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「いじめ」と「仲間はずれ」はセットなんでしょうか
私の体験です。小学校6年のとき転校して、ほとんど友達ができずに一年苦しみました。しかし、積極的に「いじめ」というものを受けずにいたので、その認識もなくいました。しかし、これも一種の「いじめ」なのでしょうか。能動的いじめでなく、静的いじめというか。 一般に「仲間はずれ」と「いじめ」はセットなのでしょうか。別物なのでしょうか。人気者でかついじめの対象になっている子なんていうのはいるのでしょうか。
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いじめは基本的に支配と排斥の2要素に分かれるように思います。 静的いじめは一種の排斥に分類できると思いますが、積極的な無視などはこれに該当するでしょう。 この場合の「積極的」とは、いじめ(無視)をすることによっていじめる側が何らかのメリットがあると認識している場合です。 そうでなければ単に一人でいるのが好きそうなのであまり構わないほうがいいかな・・・、あるいは敵意を感じるわけではないが何となく近づき難い、というパターンもあるように思います。 どちらであるかは文面だけからはわかりません。 こういった点について以前ブログにまとめたものがありますのでお目汚し程度ですが下段に記しておきます。 何かのご参考になるようでしたら幸いです。 (大多数には)人気者だが(ある特定の者たちの)いじめの対象になっている子、というパターンもありそうです。 子供とはいえ目立たない巧妙ないじめというものはありますし、いじめられたほうも公にすることができず耐えているというケースです。 この場合は、支配によるいじめという範疇に含まれることになりそうです。 【人はなぜいじめるのか】 ◇◇◇1≪ 排斥としてのいじめ ≫◇◇◇ いじめの目的には2つあるような気がする。 「排斥するためのいじめ」と「支配するためのいじめ」だ。 「排斥するためのいじめ」は、「異質と感じるもの」の排除欲だろう。 なぜ異質と感じるものを排除しようとするかといえば、それは異質と感じるものによる自らへの影響を怖れるからだろう。 私たちには多かれ少なかれ、他者を相対的存在として認識することによって自己の存立基盤を築こうとする無意識が働いているはずだ。 多少なりとも、他者の存在に照らし合わせて自分というものを確認しようとする部分がある。 だからもっと正確に言えば、異質と感じるものに照らし合わせた場合、それまでの自分というものが覆ってしまう恐怖を覚えるのではないか。 異質な事柄自体もそうだが、それ以上にその異質な事柄を身に纏って平然としている相手の存在を脅威に感じてしまうのだろう。 それゆえ排除しようとする。 一種の防衛機制と言ってもよい。 誰かを攻撃するように見えて、実は自らの身を守るための行為だというところがいじめ問題の根深さだろう。 ところで恐怖というものは、喜怒哀楽や悲しみなどに比べてもっとも古くから人間に存在する感情らしい。 非常に古典的というか原始的な感情で、言われてみれば感情に乏しい、または殆どないと思われるような魚類・爬虫類・鳥類やねずみ、うさぎなどの哺乳類においても恐怖だけは必須の感情として生来的に獲得されているもののようだ。 生きるためには、まず敵から身を守ることが最重要課題であることは否めない。 恐怖は脳の扁桃体という箇所で生み出されるらしいが、ここに損傷を受けると例えば猿の場合、普段は決して近づかない犬や蛇に平気で近づくようになる。 恐怖は身を守るための必須アイテムとして備わっているものらしい。 人類の最初の祖先が地球上に現れた時も、恐怖という感情が備わっていただろうことは想像するに難くない。 地球ができたのは約46億年前とされる。 人類の誕生はネアンデルタール人などに代表される旧人で4~50万年前、クロマニョン人などの現世人類と呼ばれるもので約20万年ほど前ということになっている。 自分たちとは異質の動物の影に脅えながら生活していたであろうこの頃の人類の脳と同様の恐怖を、いじめる者は無意識的に感じているはずだ。 「いじめられる者」とは「いじめる者にとっての」脅威なのではないだろうか。 つまり、他者の異質さに脅威を覚えるものがいじめをするということかもしれない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー しかし、異質と感じたとしても脅威を覚える人とそうでない人がいる。 そもそも異質という感覚さえ持たない人もいるはずだ。 この違いはどこからくるだろう。 思えば、「異質」という感覚は「理解できない」「理解しづらい」という認識に基づいていないだろうか。 つまり「何か理解できないから怖いので排斥しようとする」といういじめの形態があるのだと思う。 他者を理解できないのは主に想像力の欠如によるものだろう。 人は、幼い頃にどのような刺激を受けたかにより世界の捉え方が全く違ってくることもある。 想像力に関しても、幼児からの教育環境が重要な鍵を秘めているのではないかという気がしてならない。 ところで、排斥不可能と感じさせる相手に対しては排斥しようという気力は起こらない。 『ある相手に対して何か理解できないという怖れを抱くものが、排斥しようと思えばできそうだという見当をつけた時にいじめという形が出現することがある。』ということになりそうだ。 排斥不可能と思わせるのは、『毅然とした姿勢』を以ってその最大のものとするのが妥当ではないかと私は思う。 無論、理解できないという認識を抱かせないようにすることも効果があることになるだろう。 媚びる必要は全く無いし逆効果になるが、いじめられる側としては相手に安心感を与えておくことも有効だということになると思われる。 ◇◇◇2≪ 支配としてのいじめ ≫◇◇◇ 排斥ではなく、支配し従わせるためのいじめというものもあるだろう。 支配し従わせたくなる対象とは、すなわち自分自身との共通点を抱えている人ではないかと思う。 どのような共通点か。 それは自分と同様の弱さだろう。 何らかの理不尽な力に対抗しきれずに不当な抑圧を甘受してしまっている者。 その色を無言の内に表現してしまっている者。 そういった者を、容易に支配できる弱者として、いじめる者は敏感に察知するのだろう。 では、支配しようとする目的は何か。 それは自分が過去に受けたいじめ、あるいは抑圧の清算だろう。 自分が受けた理不尽な力は貯めておくだけでは苦しくなってくる。 吐き出す必要が生じるわけだが、いじめる者にとっては自分が被害者だった時と同様の状況設定の下で吐き出されることが望ましい。 「同様の状況」とは、抵抗不可能な情けない弱者に対して一方的で圧倒的な力が行使される、ということ。 かくして、弱者と認定されたものが執拗に狙われ続ける。 いじめるほうにしても、自らの惨めな過去を清算し、一旦は受け入れてしまった負の記憶を帳消しにするための絶好の獲物といった認識を持つはずだ。 過去の自分を癒す手段としてのいじめ。 誰しも、ふと誰かをいじめたくなった経験はあるはずだ。 その時、相手の中に過去の惨めな自分を見出すことは、そう難しいことではないだろう。 いじめる者は、過去のふがいない自分に復讐しているという見方も可能かもしれない。 つまり、ここにも『イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)』が存在している。 いじめる者の立場に立ってみよう。 今いじめる私はかつていじめられた者である。 しかし、今いじめている相手はかつて自分がいじめられた相手ではない。 いじめられ、抑圧された記憶を自らのものとして処理できない者が、目の前にいる弱者を過去の自分に見立て、いじめる自分を過去に自分をいじめた相手と重ね合わせる。 そして、自分がされたこと(理不尽な抑圧の行使)を自分が相手にする。 このようにして清算を済ませた気になる。 抑圧された記憶を自らのものとして処理する、とはどういうことだろうか。 それは、過去の事実を事実として認め、自分が対峙すべき相手を見極めること、だろうと思う。 不合理な思い込みから合理的な事実の認識へ、という転換が必要になる。 不合理な思い込みをしてしまいがちなのは、そのほうが楽だからで、つまり自己変革を必要としないからではないかという気がする。
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- pieroman
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セットというか、いじめの中に仲間はずれは含まれるのではないでしょうか。 男子の場合ですが、ぼんやりとしたグループ分けが自然になされます。 グループに入れない者が自然と仲間はずれという形をとります。 これはただ単に気の合うものがいないだけの状態です。 しかし、相性も悪いのに無理にグループに含まれることになると潰されます。 これが、いじめだと思います。 また質問のように友達ができなくて苦しんだとありますがそれはただ単に気が合うものが居なかっただけでしょう。 いじめですが、僕がよく思ういじめの理由として連帯感の強化があると思います。 一つのグループで対象の個人または集団を徹底的に「力を合わせて」嬲る。 これは時として同じ秘密(この場合はいじめ行為)を共有するという仲間意識の形成へとつながります。 他にも色々ありますが、いじめは絶対悪とはいえません。なくなりはしないんですから。いじめっ子同士友達ができるなんて事もあります。 大事なのは、一見めちゃくちゃなように見えても微妙なバランスを保っている場合があるということです。 そのような時、均衡を崩すとそれまで以上の行動に移るものが多いといえます。 むやみな介入は避けるべきでしょう。 いじめられっこが悪い場合もありますし。 僕もいじめられた経験がありますが、今になって思い返すといじめられてもしょうがなかった気がします。
お礼
人間的なものなのかも知れんですね。いじめを肯定的に捕らえるというのはおそらく正しいのだと思います。人間の業ともいうべきものか。
- korkor
- ベストアンサー率0% (0/1)
自分が言うことは下記の人方にとっては すごく子供っぽいかもしれませんが・・・ 現在高校3年生の自分ですが イジメやハブきとまではいかないかもしれないですが 軽く嫌がらせは受けております。 人気者でもありませんがそれまでは地味な方でもなかったです。 さて本題ですが、 自分が思うに相手、もしくは自分が嫌だと思ったり 不安になったりするのであれば 仲間はずれはイジメに属するんでないでしょうか? その仲間はずれの度合いにもよりますがね。 ただ自分が知る限りでは 学校で全く話す人がいないというのは これ以上無い苦痛なのではないでしょうか? たぶん私ならなんで俺だけ友達がいないんだ 何かしたのか?と自分に自身がなくなってくと思います。 その人の心次第ですが イジメとは他人から受ける精神的・肉体的苦痛であり 仲間はずれとは自分が自分に自身がなくなっていく物だと思います。 幼稚な文で申し訳ないです。
お礼
まったくそのとおりだと思います。 集団の中で孤立させられるということ自体、一種の拷問に違いない。相手のことを無意識的にも気を使って、いやな思いをしている人がいたら積極的に関与していく、これが基本でしょうね。
- vampi
- ベストアンサー率31% (332/1038)
日本人的な変な仲間意識だと思います、、、。 仮に、質問者さんが修学旅行のあとに転入なさった場合、 その話題についていけませんよね。 小学校6年間 その学校でどの位の割合でのクラス替えにもよると思います。 叔父が先日海外旅行をツアーでしたのですが、 そこにも他者(私、海外在住)を受け入れない雰囲気がありました。 たった1週間の全国からの寄り集まりのツアーです。 でも一緒に行動してきたわけじゃないしみたいな、、、。 因みに私 クラス替えがなく幼稚園から小学校卒業まで同じメンバーでした。 ある日、皆が遊んでいるところに 入れてって行ったら あんた誘ってない って言われました。 今でも結構トラウマですコレ。 女王様チックな子がいて、彼女の影を踏んだだけで往復びんたです。 彼女の気に入らない事したら翌日から総スカンでした。
お礼
徹底的な排除文化みたいのがあるのでしょうかね。層まで気を使うと逆に疲れるような気さえします。
- sakura-333
- ベストアンサー率10% (952/8906)
私も#2さんと同じで、自分から動かないで独りでいるのだったら、いじめとまでは言わないんじゃ・・ 状況がわからないので何とも言えませんが、どの程度の関係だったのでしょうか? 本当は、転校して右も左もわからない中に一人で入っていくのですから、声を掛けてくれるのが一番いいと思うのですが・・冷たいですね。 先生は何も言わなかったのでしょうか。 それと、人気者になるとやはり妬みが多くなってしまうので#1さんと同じ意見かなぁ?
お礼
冷たいこと差別的な意識が蔓延ていることというのはどういうものなんでしょうね。たとえいやなやつでも受け入れることが普通なのかどうなのか。
- fuyusyogun
- ベストアンサー率44% (21/47)
友達がいないことによる孤立といじめは別物だと私は考えています。 例えば、「入れて」と仲間の輪に入ろうとして何度も入れてもらえないのはいじめだと思いますが、自分から動かず「いれてもらえない、いじめだ」というのは変だと思いますね。 これは見極めが難しいと思いますが、何でもかんでもいじめに入れてしまうことはある意味子供のためにもならないんじゃないかと個人的には感じています。 まあ、性格上動けない子もいると思いますので、そういう子は大人がサポートしてあげるべきでしょうね。 人気者からいじめられっこに転落するパターンは結構あると思いますよ。 ちょっとしたことから「あいつウザくね?」となり、いじめられるという感じです。
お礼
孤独といじめは別物と考えるのも一理でしょうね。しかし、回りの意識が何か差別的になっている状態はノーマルではないのではないかという考えもありますね。
- sorasora178
- ベストアンサー率41% (206/497)
広義的、一環的にはいわゆる「いじめ」には入るのだろうと思います。 私も質問者さんと同じで、仲間はずれにされることがよくありました。それをいじめと思うかは、仲間はずれにされた側の主観の問題かもしれません。私も「これっていじめかな~」と思いつつも、いじめられている立場なのだ、という認識にまでいたることはありませんでした。 人気者かついじめの対象はいると思います。動機はねたみといったところでしょうか。人望がある分やっかみも多く、時にいじめに合うことも往々にしてあると思います。また、人気者として担ぎ上げることも時にいじめのようになっていきます。そういうケースもあると思います。
お礼
ボーダーは難しいです。流動的で馴れ合いなのかなんだかわからないですね。
お礼
たいへん説得力があり長文のご回答、感謝いたします。私もそのとおりだと思いました。結局大きな人間的な問題に突き当たるようですね。イレショナルビリーフ、人間の不合理弱さ傲慢さそういうものが一緒になっているようです。