的に考えるのであれば、統計的にまったく意味のない空言。 カリに、誰かが調べて、「言いきれる」なんて研究報告をしても、心理の相関なんて、0.5異化でしょう、2回やって1回は異なる結論がてる心理学の研究成果なんて、まったく意味を持ち増せん。 >この懸念に対して、 心理を研究する人を眺め、心理における統計処理を定性的に缶がえれば、そんな下らないことなんて、考えるほうが無意味。もともと、危険率90%検定すら有意にならない分野ですから。 「心理」は「心理学」の略号として回答しました。
お礼
回答ありがとうございます。 >実験ノイローゼである とは、どういう意味ですか?
- gohara_gohara
- ベストアンサー率37% (573/1517)
まず、少年による凶悪犯罪そのものは、戦後一貫して減少しており、それは現在でも全く変わらない、ということです。 人口比で換算すると、一般的に殺人率の高い20代よりも、50代の方が殺人率が高い、と言うのが現在の日本の現状に成ります。質問者さんの仰るような感想を抱く人が多いのは、そのような中、稀に起こる重大犯罪を事細かに報道されるようになった、と言うことが原因です。 その上で… >どうも、「頭に来たら、殺(や)っちまえ」という短絡的な少年達が少しずつ多くなっているように感じます。 と言う部分に関して言うと、そのような過度に少年を「凶悪な存在」と見ることにより、大人の側が判断を放棄してしまっている為だと思います。 いつの時代であっても、短絡的な人は存在しますし、それによって犯罪を犯す人もいます。 例えば、質問者さんは「ゲーム」「バーチャル」が「殺人への容易さを醸成してしまっているのでしょうか?」」と仰っていますが、その昔は、「テレビ」であるとか、はたまた、「映画」であるとか、はたまた「小説」であるとかによって、子供が凶悪犯罪を犯すようになる、という意見が多く見られました。現在、東京都知事として「青少年健全育成」に取り組んでいる石原慎太郎氏ですが、彼の書いた『太陽の季節』は、「子どもを暴力に駆り立てる俗悪本」と極めて強い批判にさらされました。現在のテレビゲームなどに対する批判も同じ流れの中といえるでしょう。 人間、自分の知らないものに対しては恐怖心を抱くものです。そして、恐怖心を抱いたものは調べたりせずとも排除すれば良い、と言う風に動くことも多くあります。 このような心理と、冒頭で述べた統計などを無視した報道の印象によって、過度に子どもを「脅威」と感じることが、子供が短絡的な犯罪を沢山行っているように感じてしまう理由ではないでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 gohara_goharaさんが言われるように、私がある種、メディアの扇情的な報道によって洗脳されている部分はあるかと思います。あるメルマガの作者も、統計学的には、少年凶悪犯罪件数は、今の50、60歳代が断然多い、という数字を出しているとのこと。確かに、統計学的にはそれが真実であり、必要以上に今の少年が危ないと懸念を示すのは、判断放棄と言われても仕方がないと思います。 昔⇒本、漫画、テレビ、映画 今⇒本、漫画、テレビ、映画、ゲーム(戦闘もの)、ネット 仮に、少年が享受できるメディアを上記と仮定した場合、「連続性」について考えることとします。本、漫画、テレビ、映画については、繰り返し見ることは少なく、連続的に読み返したり、同じ場面を見返したりすることも少ないと言えます。ゲームはどうか、というと、これは、同じソフトに対して、連続的に行う場合が多いと思います。繰り返し繰り返し、脳裏にまで刷り込むように、体得するように機械的に嗜好するものだと言えます。これは、私の一面的な見方です。 時代性の違いも考慮に入れるべきとは思いますが、ゲームの怖さは、隔離された空間で、自分が主人公として主体的に、好きなように行え、好きなだけ時間をかけて行える点だと思います。自分の裏の顔を思う存分さらけ出した上で、無思考状態の中で、バーチャル体験を連続体験し、連続インプットを可能にする嗜好の一時。 統計上は、確かに言われる通りでしょうが、人間としての質がどうも悪くなっているように感じます。定量的には、増えていない、しかし定性的に見ると、問題視せざるを得ない、という観点で、今の時代を見ないと、日本が住みにくい社会になるように感じます。
補足
(続き) 規制緩和、多様性の概念、個性重視により、なんでもありの風潮、注意・指摘がタブー視される社会に変貌し、反省できない人間が残念ながら蔓延しつつあるように感じています。電車に乗ると、下にべたっと座ってしまう、タバコを制服着てても吸う、高校生、という点だけでは判断できませんが、大人世代の怠慢で注意・指摘しなくなったことで、自分を省みる機会を確実に失っていると思われます。(もし、少年に異変が起きているとすれば、それは我々大人世代の責任である、という考えを持っています。排除すればいいという短絡的な考えはありません。) 定性的に見ても、やはり杞憂に過ぎない、と判断されますでしょうか?
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お礼
回答ありがとうございます。 少子化も含めて、親が過剰に過保護になってきたのは感じます。 我慢ができない、言葉でうまく伝えられない、というのは、己を知らないからだと思います。己知らずで人生を歩んでしまっているので、いざという時、表現できなくなっているように感じます。