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日本人的な考え方?
最近、宗教文化に興味を持っています。 そこで、一神教にある悪魔について調べています。 (あくまでも文化的なものとしてですが・・・) 私の中では、「絶対善」、「絶対悪」というものは存在しなくて、 そういう概念はあくまで相対的なものだと考えています。 なので、一神教の悪魔に対しても「悪魔って本当に絶対悪?」という疑問を持っています。 こういう考え方は、日本人的な考え方なのでしょうか? 欧米の人はこういう考え方をしないのでしょうか?
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#4です。 書き忘れましたが質問者さんが「世の中には根っからの悪人はいない」とか「どんな悪人でも誠意を持って話し合えば通じる筈」というようなことの延長線上に「悪魔」というものを捉えようとされているのであれば、それは確かに「日本人的な」考え方かもしれません。 日本人は「話し合い至上主義」であるなどとも言われますが、「善悪」などということよりも「皆が納得する」ことを大事にします。 ですから「どちらかが良いとか悪いとか決め付けるのではなく妥協点を見出せば良い」と考え方にもなりがちですが、これは世界で通用するものではありません。 特に一神教の世界では「弁護の余地無く悪である」という存在が有り得る訳で、そういう相手に対しては容赦しませんしそうすることに何の後ろめたさも抱かないのです。 それが「絶対」というものの存在する世界です。 これは聖書でも十字軍や大航海時代の歴史などを見ても明らかなことですが、今現在でも中東をはじめとする地域の問題が一向に決着を見ないどころか、進行形でキリスト教国とイスラム教国などが激しく対立していることなどを見てもわかることかと思います。 「絶対」の価値があると言う事は「妥協出来ない」と言うことで、妥協出来なければ相手を滅ぼすまで争うしかない訳です。 それが一神教の恐ろしいところでもあり、またそのように強い要素を持ったものだからこそ、これだけ世界中に広まっているということも出来るかと思います。 勿論前述のように一神教の世界の人々が相対的な価値をまったく理解しないとか受容しないという訳ではありませんし、過去の事例からだけでは現在をはかることは出来ませんが、そのように強いものがその底に流れているということが日本人には理解し難い為に色々な摩擦を生んでいることもまた事実ですし、「日本人的な」ものの考え方だけでは世界を理解することは困難であるとも言えるでしょう。
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- mapato
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こんにちは。 世の中の価値というものは皆相対的で「絶対的なもの」があるとしたらそれは「絶対的なもの」を信じる心の中くらいのものでしょう。 ですから人間が普通の感覚で世界を切り取ればそこに「絶対的なもの」など存在しない訳で、相対的なものの捉え方のほうがごく素朴で自然なものではないでしょうか。 日本人が特別そうと言う訳ではなく、多神教の世界観であればどこでも、例え神話の中にあっても「絶対的なもの」が存在するようなことは考え難いのです。 こうして見ると今や全世界に広がっている為一方のスタンダードとなっている「一神教」というものが実際は如何に特殊で極端な考え方であるかわかると思います。 「一神教」の誕生にはユダヤ人という非常に過酷な環境を生き抜いてきた人々のことを抜きには語れません。 人はどんな時に神や宗教を求めるものでしょうか。 心身ともに健康で希望に満ち溢れている時でしょうか・・恐らく多くはそうではありませんよね。 必ずしもそうとは限りませんが人は辛く厳しい現実から目を背けたい時こそより強く神などを求めるものではないでしょうか。 非常に大雑把な話ですがユダヤ人にはこれが民族規模で起こったと考えるとわかり易いかと思います。 つまり民族規模で辛く厳しい現実ばかりが続く中、何ものにも増して強くまた必ずしも日々の恵を与えてくれなくとも最終的には自分達を導き救ってくれる、そんな唯一無二の「自分達だけの神」を強く強く求めたという訳です。 そのような背景がある為一神教の考え方は非常に極端です。 そうは言ってもユダヤ教から生まれたキリスト教は極端過ぎる考え方を多少緩やかにしてもいるのでやや寛容な面を持っていますが、それでもやはり唯一にして無二の神を絶対のものとする考え方は基本的には同じです。 この「絶対善」の神に対して「絶対悪」の悪魔と言うのは僅かばかりの「善性」も持ち得ないという意味な訳ですが、このような「善悪二元論」はペルシャのゾロアスター教(拝火教)においてそのかたちが生まれたなどとも言われます。 しかしゾロアスター教のそれはやはり飽くまで多神教世界にあってのものであって一神教世界のそれほど極端なものではない訳です。 欧米の人々が必ずしも一神教の世界観に忠実に世界を切り取っている訳ではありません。 これは現実世界がそのような「二元論」で片付けられるようなものでない訳ですから当然と言えば当然です。 古代から近代に至るまでの宗教者・神学者達もこの矛盾をどう解決すべきかに頭を悩ませてきましたし、その一つの方法として非常にリアリティを持った悪魔達が生み出されたというのも事実です(悪魔にも非常に人間的魅力を持ったものがいなくもないのですが教義上そのようなものにも善性を見出すようなことは許されない訳です。それを認めてしまうことは絶対的な存在である筈の神の否定に繋がりかねません)。 多少無理があっても悪魔はどこまでも「悪」であるとしなければ、神そして更にはその影ともいうべき悪魔自体の存在も揺るぎかねません。 しかし生まれた時から一神教の世界に育った人々が時にそのように極端になってしまう可能性があるという事はある面では言えるのかもしれません。 米大統領などはしばしば「ジャスティス(正義)」などと口にします。 これなどやはり一神教の世界だからこそ、その国のトップが胸を張ってそのような(他の価値の入る余地が無い)言葉を使うことが出来る訳でしょう。 勿論長い歴史の中には一時的にそのような価値観が広く浸透することはどこの世界にもあることでしたが、多様な価値観を知りそれを認め合わねばならないと言われている現代において声高にそれを叫ぶことが出来るのは、やはりその背景に一神教の世界があるからと言って良いのではないでしょうか。 ですから決して一神教の世界の人々が相対的な価値というものを認めないというようなことはない訳ですが、我々よりも「絶対的なもの」を信じる下地が強くあるとそう思って頂ければ良いのではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「一神教」の誕生にはユダヤ人という非常に過酷な環境を生き抜いてきた人々のことを抜きには語れません。 今、ちょうど授業でやっていますが、一神教発祥の地の自然環境は厳しいもので、 自然豊かな日本とは全然違うというのを聞きました。 あくまで想像しか出来ませんが、余りに辛い環境に身を置いていると、 自分たちだけの絶対的な救いが欲しくなるのでしょうね。 >我々よりも「絶対的なもの」を信じる下地が強くあるとそう思って頂ければ良いのではないかと思います。 なるほど。 完全に・・・ではなくとも、育った環境上宗教が身につくというのはあるかもしれませんね。 とても詳しくて参考になりました!
- outerlimit
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#1,2とも 日本人的な発想です 一神教では、絶対の神に対立する存在はありえません(対立することは対等に近い関係にあることです、これを認めたならば一神教ではありません、この点の理解が日本人には非常に難しいのです) 特に#2は、日本人特有の考え方です 15世紀に ポルトガル・スペインが 中南米やアジアで行ったことを調べてください 日本人には、一神教は表面的にしか理解できません 理解できたと思ったとしても勘違いなだけです 仮に悪魔を認めても、それは神に対立する者ではなく、使徒や預言者ユダのようなレベルの存在に過ぎません、神の思し召しで存在を許されているだけのものです 絶対善に対する絶対悪が存在したら、一神教ではありません
お礼
ご回答ありがとうございます。 >日本人には、一神教は表面的にしか理解できません 理解できたと思ったとしても勘違いなだけです それぞれの文化の違いもあるから、100%理解・・・ということにはならないのでしょうね。 >絶対善に対する絶対悪が存在したら、一神教ではありません そういう考え方もありますね。参考になりました。
- balvenie12
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一神教の悪魔ができた過程を考えてみましょうか。 多神教の地域へ一神教が入っていく場合、たいてい今までの多神教の神様は悪魔・・・というか悪しき存在として作りかえられます。 といっても今まで信じていた神様をいきなり全否定してしまっては受け入れられるのは難しいですよね。そこで多神教の神様を天使や精霊として置き換えたり、また逆に明確な差別化を測るために「悪魔」として貶めたり・・・といったことが起こります。 そんなわけで、「悪魔」と定義されていても、もとは神様だったりするので絶対悪ということもなくて、人気があったり、人間味あふれていたりと内実はさまざまです。 もし時間が許すならば、一度、多神教から一神教へ置き換わっていく様子を研究されると良いでしょう。たとえば、古代ローマは多神教(日本と同じですね)の世界でしたが、有る皇帝の時代から一神教へと変わっていきます。その過程で、さまざまな多神教の神様が没落していきますが、あわせて生活様式などの文化も変わっていきます。どのようにして置き換えが起こったのか、悪魔化していったのかが良くわかると思いますよ。 ちなみに日本でも古代の太陽信仰から神道へまた仏教の伝来と統合の過程で同じような置き換えや変化が見受けられます。史料をひも解いてみると面白いかもしれません。 最後に >こういう考え方は、日本人的な考え方なのでしょうか? >欧米の人はこういう考え方をしないのでしょうか? これは日本人的な考え方ということではなく、観察するものの視点の問題だと思います。日本に住んでいるといろんな神様の行事を分け隔てなく行っていたりしますよね。いろんなものに寛容な分、観察者の視点を客観的なところへ持っていきやすいのでしょう。 とはいっても欧米の方にも自由な視点を持っていらっしゃる方はたくさんいます。欧米的な~や日本的な~という考え方は視野を狭めることになると思いますよ。 参考にしてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 天使だとかも元々、別のところの神様だったけれど、 比較的受け入れやすかったので「天使」になった・・・という話は聞いたことがあります。 逆に受け入れがたいものが悪魔になった・・・ということでしょうか。 ちょうど今、大学の授業で、オリエントだとか一神教への過程に関する授業をやっているので、 ますます興味深くなりますね。 >欧米的な~や日本的な~という考え方は視野を狭めることになると思いますよ。 ちょっと傾向的なものを知りたくて・・・ 欧米にも自由な視点を持っている方はいるんですね。 向こうの人は信心深くて、いつも宗教と関っているイメージがあって、 自分たちの神様絶対!なのかなって思っていたので・・・
- バグース(@bagus3)
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キリスト教やイスラム教などの一神教は、 教義がタイトで、神と悪魔、敵と味方、白と黒と 物事をはっきり分けますが、日本などの多神教では もっと柔軟性をもっていて、物事は白から黒まで さまざまな度合いの灰色が存在すると考えます。 私も善や悪は存在しないと考え、 「すべては幻だ」とする岸田秀さんの思想に共感して います。 宗教については、下記の著書が参考になります。 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31019105
お礼
ご回答と参考URLありがとうございます。 はっきり分ける一神教と曖昧な灰色の多神教・・・ アメリカの映画などを見ているとそういう傾向がある気がしますね。 日本にも勧善懲悪があるけれど、善悪はっきり分かれない曖昧なものも多い気がします。 URL先の本も面白そうなので読んでみたいですね!
お礼
二度目のご回答ありがとうございます。 >「世の中には根っからの悪人はいない」とか「どんな悪人でも誠意を持って話し合えば通じる筈」というようなことの延長線上に「悪魔」というものを捉えようとされているのであれば、 そういう考え方も多分に持っていますが、ここではちょっと違います。 「絶対善」、「絶対悪」って何?存在するの?という意味です。 そういうのって時代だとか環境によっても変わる相対的なものだと、私は思っていますので・・・ >特に一神教の世界では「弁護の余地無く悪である」という存在が有り得る訳で、そういう相手に対しては容赦しませんしそうすることに何の後ろめたさも抱かないのです。 やはり、こういう考え方は恐ろしいものを感じますね。 相手を徹底的に滅ぼす!というのは、ちょっと理解しがたいです。 私なら妥協を選んじゃいそうですね。 >「日本人的な」ものの考え方だけでは世界を理解することは困難であるとも言えるでしょう。 これは何となくわかりますね。 実際に海外に行ったわけではないけれど、異文化理解って難しい気がします。