• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:Gr.Aレースの当時の様子と、終了理由について)

なぜ終了したのか?グループAレースの様子と終了理由について

このQ&Aのポイント
  • グループAレースはかつてのGTの前身であり、10万人以上の観客を集めるほど人気のあったレースでした。しかし、なぜそのような儲かるレースが終了してしまったのか、未だに疑問が残ります。
  • グループAレースはビデオの中の世界として愛されており、観客の興奮を呼ぶレースでした。現在のGTの盛り上がりと比べると、観客動員数は半分以下です。なぜ、そんな儲かるレースが終了したのか、その理由について考えさせられます。
  • また、グループAとは一体何であり、現在も存在しているのでしょうか。当時の観客動員数やメディアの取り上げ方についても疑問が湧きます。そのまま存在していればどんなに素晴らしいのか、ますます疑問が深まります。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

長年にわたってモータースポーツを見続け、平日のテストにも行っている者です。 中野信治や道上龍のお父さんが走っている頃からずっと見ていると言えば、どれぐらい長いかは察しがつくでしょう。 さて、グループAの歴史をサッと振り返ってみましょう。 1985年 グループAによる全日本ツーリングカー選手権(JTCC)が始まる。 1986年 FISAがFIAツーリングカー選手権を開催。 1987年 世界ツーリングカー選手権(WTC)が全11戦で開催されるが、運営方法に問題があり1年で終了。「インターTEC」(富士)が、WTCの最終戦に組み込まれる。 1988年 WTCがヨーロッパツーリングカー選手権(ETC)に鞍替え。 1989年 ETCが消滅し、グループAは各国選手権となる。 1991年 イギリスで2LNAエンジン搭載の4ドアセダンによる国内選手権が始まる。 1992年 FIAが、1993イヤーブックに2LNAエンジン搭載の4ドアセダンによるレース用車両、ツーリングカー(クラスII)の車両規定を盛り込む。「インターTEC」を最後にJTCCもその幕を閉じる。 1993年 日本でも、2LNAエンジン搭載の4ドアセダンによるニューツーリングカーレース(NTC)が始まる。 という流れになります。つまり、日本のモータースポーツはヨーロッパを中心とした流れに範を置いており、その流れに従ったというわけです。 JTCCの主な車両規定を挙げておきましょう。 連続した12カ月間に2500台以上(1992年までは5000台以上)生産する。座席数は4座以上。全長・ドア数の規定はなし。 クラスは、以下の3つ。 DIVISION 1(2501cc以上、1260kg以上) DIVISION 2(1601~2500cc、940kg以上) DIVISION 3(1600cc以下、780kg以上) DIVISION 1は、当初はスカイライン、スープラ、スタリオンの日本勢とシエラ(WTC時はボルボ)が覇を競っていましたが、徐々にスカイラインが強くなり、最終的にはスカイラインの独壇場となりました。 DIVISION 2は、常に参加台数が少なく、セリカやプレリュードが参戦していたこともありましたが、ほとんどBMW M3のワンメイクス状態でした。 DIVISION 3は、最初から最後まで、シビックvsカローラ、という図式でした。 私は、夏の筑波の「レース・ド・ニッポン」は毎年のように観戦に行っていましたし、富士の「インターTEC」もJTCC最後のレースなどに行っています。この「インターTEC」では、駐車場から出るのに4時間ぐらいかかったと記憶しています。 晩年は、DIVISION 1、DIVISION 2は実質的にワンメイクス状態で、今のJGTCのような盛り上がりがなかったのは事実ですね。 もっとも、新たに始まったNTCも、アコード、エクシブ、サニーなどが激しいレースを繰り広げたものの、マシン的な迫力は皆無で、1度、見に行けばOKという代物でした。 車両的には、今のアルテッツァのワンメイクスレースを想像すればいいかと思います。ですから、NTCも数年で消滅しましたね。 JTCCに1番近いのは、今で考えるとN1でしょう。車両の雰囲気や参戦車両、レース形態も似ています。私自身はN1にはあまり魅力を感じませんし、JTCCがJGTCにバトンタッチしたのは良かったと思います。 なお、JTCCの晩年には、富士で日本版「マカオグランプリ」の「インターナショナルF3リーグ」も開催されています。 ミハエル・シューマッハー、ミカ・ハッキネン、デビッド・クルサード、エディー・アーバイン、ミカ・サロ、ジャック・ビルヌーブ、クリスチャン・フィッティパルディ、ジル・ド・フェランなど、そうそうたる顔ぶれが参戦していました。まぁ、日本で走っていたドライバーも多いんですけどね。 こちらは、もうからないということで、3年で開催を中止しています。

その他の回答 (1)

  • doya
  • ベストアンサー率39% (70/177)
回答No.2

終わってしまった理由は私も知りませんが、下記の方も書いておられるように末期は、ほぼ1車種のワンメイクレースのようになり、参戦するメーカが限られてしまい、他のメーカにメリットがないため、政治力のようなものが働いたからだと思っています。グループAに変わって登場したのが、各メーカがそろっって参戦したNTCでした。 さて、グループA(JTCC)の当時の観客ですが、とても盛り上がっていましたよ。 フォーミューラレースによく来ている、我こそは正統派という雰囲気のグッズで身を固めたファンから、車好きのヤンキー系趣味のあんちゃんまで、特に地方のサーキットは早朝まだ暗いうちから、観客の車の隊列はびっちり続き、レースへ向けて盛り上がる気持ちを押さえながらわくわくしました。 フォーミューラはF1を除き、どちらかといえばドライバー同士のバトルに注目が行き、箱のレースは自動車VS自動車が一番注目されると思います。 やはり、馬鹿っ速いR32スカイラインを見に来たという観客が多かったと思います。R32の魅力と、車、全日本クラスのドライバー、チーム力により高いレベルのレースが見られるというイメージがあり、高価なチケットも安いものでした。 R32の爆発的なコーナ立ち上がり加速と圧倒的なストレートスピードに観客ははまり、私はシビックのファンなので、無限シビックがトムスカローラに追走されながら、2クラスのBMWを抜いて走るのを見るのが快感でした。 マスコミ(レース専門誌)の報道は、カルソニックスカイラインVS日鉱共石スカイラインのように、チーム対チーム(ドライバー対ドライバー)の構図をアピールしていたと思います。 私の話は、グループAの末期で各クラスほぼワンメイク状態の頃の話です。それ以前スープラ、シエラ等が参戦していた頃は雰囲気が異なると思いますが、グループCを除いて、箱の最高峰のレースというイメージは変わらなかったと思います。

関連するQ&A