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可能動詞
五段語幹+「eる」、・一段語幹+「られる」の可能動詞は意志動詞にしかつかないですよね。 動詞の連用形+「~得る」の可能表現では無意思動詞からでも作れます。これは起こる可能性をあらわす、と辞書に載っていました。 それでは意思動詞についた場合、「eる」も「(連用)得る」も文体の違いだけでまったく同じ意味でしょうか。 「~し得る」の使い方もよくわかっていない気がします。少し説明していただけるとうれしいです。 よろしくお願いします。
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以下、学校文法の立場、観点から御説明します。 概念の整理をしましょう。 「可能動詞」とは、五段活用動詞(文語で四段動詞)が下一段活用に転じて、本来の動作内容のほかに可能の意味を含み持つようになった動詞のことです。「得る」や助動詞「れる・られる」がついた形は、可能動詞とは呼びません。室町後期から現れ、江戸期に一般化し、明治以降大い数を増し、ほとんどの五段動詞は可能動詞として使われます。 (「日本語文法大辞典」(明治書院)、「日本文法辞典」(有精堂)による。) 「意志(意思?)動詞」については、私が知る限り、一般的な国文法用語ではありません。上記の文法辞典やその他の文法書を見ても、出ていません。(だから否定する、という気はありませんが。)日本語文法(外国人向けの日本語文法。あるいは、伝統的な国文法と距離を置いた言語学的視点からの日本語文法)で用いられている概念なのかもしれません。どの(だれの)文法学説に基づく語で、どう定義されているのでしょうか。できれば補足をお願いします。 >五段語幹+「eる」、・一段語幹+「られる」の可能動詞は意志動詞にしかつかないですよね。 この御意見には賛成しかねます。上にも書いたように、「ほとんどの五段動詞は可能動詞として使われ」るという点、「意志動詞」という概念が文法用語として認められているとは考えづらいという点が、その根拠です。 続いて、日本語における「可能の意味」について御説明します。これは可能動詞、「~得る」型、「~できる」型、助動詞「れる・られる」も含んだ、一般的な説明です。 (1)「可能」の意味 一言で「可能」といっても、次のようなものがあります。 A能力の可能性・・・「彼は勉強ができる。」 B状況の可能性・・・「雨でもサッカーはできる。」 C性質の可能性・・・「この酒はなかなかいける。」(Bの一種) (2)「可能」の表現方法(上記を整理しただけです。A・Bは例省略) A助動詞「れる・られる(文語なら、ゆ・らゆ、る・らる)」を用いたもの。 B可能動詞(五段の下一段化)を用いたもの。 C「得(文語なら「う」、口語なら「うる・える」)」や、「できる」を用いたもの。下例は口語のみ。 a一般動詞で用いるもの。「勉強ができる。」 b補助語、あるいは接尾語的に用いるもの。「彼の理論は納得できる。」→この「できる」はサ変動詞の語尾「する」を置き換えたものと考えられる。 (3)可能と蓋然性 可能と似た概念に蓋然性がある。「可能」が「起こりえること」をいうのに対し、「蓋然性」は「確からしさ」をいう。ただ、「蓋然性」の説明は文語に触れざるを得ないので、ここでは省略する(説明が長くなるのと、私の手に余るのと、両方です)。 (4)可能の意味の変遷(>” ”<内は上記「日本語文法大辞典」からの引用。) 平安時代までは、「可能」は、打ち消しの構文としてしか出てこない。つまり「不可能(~できない)」が表現されることはあっても、肯定「可能」が用いられるということはなかった。「え~ず」という呼応の表現がその象徴的な語法である。可能の意味は、今の文法用語で言う「自発(人間の意図とは無関係に、自然にそうなること)」の意味として表されていたようである。(一般に「る・らる」の意味は、自発が起源であるとされる。) 室町期になって、やっと、肯定の可能の意味が現れるようになる。 >”可能の意味は、それを実現させたという意図的な意味がなかったように、「る・らる」のような自然発生を表す助動詞で表され、自分の力で成し遂げたという捉え方でなはく、そうなったというのが本来の言い方であった。可能動詞が「取れる」「もげる」など、自然発生的意味に近い語形で成立したのもそのせいかと思える。また、そおいう言い方であるから、「…が・可能」というという形を取るのが一般であった(補例「今日は野球ができる。」)。それが徐々に「…を・可能」という形に変移しつつある(補例「今日は野球をできる。」)のは、「可能」に行為の意味(補注 動作主である人間の意思が入った行為であるという意味)を認め、その対象として、「…」の意味を捉えるからである。”< つまり、「意志(意思)的」な意味を表すようになったのはむしろ最近のことというのが、「国語学」の常識のようです。(「日本語学」ではどうかわかりませんが。)
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- kobarero
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「得る」は「意志や意欲にかかわらず、~~する可能性がある」ことを意味しますから、意思動詞と共に使うのは、ある意味論理矛盾だと思います。「得る」を意思動詞と共に使うと、日本語表現としては不自然になりますから、一般には、意思動詞には五段語幹+「eる」や一段語幹+「られる」を使うと思います。ただ、意思動詞の場合でも、意志に関わらずそうなってしまうということを強調したい場合には、以下のように、例外として、「得る」を使うことになると思います。 (1)彼はお金を落とし得る。(通常は、気づかずに落とすので、「彼はお金を落とせる」は不自然なので「得る」を使用) (2)忘れ得ない記憶。(忘れたくても忘れられないという意味を強調して「得る」を使用) (3)犬は熊を食べ得ない。(犬は意志とかかわらず熊を食べることは不可能という意味で「得る」を使用)
お礼
いつもありがとうございます。 >「得る」は「意志や意欲にかかわらず、~~する可能性がある」 ~でも、意志に関わらずそうなってしまうということを強調したい場合~ なるほど、と思いました。 例文がとてもわかりやすかったです。
お礼
丁寧な回答、ありがとうございます。 >「意志(意思?)動詞」については、私が知る限り、一般的な国文法用語ではありません。 そうでしたか。知りませんでした。 >日本語文法(外国人向けの日本語文法。あるいは、伝統的な国文法と距離を置いた言語学的視点からの日本語文法)で用いられている概念なのかもしれません。どの(だれの)文法学説に基づく語で、どう定義されているのでしょうか。できれば補足をお願いします。 ご推察どおり、日本語教育の分野です。 意志動詞というのは人間の意志による動作を表す動詞、これに対して「降る・咲く・流れる・困る」など、意志によるコントロールの聞かない動作を表す動詞を無意志動詞というそうです。 同じ動詞でも主語によって意志動詞として作用するか無意志動詞として作用するかが変わってくるものもあり、無意志動詞には命令・禁止・希望・可能などの形をもたない、と私の事典に書かれていますが、必ずしもこの辞書が正しいとはいえないかも、とも思います。 「困る」の可能動詞はわからないですが、「ちょっとは困れ」など、命令形はよくつかわれますし、同義の「悩む」などは「悩める子羊」という表現では確かに可能動詞化してます。 蓋然性… 気になります。 「可能の意味の変遷」はとても参考になりました。 ありがとうございました。