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免許外の選択教科担当

 中学校の教員をしております。我が校では、選択教科と称してほぼ全員の教員がほとんど免許外の教科を担当することになりました。総合的な学習の時間として扱えば問題はないのかもしれませんが、この場合、免許外の申請をしたり研修を受ける必要があると思うのですが、いかがなものでしょうか。また、各教科の学習指導要領の内容から大きくそれるような内容(例えば選択教科としての技術・家庭科で生け花だけを扱うなど)は取り扱うべきではないと思うのですがいかがでしょう。さらに、学年の枠を超えた縦割りで扱うことになりましたが、どうやら総合的な学習の時間と勘違いした方向に行きそうで心配です。ご教示ください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hukuponlog
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回答No.2

「自分は弱腰だなぁ」と思いながら「でもちょっと待てよ」と考える、そういう先生が大好きです。とてもご立派だと思います。 さて、ご質問の中身は2つに分かれると思います。 1.選択教科の内容・構成と担当についての、教育課程上の問題 2.そのことが、生徒のまなびに与える否定的な影響の有無 1について 結論から言えば、ギリギリでセーフ(アウトと言われれば、それもありかな?というくらいギリギリ)です。この辺は、教委の解釈の問題とも絡んでくるので、一概には言えないのですが。 ちょうど、次年度の教育課程を提出し終わった時期です。選択教科は「書類上」どのように扱われているでしょうか。全て「総合」ということはあり得ないでしょうから、それぞれの教科になっていると思います。 さて、教育課程上問題になるのは、その選択教科の教育課程や指導計画を誰(建前は校長として、実際の作成者)が作成しているのか、という点と、担当するのは誰(具体的にはその教科の免許を持った人間であるか否か)かという点です。そこが整っていれば、実態として、その時間の現実の指導者が誰か、という個別の事情は見ようがない、というのが教育委員会のスタンスです。 それで、以下のように解釈します。 その選択教科は、当然その教科の免許を持った教員が指導している。ただし、個別の事情により、他の指導に当たり、その教室に常にいるとは限らない。その場合、他の教員が補教的な(或いはTT的な)位置付けで指導を継続することは当然あり得る。 で、どの選択教科についても、いわばクロスオーバーする形で、ドメインとして指導が実施されている、という解釈です。 実際問題として、あまり免許との関係を突っ込むと、選択教科開設の幅が狭くなり、かえって指導要領上の趣旨と沿わなくなってくる、という事情があり、難しいところなのです。 中学校ではこういう解釈は珍しいでしょうが、小学校では普通に行われていることなのです。例えば、国語の時間、担任が急に休暇を取る事情になり、補教として音楽専科(音楽の免許しか持っていません)が入った。この場合、中学ではその授業を国語としてカウントする習慣は普通ありません。でも、小学校では国語として一単位時間カウントするのが普通なのです。 まぁ、日常的・継続的にそれが実施されているのはどうか、と正面から問われれば、問題です、と回答せざるを得ないでしょうが、ドメインとして指導しているのだ、ということであれば「総合」との関連もあり、むしろ望ましいという解釈も成り立つところです。そこがギリギリの部分です。 2について ここは、質問者の先生のような考え方もあるでしょうし、逆の考え方もあり得ます。教科の特性もあるでしょうから、一概には断定できません。#1の先生のおっしゃるように、生徒の実態に応じて、教員集団で議論を積み重ねるしかないところだと思います。

A-C-K-Y
質問者

お礼

大変詳しくご教授いただきありがとうございました。私の中ではまだもやもやした部分がありますが、いよいよ(本校の選択の授業が)動き出してしまいました。年度末、次年度の計画を立てる職員会議では、今回の内容を論点として強く出て行きたいと思います。

その他の回答 (1)

  • Ama430
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回答No.1

建前を言うなら、おっしゃるように、選択教科を免許外で持つことは問題でしょう。 しかし、そもそも、選択や総合について、「本当に教科を犠牲にしてまでやるべきなのか」という点には、専門家でも意見が分かれるところだと思います。 目の前の生徒がどのように輝くかを第一の判断基準にして、現場の先生方でご協議下さい。 生徒の実態に応じた指導になりそうなら、いわゆる必修クラブ方式も否定することはないと思います。

A-C-K-Y
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。  私が一番心配しているのは、免許を持たない他の教科の教師によって、その教科の目的や独自性が見失われ、いい加減(?)な指導がなされるのではないかということです。特に、技能教科と呼ばれる音楽・美術・保体・技家については、”おいしい部分”だけが強調され、教科本来の奥深さに到達するための”苦い部分(?)”が軽視(あるいは無視)されるのではないかと不安を感じているところです。単純に、”生徒が輝ければ”とか、”生徒が楽しめれば”それで良しとするようなことがあってはいけないと思うのです。  私自身、争い事は好みませんので「長いものには巻かれろ」という弱腰な状態ですので全体の意見にはもちろん従うつもりです。しかし、「これは正しいことではないのだ。」という信念を持ち続けるための確証を求めたいと思っております。より多くの方々からのご意見をお待ちしております。