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降る雨や 明治は 遠くなりにけり
降る雨や 明治は 遠くなりにけり であったならばそれでも評価は高かったとおもいますか? 咲く花や~ では? 雪でなければならない必然性はこの句にはあるのですか? 懐かしむのに何でもいいはず。 だから、明治はとおくなりにけり、がある時点で上の句はなんでもいいんじゃないの? 「今宵あうひと みなうつくしき」 がそうなように。あれだって清水でなくとも祇園でなくともいいはず。 桜でなくともきっと名歌とされてたでしょう。 五月雨や ○○○○○ 最上川 があっただけでは まだ名句たりうる形質ができあがっていないのではと思う。 五月雨や 流れて早し が出来上がった時点でもはや名句なのではないですか? 最上川でなくとも信濃川でもいいんですよね? いや、雪でなくては、古池でなくては、最上川でなくてはならない必然性を教えてください? 芭蕉の人間性や歴史など考えず 純粋に句としてだけを客観的に見てください。
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- jasko
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俳句は取り合わせの妙を楽しむ文芸です。 その取り合わせはダイナミズムがあるほうが振幅が激しい方が、そこに感動が生まれます。駅前の定点観測カメラはからの映像は人の動きを映すだけですが、カメラが勢いよくズームイン、またはズームアウトすればそこに動きや感興が見出せます。 「降る雪や」の場合は「遮断性」は「遮断性」でも雨との違いを考えればわかるでしょう。音がない。無音であるということです。明治が幕末から続く激動の時代であったことは周知の事実。無音の静謐さと激動の時代の取り合わせがこの句の妙なのでしょう。激動の時代も無音で降り続く雪の彼方に、時間的に遠くへ行ってしまうとか…そういうイメージかな。韻文を散文で説明するのはギャグの説明と同じで芸のないものですね。この句の場合は音や時間軸といったダイナミズムがあると思います。 「五月雨を」の場合は五月雨とは露の長雨のことですから、静的で陰気なイメージです。これが激流となって渦巻くように動的に流れる川と取り合わせたことによって感興が生まれます。最上川である必然性はないと思いますが、その名前が作者の感性にマッチしたということでしょう。
♯1です。 どうもおかしいと思っていたら、本句は、雪ですね。 遠くなりにけり、と思った日が、雪だったからです。 それに雨は、それ自体で季語にはなりません。秋雨や、とか、五月雨とかならなりますが・・・。
こんにちは。 少し強引に・・・ 最上川はとても大きな川(置賜盆地あたりから庄内まで)ですが、急流かつ水が汚い(透明度ゼロ、カヌーイストの野田知介氏も荒々しく又汚くて泳げぬ」旨書いてました)。 ゆえに、五月雨からくるイメージギャップ大きく、表現にダイナミズムが付与される、と。(最上川見た人でないと解らぬでしょうが) すいません、思い付きです。
この場合の雨は、遮断の雨です。時代が途絶えてしまった、もはや明治を思わせるものは何もなくなってしまった、という破壊の雨でもあります。 では、咲く花であったり、雪であったらどうか、息吹く花は建設的、積もる雪も遮断ではないでしょう。 だから、この場合断絶の雨という天気がふさわしいと思います。 最上川の句は、旅をして、梅雨期の最上川を見たときに感興を得て、生まれた句ですから、下五は最上川になります。 中七は、流れて早しではなく、集めてはやし、です。 俳句は実作を基本としていますから、事実をありのままに見たとおり書くのが基本です。 俳人が、実際経験したことを心の目で書いているのですから、遮断の雨であったり、最上川だったりします。
補足
上記の句は、降る雪や~が本来です。 遮断の雨ではないですが名句となっています。 どうご説明されますか?
補足
雪だと遮断性ないけれどいいのですか??