小学2年生の娘を持つ40代の父親です。
課題というのは分かりませんが、問題は娘が使っている教科書や、先生のつくったプリントで分かります。
問題を羅列すると…。
1.大人の現実と乖離した表記法を行っている。
。」←なんていうのは、大人は絶対に使わない。
読点やスペースの使い方も独特です。
2.作文の紋切り型。
~と思いました。
とか、
~感動した。
という形で作文を終わらせたがりますが、そういう表現は紋切り型です。
そもそも、思ったことを書いているのが文章なのですから、その文章の中で「思いました」と書くのは、重複。まだろっこしい文章にしかなりません。
このことは、多分心理主義的な意図が働いてのことかもしれません。
たとえば、小学生が書くような文章では、
「お花がきれいだ」
は気持ちが伝わってくるけど、
「チューリップの黄色い花が咲いている」
というのは、味気ないと思われるのだと思う。
しかし、大人になると、「きれい」などという形容詞的な表現は主観だから、避けられる。小説を書くようになると、形容詞を使うということが禁じ手にさえなる。
小学校の国語の授業で、芸術を持ち出すのは早すぎるのかもしれないが、
芸術では、きれいという気持ちを、きれいという言葉で表現するのではだめ。
作文が文芸だとするなら、
目の前の花をみたときに、きれいという手垢のついた紋切り型の文章表現ですましてよいのだろうか…。
そのことが、作文というものから楽しみをなくしてしまっている。
私の娘は、今年の年賀状に、
「昨年は一輪車ができるようになりました。今年は、逆上がりができるようになりたいと思います」
と、書きました。
私は、最後の「思います」は蛇足だからいらない。と、指導しました。
その意図の裏には、言葉の歯切れのよさのほかに、逆上がりをやりとげる意志の弱さを感じたからです。
でも、娘は文の最後に「思います」と付けるように学校で教育されているので、私には従いません。
世の中には、「…させていただく」などという言葉を連発するタレントがたくさんいます。それらは、誤用とまではいいませんが、使用する人の日本語を発するときの気概のなさを印象づけます。
3.日本語としての美しさ。
大人が社会に出て文章をかくと、文末に「…ます」ばっかりつづくとおかしい。とか思いますが、教科書ではそうではない。
また、日本語の特徴は、主語の省略なのですが、そのことを日本語の欠点ととらえているのか、主語を省略していない文章をよく見かけます。
この他、体言止めの連発などもあったかと…。
(これらは、理系の文章だったと思いますが、確認していません)
日本語では、
私は男です。
も
男です。
も
使うことができますが、
英語では、
I am a man.
はありですが、
a man.
では文章になりません。
ですから、外国人に日本語の主語の省略について教えるときに
私は男です。
という文を英訳するときに、
I talk about me, I am a men.
だかなんだかと教えるそうです。
これだったら、
私は、
を省略しても、英語訳が残りますからね。
日本語が英語文法をついづいする。
実は、英語のほうも、日本語をついづいしているのに…。
日本人も、もっと中華思想をもっていいのだと思うのだが…。
☆
本当に美しい日本語に触れること。
そして、美しい日本語を書くこと。
そのことが一番重要だと思います。
それは、言葉というものが、それぞれの個が外界と接する唯一の手段だからです。
また、日常においても、紋切り型でなく、みずみずしい言葉を使うこと。それが重要だと思います。
具体的に悪い例を言うと、
ある日のニュース番組
「○○ゲレンデでは、多くのスキーヤーが思い思いのシュプールを描いていました」←そんなことスキーヤーにきいたんかい。っていう感じ。
わが校長先生のPTA向けのプリント
「時下ますますご盛栄のことと…」←おいおい、サラリーマンの相手の挨拶か。
それそれ俺がご盛栄って確かめたのかい。って思う。
まさに、噴飯です。
美しい文章とは何か。そのことをそれぞれが考えるべきだと思います。
世の中に認知されている文章でも、私には新聞の文章や、美術展のカタログに学芸員が書いているような文章が許せません。
ぶっきらぼうな新聞の文を簡潔といって尊ぶ意識、一文が長く難解を持ってよしとするような論文の世界。
そういう衒学的な世界は世の中から抹殺したいものです。
文章における美も多様性がある。
…ですが、
ひとつの文は短く、簡潔に。
抽象的な表現はさけ、具体的に。
感情表現は、「秘すれば花」。
文章には進行感をもたせよう。
それらは、私が社会に出てから、学校教育と大人の世界の大いなる乖離に目覚め、そして、過去に教えられたことを抹殺していく歴史の中から体得したものです。
そういう確信にいたったのは、学校を卒業してから、10余年かかってしまいました。わが娘には、同じ轍は踏ませたくない。
☆
国語とは、言葉を発すること。何故言葉を発するのか。
それは、人に自分をわかって欲しいから。
じゃ、自分って何なの。
それは、他の人と違う、わたしだけの自分・個性よ。
だとしたら、紋切り型の表現はできない。
それが結論。
もんだいは「らぬき」なとという末節の話ではないと思います。
相手に分かって欲しいという「切実な思い」。
相手に、短時間に、明確に分かって欲しいという「やさしい思い」。
相手を楽しませたいという「サービス精神」。
相手を傷つけたくないという同じ時代を生きていることへの「感謝の思い」。
それらの、思い。ムーブメント(動機)が国語教育の底に、それさえあれば何にも問題はない。
…と、思います。←(と、ここまで書いておきながら蛇足ですね)
(^^;)
☆
追記:
…ということで、国語教育にどっぷりはまっている現場の先生には、私のような感想はないでしょうね。
だって、国語の教科書を見て、吐き気が起きない。自己矛盾に苦しくならない。そういう人達なのですから…。
ということで、暴論を吐いてしまいました。ご気分を害されるかたがいらっしゃいましたら、阿呆物のたわ言と無視していただければ幸いです。
でも、これが小学校2年生の娘を持つ、原稿を書くことで飯をくっている人間の素直な意見です。
お礼
丁寧な回答をどうもありがとうございます。 songbookさんは、小学校の先生をしてらっしゃるんでしょうか??現場の方からも、ことば自体への危機感が回答として返ってくるということは、それだけ多くの人たちが、子どもたちの使う日本語、マスコミの使う日本語に対して違和感を持っているということなんでしょうね。 そのようなことば自体を教えることも大事ですが、国語という教科で行われなければならないことは、もう少し先まで見据えたものでなければならないと私は考えています。ことばからどんな感情が引き出されるのか、想像されるのかということとともに、どのような述べ方がされているのか、単語、単文レベルではなく、段落として、文章全体として、どのような構造があって、その構造と内容は妥当であるのか、という批評、批判的な読みやそれを自分の表現活動に反映させるということが必要です。ことばと中身の両方にこだわる授業をどう組み立てていくのかが、課題の中心となってくるのでしょうか。 みなさんのおかげで色々な考え方を聞くことができました。どうもありがとうございました。