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四十にして「青く」・・・・
はじめまして。 来年40歳になる中年男性です。 ここに集まっているみなさんは、わたしよりひとまわり以上お若い方々が大半だと思います。 『孤独であること、未熟であること。 それがわたしの二十歳の原点である・・・・』 わたしの愛読書の有名な一節です。 友人は独身主義者(?)を除いて、次々に結婚し、家庭を築き、父となり、一家の支えになっています。 結婚すること、家庭を持つことが「大人」であることの必須条件とは思っていません。 しかしどうしていつまでもわたしは「未熟」であるのか? 昨日ビデオで見た『ゴースト・ワールド』のイーニドに どうしてこんな中年男が、現在進行形の悩みとして、 シンパシーを感じるのか? 年月だけが流れていくが、 わたしは最後まで「昔は俺も・・・・(苦笑)」 という自らの青臭かった時代、若気の時代をほろ苦く振り返るという境地に至ることはないような気がします。 「人は何故生きるのか?」「愛とは?」「死とは?」 わたしの精神年齢は大学で哲学を専攻していた時点で停止したままです。 わたしは普通の人より20年遅れているのでしょうね(苦笑) 60になってやっと人並みになれるのでしょうか? 埒もない戯言ですので、お暇な折、気が向いたらお寄り下さい。
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こうして、考えたりしているのは、「努力をしている」という事ではないですか? 停滞でもなく、未熟でもないと思いますよ・・・。 案外、ヒョンな出来事で、進行(成長)している自分に気づくものです。 今は、それに、会う機会がないか、あるいは、会っていても、気づかずにいるかのどちらかだと思います。 (多分、後者の方だと思います。一生懸命な人ほど、気づかないそういうものです。) moonglowさんが、ご自身で思ってもない所が、進行(成長)しているはずです。 こればかりは、巡り合わせを待つのみでしょうか・・・? それに気づくと、気づいてよかったのか・・・、気づかずにいた方が、幸せだったのか・・・半々で、単に時の流れであることと、今の状況の、違う一面がわかります。 また、大学時代で停止してしまっているように思うのは、その時が、忘れられないくらい、思い出深く、心に残っているためです。
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- passagen2002
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感性の入れる所を間違うと、悩み、不安、妬みなどがでてきます。 あなたは、静かな気持ちになりたいのですね。 はじめは、固くしぼり だんだん ほどいていく それを イメージ して 中庸を見つけてください。
お礼
お返事ありがとうございます。 『中庸』・・・・なんとも耳の痛い言葉です。 哲学科だったわたしは学生時代何度もこの『中庸』という言葉にぶつかり、そしてついにこれに親しむことなく今に至っています。 考えてみると、わたしは『中庸』の心を求めて得られなかったのではなく、はじめからこのスタンスに違和感を覚えていたのではないかと思うのです・・・・
- nika
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わたしも40を過ぎた人間です。精神面では、少年時代とかわらぬ若さをもっています。 あなたとほとんど同じような境遇です。 でも、わたしは気づいています。人はひとりでは生きていけない。自分ひとりで生きていこうとして、自分が未熟なことに気づき前へ進めない。それじゃいけないということを。 人はひとりではいきていけない。共に人生を歩んでくれる友人でもいい、師匠でもいい、恋人でも、サークルの仲間でもいい、ひとりで生きようとしないで、共に生きることを考えたら、思いやりも出てきます、問題も出てきます、 でもそれが人生でしょう。 人間らしく、あなた一人が人間じゃない、共にいきることを考えましょう。
お礼
お返事ありがとうございます。 おかしなものですね。 あなたがここにお返事を書いていてくれてただろうその時間に、わたしはこんなことを考えていたのです。 ・・・・「自分は今までいかにこの孤独から脱するか?ということばかり考えてきた。でも来年四十を迎える今、 仕事もなく、友もなく、況や恋人など望むべくもない。 これからは、この「孤独」「独り」であるという現実と いかに折り合いをつけていくか?その方向で考えるべきなんじゃないか?」・・・・と。 わたしは3日前の誕生日に思いました。 わたしは「おめでとう」と言われる立場ではない。 少なくとも、今までこうして曲がりなりにも生きてこられたのは、両親や友人など、多くの人たちの有形・無形の支えがあったからで、誕生日というのはわたしが「アリガトウ」という日ではないかと・・・・ わたしは特定の信仰は持ちません。 しかしなにか超越的な大いなる力のようなものによって生かされているということは信じています。 しかしそれはそれ、わたしはかなりいびつでアンバランスな人間なので、人と交わるということがとても苦手です。 それにわたしは「もちつもたれつ」の関係でないと居心地が悪いのです。わたしのこれまでの人生で、わたしは常に 与えられる一方でした。 これから誰かと知り合ったとしてもそのアンバランス、不平等は変わらないでしょう。 ありがとうございました。
- rilfee
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来年40歳ってまだまだ若い・・・というか、熟してなくて普通だと思いますけど。 私は33才ですが、周りにいる40を超えた男友達なんて、まだまだみんな小僧みたいな人ばかりですよ。 いつもいつも「今」を走ってるから、若かりし日を振り返る暇がないんじゃないでしょうか?それならそれで素晴らしいと思いますが。 そういう私も、いつまでたっても大人の自覚もなく、自由気ままに生きてます。いけないいけないと思いつつも・・・。
お礼
早速のお返事ありがとうございます。 『周りにいる40を超えた男友達なんて、まだまだみんな小僧みたいな人ばかりですよ』 ・・・・そうなんですか? しかしこれはわたしの得意のネガティヴ思考かもしれませんが、あなたのお友達は「未熟」というよりも「若々しい」という言葉のほうがあっているのでは? つまり・・・・ 『いつもいつも「今」を走ってるから、若かりし日を振り返る暇がないんじゃないでしょうか?』 40そこそこなんて、既婚・未婚を問わず色んな意味で脂の乗り切った年代です。 そういう現役が、後ろを振り返る暇もまたそういう気にもならないのはある種当然と思います。 そうではなくて、わたしは「停滞」しているという意識が強いんです。 でもおもしろいですね。わたしは38歳になったばかりですが、33歳のあなたがものすごく「若い」気がする・・・・(あくまで年齢のことです) ありがとうございました。
お礼
お返事アリガトウございます。 昔から自分のことは自分で一番よくわかっているような気がしています。 でもそれは全てをわかっている訳ではなくて、 わたしが自分についてわかっているといえるのは、 わたしが何の取り柄もない欠点だらけの欠陥人間であるということ。 わからないこと、見えていないことは、 わたしの内側に潜んでいる卑しく、醜悪で、はた迷惑な 欠点・・・・ 自分で欠点だらけの人間とわかっていても、 会う人会う人、手を変え品を変え現れてくるものだと思うんです。 う~ん、わたしが一番楽しかったのは小学校~高校時代までですね。 自覚的にはわたしは大学時代から徐々にいびつになっていったような気がしています。 ありがとうございました。