既に細かな回答が出ていますので、補助的に私は別の角度から書かせてもらいます。
>諸行無常
仏教の根本義に「因縁」と「三法印」(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)というものがあります。仏教を仏教たらしめる核になる教えで、「諸行無常」はその中のひとつです。
三法印の解釈を細かく言えばきりがありませんが、大雑把に原始仏教の解釈では以下のようになります。
諸行無常(全ての命は死に向かう。この私も例外ではない)
諸法無我(この私には心にも肉体にも確かなものはない)
涅槃寂静(それらへの執着を離れたところに安らぎがある)
この3つを通読すればわかるように、三法印とは、「この私」について説く実際的な教えです。本来、時間的にも空間的にも永続確固なものは何もないのにもかかわらず、私たちはついつい「私」というものを実体視して執着を起こし、苦しみを自ら生み出してしまっているのであって、その執着を離れることが安楽の道である、という現実的な教えなのです。
従って「諸行無常」という言葉は、もともとは生命あるものについて「老、病、死」を免れ得ない厳しい現実を見つめた言葉でした。やがて意味が拡大し、大乗仏教になると「一切の現象・存在に常住不変のものはない。全ては刹那ごとに変化してやまないものである」という風に、現象、存在一般の性質を表す言葉になり、しかも否定的なニュアンスが消えることになりました。
日本人は平家物語などの連想もあって、「諸行無常」を散りゆく姿のはかなさになぞらえることが多いのですが、大乗思想では必ずしもそうではなくて、生・死、成・壊といった「変化」をありのままに見ようとするものです。
ちょっと余談になりますが、「諸行無常」の言葉が一般に知られているのは大般涅槃経の中にあるおかげ、とも言えます。お釈迦さんの前世の姿である雪山童子が命と引き換えに羅刹(食人鬼)から、この言葉で始まる無常偈を教わるという話がよく知られています(巻の14、聖行品7の4)。
また涅槃経のこの章の冒頭では、「我、諸行は悉く無常なりと観ず。云何が知るや。因縁を以ての故なり。若し諸法の縁より生ずるあれば、即ち無常なりと知る」とあって、ここでもはっきりと「一切は縁によって生まれるもので(また縁によって壊れるので)無常である」という認識が示されています。
>色即是空
「空」は、先の「無我」が発展してできた思想です。
「無我」についてのお釈迦さんの体系的な教義はありませんんが、たとえば以下のような言葉がそれにあたります。
「いかなる事物も自己性をもたない」(法句経)
「『私には子供がいる、私には財産がある』といって愚か者は心を砕く。自分に自分すらないのだ、どうして子供があるだろう。どうして財産があるだろう」
「自我に執する見解を捨て、モッガラージャよ、世界を空と見なさい、そうすればそなたは死を超える」(スッタニパータ)
このように、執着の対象としての「永遠不滅の自己」を排除することがもともとの仏教の考え方でした。
やがてその対象が大乗の成立とともに「諸法(=一切の要素的存在)」全てに拡大されるようになり、我だけでなくて、我を含めた一切の事物の絶対性を否定するために「空」という言葉が使われるようになりました。
(「無我」という言葉は「我」を否定できても「法」は存在する、という誤解を生みやすかったのですが、「空」は全てを相対化できるので、都合が良かったのです。)
この意味で、「諸法無我」と「色即是空」は、教義としての実質的相違はほとんどありません。どちらも共に、「一切の現象や存在は常住不変の性を持たないもので、ただ関係性のなかにのみ存在する」ということを説くものです。
また従って、吉凶といった価値判断とは関係のない言葉です。むしろそのような価値を判ずる主体としての私も「空」なので、そういう判断そのものを成立させないことになるでしょう。
ただ、「色即是空」というと、観念的な理解のし方、単なるものの見方と思われがちです。しかし般若心経ではその言葉に続けて直ちに「空則是色」と切り返してあることが重要です。2つの句を合わせて、「一切は空であるけれども、私たちは空である現実を離れて生きることはできない。空たる現実を知ることでとらわれなくこの現実を生きよ」と説くのです。
また、自性の否定が価値の否定のように受けとめられて、「自性がないのなら、行為も修行も無意味で、仏教の理想とするところも無意味なのか」、と思われがちですが、やはり般若心経の最後では、むしろ空であるがゆえに修行が可能なのであり、意味を持つのだ、という風に肯定的にまとめていることをよく受けとめる必要があると思います。
「諸行無常」も「色即是空」も、単なるものの見方なのではなくて、生に向かい合う姿勢に結びつくものであるはずなのです。
(ちょっと脱線で恐縮ですが、#4のお答えの中で、「synya」「synyata」とあるのは、それぞれ「sunya」「sunyata」〔発音符は除く〕の誤りでしょう。例えば般若心経の“色即是空”は、梵文では“yad rupam sa sunyata”です。
それから、「シューニャ」が「何もない」という原義なのはその通りですが、現実の用例としては瑜伽論をはじめ多くの仏典でいわゆる「空」の意味で使われています。指摘は失礼にあたるのかもしれませんが、事実関係の確認以外に他意はありません)
お礼
ご丁寧な回答をありがとうございました。 空=無という風に連想しがちですが、むしろ空は無我という言葉のほうに近いということでしょうか。 色即是空・空即是色、これを単独でなくてひとまとまりのものとして理解していかないといけないのでしょうね。