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高校球児時代の斎藤君と田中君の活躍
高校野球2004年と2005年夏の斎藤君と田中君はどんな活躍をしたのですか。真紅の大優勝旗が初めて津軽海峡を越えた時の大会で田中君は先発でしたか。昨年の事は観戦したので知っています。
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まず斎藤投手は何の活躍もしていません。そもそも早実が出場していませんので。斎藤投手が甲子園に出たのは、3年生の春と夏のみです。 田中投手は2004年はベンチ入りメンバーに入っていませんので、初優勝時は当然何もしていません。本領を発揮し出すのは2005年春の選抜からで、この時、エースの松橋を差し置いて、初戦の戸畑戦で先発し、2-1で完投勝利を飾っています。ただし、次戦の神戸国際大付属戦ではリリーフ登板して無失点に抑えましたが、試合は0-4で破れ、甲子園を去りました。 翌2005年の夏は田中のベストシーズンでした。エースは140kmを超える速球を持つ松橋でしたが安定感に欠き、事実上のエースとして田中が大車輪の活躍を見せ、2連覇の立役者となりました。 まず初戦の聖心ウルスラ戦は松橋が完封し、次の3回戦の日本航空戦が初登板となりましたが、強力打線と言われた日本航空打線に全くつけいる隙を与えず、8回途中まで12奪三振1失点と抑え込み、13-1で快勝しています。 続く準々決勝ではそれまで1試合平均10点を叩き出していた鳴門工業打線に松橋がつかまり、序盤からリードを許す展開になり、3回途中から田中が登板します。田中はよく投げましたが、7回についにつかまり3失点、6-1となって連覇は絶望かと思われた7回裏に一気に6点を取って逆転に成功。立ち直った田中も残る2イニングをピシャリと封じて、結局6回1/3を12奪三振で締めくくり高校野球史上に残る大逆転劇を飾りました。 準決勝は、2回戦の藤代戦で大会タイ記録の19奪三振を記録したエース辻内、準々決勝の東北高校戦で1試合3本のホームランを放った4番平田という超高校級の投打の両輪に加え、「スーパー1年生」と言われた中田まで要する優勝候補ナンバーワンの大型チーム大阪桐蔭と激突しました。 この日も田中が先発し、平田を5打数0安打、中田を4打数1安打と完璧に押さえ込みましたが、序盤の5点リードを終盤に追いつかれる苦しい展開となり、マウンドを降りました。結局、駒苫が延長戦で大阪桐蔭を下し、決勝に進みます。ちなみにこの時から中田のいる大阪桐蔭に勝ったチームがそのまま優勝というパターンが3回続いています (^^;)。 決勝は京都外大西戦で、松橋が先発しましたが1-1の5回に田中が登板します。一度は2点のリードを追いつかれたものの、最後まで投げ抜き優勝投手となっています。圧巻は最終回で3者連続の空振り三振、そして優勝を決めたボールは150kmを記録し、勝利が決まった瞬間にマウンド上で仁王立ちとなって雄叫びを上げました。なお、甲子園で2年生で150kmを投げたのは田中だけです。 夏の甲子園後の国体でも駒苫は全国制覇。秋の北海道大会も圧倒的強さで制し、春の切符を手にします。各地区大会の覇者を集めた神宮大会でも田中はすばらしいピッチングを見せ、ダースのいた関西や斎藤佑樹率いる早稲田実業にも全くつけいる隙を与えない完璧な強さを見せつけて優勝しました。この大会の田中が高校生活で最高のピッチングだったと思います。この時の田中を打つことは、高校生には不可能だったでしょう。 そして、文句なしの優勝候補ナンバーワンだった翌年の春の選抜は直前の不祥事で出場辞退。雪辱を期した夏の大会で田中は胃腸を壊して体調を崩し、食事も満足に取れないような状態で本調子にはほど遠いピッチングながら、早実との死闘を投げ抜いて準優勝したのは記憶に新しいところでしょう。
お礼
ありがとうございました!頭の中に試合の様子が浮かびます。マー君はすばらしい。甲子園の時の写真集を買いましたのでご回答を読みながら過去をたどっています。甲子園の大歓声が聞こえて来るような気がします。