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空手と思いやりの繋がり
よく空手の稽古を通して相手への思いやりを学ぶことができるとか言いますよね?ネットで検索してもたくさんヒットします。 けど具体的にどのように思いやりを学ぶことができるのでしょうか? 稽古のでこで思いやりの“お”の字が出てくるのかが分かりません。 例えばの具体例をまじえて教えて頂けませんか?
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- tewpi
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実戦的流派の指導員経験のあるものです。 色々な人が、いろいろな目的で、色々なスタイルで学ぶことが許されるものなので「正解」は無いと思いますが、私の考えを参考までに。 誤解を恐れず言うと、空手とは優しさや精神を学ぶ為のものではなく、格闘技術を学ぶためにあるのだと思います。 少し説明させてください。 人が何かに触れた(経験した)時、そこから人は何かを学びます。 しかし、あるAという物に触れた時、そこで何を感じ取るかは、実はその人次第なのです。 同じ「リンゴが木から落ちる」という現象を見たとしても、ある人は「お、熟したな、美味そう」と考えますが、ニュートンは万有引力に思いを馳せます(まあ、これは「伝説」でしょうが)。 人に対する思いやりを教える道徳の授業でさえ、そこから優しさを学ぶ者も居れば「そうか、他人はそう考えるのか。へっへっ。それを逆手に取れば儲かるぜ」と考える者もいます。 (最近手話を学んで、聾唖者を多数詐欺にかけた人も居ましたね) 同様に空手を学ぶことから「思いやり」を学ぶ人も居れば、人を脅す・傷つける方法を学ぶ者もいます。 つまり空手を通して何を学ぶかも、また人それぞれなのです。 とは言え、空手を学ぶ際に単に人を効果的に傷つける方法のみを学ぶのではあまりに悲しすぎます。学ぶ者はもちろん、指導者も当然の如く、弟子に思いやりを含め人間的成長を求めるのが普通でしょう。 しかし、よく考えてみると「思いやり」を学ぶ手段は空手だけではないのです。 それが武道であろうと、一般スポーツであろうと、さらには勉学であろうと、茶道のような趣味であろうと。 そうなんでも良いのです。 空手なんてのは「思いやり」を学ぶための「一手段」に過ぎないのです。 空手の一流派で「大道塾」という会派があります。 この「大道」とは「大道無門」という言葉に由来しています。 これは「一つの真実にたどり着くための大道は、一本だけなのではなく、そこに多くの方法があるのだ。ひとつだけ門があるのではなく、多くの門が開けている。つまり無門なのである」という意味です。 人間としての成長、それは空手も含めすべての「道」の目指す「真実」なのだと思います。 空手を通して人間が、最終的に獲得すべきもの、それは人間としての成長です。 しかしながら、それは「副産物」としてではありながら「必須」で学ぶべきものではありますが、しかしあくまで「副産物」なのであると思います。 空手で精神を鍛えることが大事とは言え、そこで当初の目的である「強くなる」ということをおざなりにするのは本末転倒になります。 空手を学ぶにはまず「強くなること」 その「本分」を忘れるようでは、逆に必須で得るべき精神までいい加減になると思います。 ちょうど学生における勉学に似ていないでしょうか? 学生も本当に学ぶべきことは、社会人として、人間として思いやりの持てる人間性を得ることです。 しかし、もし学生が「人間には友情が大切だ」なんて言って、友達付き合いばかり重視して、勉強をおろそかにしていたらどうなるでしょうか? いえ、逆に本分である勉強をいい加減にするような輩に限って、精神も脆弱なことが多いです。 空手も一緒だと思います。 まず本分の「強くなる」、これをいい加減にするようでは精神の成長もありません。 ただ「思いやり」を学ぶなら、別にそれは空手でなくていいのです。 当初の質問に答えます。 空手を通して思いやりを学ぶのは、単に「偶然の副産物」です。 ただその「偶然」がとても高確率なだけです。 ですから、その具体例は結局、他の趣味や修行と同じような「日々の研鑽」からとさほど変わらないものをイメージして頂ければ足りると思います。 なお余談ですが、私は試合に出ていた現役当時は、どんどん痛みに対し鈍感になってしまいました。 机の角に足の小指をぶつけても、歯医者で歯の神経を突かれても「あ~痛いなあ~」って感じでのんびりしてました。 パンチを顔にくらってダウンしても「ほわ~っ」って気持ち良いって感覚しか無くなってました。 ですから、強くなればなるほど「痛みが分かる」って感覚からかけ離れて行った気がします(笑)
- nomunomu1
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相手の痛みが分かりますね。 自分も同じく痛いですから… 練習がキツイのもあり皆で頑張ろうという連帯感もあります。 有段者がやさしく組み手してくれるというのもあります。 相手に怪我をさせないための技もあります。 コレといったのはないと思います。
昔の知り合いのだんなさんが俗に言う頭よろしくスポーツおできになり見た目もよかったのです。 で、好きなスポーツで、大怪我してリハビリでよくなって理学療法士になったのね。ならなくてもエリート街道すすめた人だったのだけど。 全く歩けないところから社会復帰するまでの訓練とか、人に支えてもらいながらプラスを増やしていくって事、やっぱりしてみないとわからないことだと思う。空手は鍛錬の中で自分の可能性や忍耐や努力で、自己受容はできなきゃやっていけないとおもうの。弱い人には強さは、みせられないでしょ。強くなければやさしくできないと思うよ。 できる人の余裕、つよい人のやさしさをおもいやりと表現しているのな らうそでもそう書くのでは。心身鍛錬を思いやりとたとえているとか。
- aluminizedman
- ベストアンサー率18% (61/335)
たぶん、厳しい訓練とか、修行で、 「痛み」を身をもって経験したりするので、 他人の「痛み」を共感できるようになるのでは? それで、自然と、いたわり、思いやりが身につく。 例えば、自分が交通事故で腕を骨折したとする、 で入院する病院でたくさんの障害者をまのあたりにする、 無事退院した後、街角で車イスの人とか、うわあー 痛かったろうなーと、自分の体験を思い出す、で共感して 思いやれる。 生まれつき、ずーと健常の人には、そうゆうの想像しづらい。 松葉杖で歩くの、どんだけ、メンドイか。麻酔注射どんだけうっとしいか。
お礼
ご回答ありがとうございました。参考になります。 相手の気持ちを理解するためには自分も味あわなければ 理解できませんよねw
お礼
ご回答ありがとうございました。参考になります。 そうですね~あ、コレ痛いだろうな・・とか分かりますよね! 確かに、こうゆう武道って強くなればなるほど、弱いレベルの人に 優しいような気がします。