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「ている」の「歴史的なことがら・経歴・経験などを記録として述べる言い方」という使い方について

 日本語を勉強中の中国人です。編集者が日本人の本に書いた「ている」のある使い方に疑問を感じております。ネイティブの皆様に確認させてください。  本が曰く、「ている」の使い方には、「歴史的なことがら・経歴・経験などを記録として述べる言い方」というようなものもあるようです。そのような使い方は本当に存在しているのでしょうか。もし本当にありましたら、それはどういう使い方なのか、もう少し詳しく説明していただけないでしょうか。例文ももう少しいただければありがたく思います。  本に載っている例文は次の三文です。 1.アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。 2.モーツァルト【は】12歳のときに、オペラを作曲している。 3.ひろし【は】3年前にも同じ病気をしている。  私なら上の三文はたぶん次のように書きます。 1.「~着陸した」 2.「~作曲した」 3.「~病気をしていた」か「~病気をした」  私の書き方はおかしいと思われますか。それから、三つの例文の主語の後ろはなぜ【が】でなく、全部【は】になっているのでしょうか。  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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  • hakobulu
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回答No.4

◆ >「歴史的なことがら・経歴・経験などを記録として述べる言い方」 :記録という語句は、『動かし難いものとして認識できる事実』といったような意図で使われているのでしょう。 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸した。(A)」 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。(B)」 この2つの文は、意図する内容が微妙に違うというだけで、どちらも自然な表現です。 Aは、「過去の時点で着陸した」という『行為自体』について述べています。 Bは、 『着陸し(たという歴史を残し)ている』 『着陸し(たという事実を残し)ている』 といったような意味になります。 着陸したという動詞自体の意味よりも、それが行なわれたという歴史、あるいは事実に注目している表現です。 その歴史・事実は今でも残り続けていますから過去形にはならないわけです。 (ex1) 「彼は彼女を知らないと言うが、実際は一週間前にこの家で会っている。彼は明らかに嘘をついていると私は思う。」 【(一週間前に)会った、という行為自体】ではなく、 【(一週間前に)会った、という経験が事実として(現在も)存在している】 ということに重点が置かれてています。 「(会ったという)事実を考慮すれば、嘘をついている」という流れ(構文)が自然に表現できるわけです。 (ex2) 「毛沢東は1893年、中国の湖南省で生まれている。」 【生まれた】という出来事自体よりも、 【生まれた、という歴史的な事実が存在している】ということを意図している表現です。 ◆ 1、《○○が△△》の場合。 主格の[が]は、○○を【強調する意図】を持ちます。 「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している。」 『他の宇宙船ではなくアポロ11号』というニュアンスです。 前後の文脈によっては、 『アポロ9号や10号ではなく11号』ということを強調しているかもしれませんし、 『ソ連の宇宙船ではなくアメリカの宇宙船』ということを強調する意図を持っている場合もあるでしょう。 誤解を怖れずに言えば、△△という述部よりも○○という主格が重視された表現と言えるかもしれません。 2、《○○は△△》の場合。 [は]は、○○を【主題として提示】あるいは【主題として宣言】する機能を持ちます。 主題として提示するので、通常は、読者も○○の存在を既知のものとして受け止めているシチュエーションが必要になります。 桃太郎という昔話の出だしですが、 「昔々おじいさんとおばあさん【が】いました。」と読者に紹介しておいてから、 「おじいさん【は】山に柴刈りに、おばあさん【は】川へ洗濯に出かけました。」 と主題提示によって述部をつないでいるわけです。 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸している。」(原文) アポロ11号を主題としてこれから何か言いますよ、という宣言が含まれています。 『アポロ11号に関して述べてみれば・・・』というニュアンスです。 1とは逆に、「月に着陸した」という述部に重点を置いていることになります。 3、[は]と[が]を使い分けることによって、上のように異なる意図を表現できるわけです。 どちらが間違いということはありません。 全部【は】になっているのは、 「1.アポロ11号」 「2.モーツァルト」 「3.ひろし」 という主格よりも、 「1.着陸している」 「2.作曲している」 「3.病気をしている」 という述部に重点を置きたい意図があるからです。 4、【が】を使って述部よりも主格を強調しているシチュエーションの例を挙げてみます。 「1.アポロ11号【が】1969年に月に着陸して、アメリカの面目躍如となった。」 「2.このオペラは、モーツァルト【が】、12歳のときに作曲している。」 「3.○○さんのはあまり聞いたことの無い病名だが、ひろし【が】3年前に同じ病気をしている。」 など。 ◆ご質問文の添削 A.{編集者が日本人の本に書いた「ている」のある使い方に疑問を感じております} a.【編集者が日本人の本に書いた】ではなく、 『日本人の編集による本に書いていた』としたほうが良いでしょう。 b.【ある使い方】というのは、使い方の内容が特定できていない場合の表現です。 原文の場合は特定できているわけですから、 『使い方』で十分です。 c.まとめると、 『日本人の編集による本に書いていた「ている」の使い方に疑問を感じております。』 などとなります。 大幅に変更しても良ければ、 『「ている」という表現がありますが、日本人の編集による本を読んでいて、その解説に疑問を感じております。』 などとすることもできます。 B.{本が曰く} 難しい表現をよくご存知ですね。 ただ、間違いとは思いませんが、『本の曰く』としたほうが良いように思います。 この件に関しては自信はありませんが・・・。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 hakobuluさん、いつもお世話になります。ご回答ありがとうございます。だいぶ理解できるようになりました。「は」と「が」についてhakobuluさんがおっしゃることはぜんぶ理解できていると思います。よろしければ、私の考え方もご覧ください。質問文の添削にも感謝いたします。「曰く」はじっさい聞いた人に対して使う言葉なのですが、硬いのですね。失敗してしまいました。でも、また試してみます^^。今度は失敗しないようにがんばります。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>記録という語句は、『動かし難いものとして認識できる事実』といったような意図で使われているのでしょう。 「動かし難いものとして認識できる事実」ということなのですね。だいぶ理解できるようになりました。でも、なぜ「動かし難いものとして認識できる事実」と表明する必要があるのでしょうか。つまり、書き手はこのような書き方にする意図は何でしょうか。読み手にいったい何を伝えたいのでしょうか。 文法本の三つの例文の過去の時点の「5年前に」、「1990年に」、「3年前に」を「もう」あるいは「すでに」に置き換えたら私はよく理解できると思います。 過去のことに対しては、どんな時に「動かし難いものとして認識できる事実」の「している」を使うのか、どんな時に、「した」だけを使うのか、判断が付き難くて慣れるしかないですね。何かコツのようなものがあれば、ありがたいのですが、そんなものなんてないですね(><)。 >「1.アポロ11号【が】1969年に月に着陸して、アメリカの面目躍如となった。」 「面目躍如」の読み方を教えてください。「面目」と「躍如」の間に「が」を入れる必要はないのでしょうか。「面目躍如となった」の区切り方も教えてください。 「は」と「が」についてですが、すでに前よりだいぶわかってきたように思います。私はその三つの例文の前にそれぞれ、「アポロ11号が~」、「モーツァルトが~」、「ひろしが~」という文が必ずあると思うのですが、こんな考え方はおかしいと思われますか。「月が出た。その月は大きい」のような感覚に似ていると思います。つまり、いまの三つの例文は「その月は大きい」のような地位だと思います。その前に、必ず、「月が出た」という「が」を使った文があるはずだと思えました。 >編集者が日本人の本に書いた「ている」のある使い方に疑問を感じております この文は私はいつも上手に書けません。いぜんも確かに間違っていましたね。もともとは「編集者が日本人である本」と書くつもりでした。バランスが悪いと思って「である」を「の」に変えました。「編集者が日本人」だけで「本」を修飾するのは、やはり無理でしょうか。

その他の回答 (27)

  • hakobulu
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回答No.28

#18です。ご返事ありがとうございました。 1、 文法に自信はありませんが、「アメリカの面目躍如となった」は名詞として捉えてよいのではないかと思います。 ただ、前に述べたように 「この写真は、報道写真家としての彼の面目躍如たる一枚である。」などのように形容動詞として使われる場合が殆んどです。 「この逸話にも、彼女の面目が躍如としている」は形容動詞で良いでしょう。 2、 「言い換えても意味は通じるはずです」というのはあまり上手な説明ではなかったかもしれません。 舗装し直します。 【雪の降っている現象】を表現する場合、なぜ「雪は」ではなく「雪が」なのか。 この「は」と「が」の問題の根本は、 ≪【雪の降っている現象】をawayuki_chさんが見た時のことを表現する場合≫を想定している、と考えています。 雪の降っている状況にいて、頭の中で「雪は」とするか「雪が」とするか迷っている、という状況を思い浮かべてください。 この場合、「雪」か「降っている」かどちらか一方だけより表現できないとしたら、どちらを選びますか? この自然現象が目に触れてから表現に至るまでの(無意識的)経過を辿ってみたいと思います。 「降っている」という現象自体がまず最初に目に入るわけで、これに対して「雪」という主格を強調(あるいは特定)する必要性を感じるのではないでしょうか。 そこで、「雪は」ではなく「雪が」と表現されるのだと思います。 これが、『(自然)現象に対して「が」をまず考えましょう』と先生がおっしゃった理由になると思われます。 角度を変えた説明の仕方をすれば、「自然現象が目に止まる」というのは、「現象を引き起こしているもの」よりは、流れている、降っているなどの『現象自体との出会い』ということになります。 『何と出会ったのか』ということを強調するために、【が】という強調を意図する語句が必要になる、という解釈でも良いと思います。 これに対して「雪は降っている」と表現すべきはどのような場合か。 「雪を主題として提示する必要がある場合」です。 どのような場合に提示する必要があるのかと言えば、 ≪『今から「雪」に関して何か言いたい』という意図がある場合≫です。 たとえば助詞を省いた、 「雪、降ってる? 」という質問があったとします。 降っている場合は「降っているよ」と答えると思います。 これは、「雪に関して言って(答えて)みれば、降っているよ」ということで、 「(雪は)降っているよ」が省略されたものです。 質問自体も、助詞を省略しなければ「雪は降っている? 」となります。 もし、「雪が降っているよ」と答えたとすると質問者はどのように感じるでしょうか。 『私は、「降っているかどうか」を知りたかったのであって、「雪であるかどうか」を知りたかったわけではない。 だから、「雪が」と雪を強調して答えられると、「質問の意図を理解しているのだろうか? 」と疑ってしまう。』 と、違和感を覚えるでしょう。 ただ、いずれにしても私が述べていることは、「【が】を使う状況」を判別するための考え方のひとつにすぎません。 また、前後の文脈を考慮しないで、単独文だけで「が」と「は」のどちらが正しいのかを決めることは困難です。 縷々述べてきたように、作者の意図によってどちらも使える場合が殆んどだからです。 「アポロ11号【が】1969年に月に着陸している」に戻りますが、 これは厳密に言うと、 「人類が最初に月に着陸したのは何年で、宇宙船は何という名前だったのだろう」という疑問を想定した表現です。 つまり、暗黙的ではあっても読者にこのような疑問が存在しないようなシチュエーションにおいては、このように「アポロ11号が」という表現はあり得ないと思うのです。 この時点で「単独文」という前提は、ほぼ崩れることになります。 「アポロ11号【は】1969年に月に着陸している」の場合は、 「アポロ11号について述べてみたいのだが、それは~」というニュアンスになります。 前後に文の存在しない単独文として成立するシチュエーションとしては、アポロ11号の写真や映像に付随した説明場面のような気がするので、後者の表現のほうが適しているのではないか、と思ったわけです。 3、 a.「いま、私は歩いている。自然の懐にいる。……」 【水が流れている。】を始めとして、どれも自然な表現でしょう。 b.「今日、素敵なところを訪問した。……」 【水が流れていた。】などのように過去形であれば自然です。 【風が吹いた。】【月が出た。】という形は使えません。 【風が吹いていた。】【月が出ていた。】でしょうね。 c.「またあそこを思い出した。もう一度行ってみたい。あそこの美しい景色が(は?)忘れられない。……」 bと同様に、【風が吹いた。】【月が出た。】という形は使えません。 また、【水が流れていた。】などのような過去形が自然です。 bと違う点は、 【水が流れている。】という表現も可能だということです。 この場合は、 『頭の中に思い出している風景が、目の前に再現されているように感じる』 ということを表現していることになります。 d.【美しい景色が】のほうが一般的に使われる頻度は高いでしょう。 しかし、【美しい景色は】も時折使われます。 (ア)「またあそこを思い出した。もう一度行ってみたい。あそこの美しい景色【が】忘れられない。雪が降っていた。」 この段落は骨子として、もう一度行ってみたい理由は忘れられないからだ、というニュアンスになります。 この場合の【が】は主格ではなく、「何が忘れられないのか」という事の対象を表わしており、それは「美しい景色だ」と述べています。 全体としては、『行ってみたい』ということが、この段落の骨子になっていると言えるでしょう。 (イ)「またあそこを思い出した。もう一度行ってみたい。あそこの美しい景色【は】忘れられない。雪が降っていた。」 微妙ですがニュアンスが違ってきます。 【は】によって「あそこの美しい景色」を主題として提示しているために、全体の骨子として『忘れられない』の方に比重が強くかかっている表現です。 一応確かめたのですが、傘のどこかが破れていて不良品かもしれません。 その時は直しますので、お手数ですが風邪を引く前にまた魔笛を吹いて下さい。 awayuki_chさんはシューベルトもお好きだったんですね。(^_^)  

awayuki_ch
質問者

お礼

 hakobuluさん、たびたびありがとうございます。「縷々述べてきたように」の「縷縷」はすごく美しい表現ですね! 最近、道の舗装のことも傘屋さんのことも難しい仕事ばかりさせてしまい、申し訳ないと思います。頭はとてもおかしいと思います。「面目躍如」と「躍如」の使い方がよくわかりました。チャンスがあったら、使ってみたいです。長い間「が」に対する疑問もやっと解けました。理解しやすく説明していただき心より感謝しております。すっきりいたしました。窓から流されてきたこの冬の空気を一口吸ったら、なんとおいしいものでしょう。私の頭は論理的に物事を考える機能が欠けていると思います。「hakobuluさんの頭と私の頭の構造の違いっていったい何なんでしょう。絶対構造は違うの!」と時々思っています。永遠に手に持つことができない傘からこそ、心の中にこの傘をさして素足で歩いている瞬間を大切にしたいのです。でも、その瞬間はこの冬の街の街路樹のように、静止の画面のまま、心の奥に沈殿させるべきものだと以前からも考えたことがあります。静止の画面は死亡を意味するわけではなく、枝の間から凍りついた強い命の美しさが見えるのです。その凍りついた強い命の美しさが心の奥に沈殿させるのです。シューベルトを聴くのが大好きなんですよ。時間が逆流することができれば、作曲当時のシューベルトを温めにゆきたいです。でも、作曲当時のシューベルトにとって、ほしいのは、誰かの影ではなかったはずです。「昇華」って美しい言葉ですね。『新明解国語辞典』によると、「1.固体から直接に気体(気体から直接に固体)となる現象。2.ある混沌の状態から純粋なものに高められること」だそうです。私は「昇華」という言葉が持つ雰囲気が好きです。がんばります。魔笛はこれからも使わせてください。また、引き続き質問のあられと爆弾も投下させてください。寒いでしょうが、どうかどうか風を引かないでくださいm(_ _)m。

回答No.27

おやおや、この有様は何事だろう。ま、いいか。#13です。 質問者さん、日本語に過去形や進行形が存在しないのは厳然たる事実です。それは取りも直さず時制が存在しないということでもあります。そういう日本語と無縁な語ないし概念を日本語を考えるときに用いるのはきわめて有害です。日本人にとっても外国人にとってもそれは全く同じことです。立場を理解せよと言われても困ります。その立場は端的に言って錯乱の坩堝でしかありませんから。 あなたは「ている」という形が過去にも現在にも未来にも使用されるということはもうご承知ですね? それなのに例えば「いま彼はグラウンドを走っている」の「ている」は「現在進行形」だ、などと呼んで平気なのですか? 平気だとしたら、ちょっとその心事は私に諒解しかねます。 でも「ている」が現在進行形だと思うから、この愚問(とあえて申します。どうか悪意に取らないでください)が発せられたのではありませんか。現在進行形が過去を、つまり歴史だの経歴だの経験だのを表すなんてそんな馬鹿な、という驚きが質問から伺われるように思います。 「ている」はしかし、現在過去未来、どこにでもそのまま形を変えることなく現れるのですから、形が時間の標識となることができません。動詞の終止形だって、助動詞だって同じこと。くどいですが、三つの時間帯のどこにでも同じ形で出るものを現在形とか過去形とか未来形とか呼ぶのは愚かなこと、無意味なことではないですか。それは論理の破綻にほかならないとは思いませんか。 疑問に思うべきことがあるとすれば、どうして言葉の外形が不変でありながら、ある時は過去における動作の完了を内実とし、またあるときは現在の動作の持続を意味することが可能なのか、ではないでしょうか。 さらに踏み込んで考えるなら、完了と持続(あるいは存続)は矛盾する二観念ではないのか、ってことではないでしょうか。いったいどうやって一語の中にそれらが統一もしくは格納されているのでしょうか。不思議じゃありませんか。どんなふうに教わりました? なにはともあれ、国文法が過去形だの現在形だのという語を用いないのは単なる習慣とか定義とかの問題と考えるのは見当違いです。それは論理の問題です。同一律と矛盾律という論理性の根元を蹂躙するような見っともない真似は文法が理性の産物である以上できないからです。 いろいろ誤解なさっているようですが、一つだけ、一番大切なことを書きました。ああ、あとどうでもいいんですが火傷と書いてヤケドと読むのは借字ではありません。熟字訓です。でないと、ありとあらゆる訓が当て字となってしまいます。訓という概念が無用のものになってしまう。それでいいなら、勝手次第に。

awayuki_ch
質問者

お礼

     * >あなたは「ている」という形が過去にも現在にも未来にも使用されるということはもうご承知ですね?  はい、すでに存じております。 >それなのに例えば「いま彼はグラウンドを走っている」の「ている」は「現在進行形」だ、などと呼んで平気なのですか? 平気だとしたら、ちょっとその心事は私に諒解しかねます。 申し訳ありませんが、「ている」を日本語で何と呼ぶのかにはあまり興味を持っておりません。「いま彼はグラウンドを走っている」という文は、現在「走る」という動詞の進行中だと理解しております。間違っていましたら、教えてください。作者の意味は文によって読者に伝えることができれば、それでいいと私は思います。「いま彼はグラウンドを走っている」という文は未来、過去のことを表すことができないと思います。未来、過去のことも表すことができれば、教えていただければ幸いです。意味を正しく伝えられないので、知りたいものです。ちなみに、「彼はグラウンドを走っている」は過去、現在、未来を表すことができると思います。もう一度申し上げます。英文法と対照して勉強するつもりはありません。文法が大変苦手ですが、深く勉強するつもりはありません。「自分の意味を思ったまま、自然な日本語で忠実に伝える」、それが大事なことだと思います。わがままで本当に申し訳ありません。

awayuki_ch
質問者

補足

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。字数オーパーになるため、お礼と補足と一緒にさせていただきます。再びご親切に回答していただき誠にありがとうございました。「ている」の説明についてNo.16さんのご回答とNo.17の私の補足もご覧になってください。違う本からの説明です。 でも、わたしはそのように教わったのではありません。大学時代で使っていた中国人の編集による日本語の教科書をもう一度読みました。中国語の説明になっているので、下手な日本語で訳してみます。変な日本語はお許しください。私の教科書は「動詞持続体」という言葉を使いました。 一.動詞持続体の意味 一般的に具体的な動作を表す動詞の後ろに来る時、動詞持続体は進行する動作を表す(たとえば、「歌っています」)。あるいは、繰り返して発生する動詞を表す。それ以外、動作の「存続」を表す(たとえば、「帰っていました」)。 二.動詞持続体の構成 動詞持続体は『動詞の連用形+接続助詞「て」+補助動詞「いる」』からなっている。 『動詞の連用形+「て」』とは次のようなことである。 1.一段動詞、サ変動詞、カ変動詞 =動詞の連用形+ます 2.五段動詞は「音便」がある。 (1)カ行、ガ行 イ音便 (2)ナ行、バ行、マ行 撥音便 (3)タ行、ラ行、ワ行 促音便 (4)撥音便とガ行のイ音便の場合、て→で 三.動詞持続体の過去形は過去ある時間かある期間内で進行する動作を表す。 四.例文(すべて載せました) ・わたしはいまお茶を飲んでいます。 ・わたしはセーターを着ています。 ・今日の新聞はまだ読んでいません。 ・その時、わたしは遊んでいませんでした。勉強していました。 五.表(同種類の動詞は一つだけ挙げさせていただきます。) 主な後続詞  サ変動詞  カ変動詞  一段動詞  五段動詞  種類          勉強する   来る    見る    書く    基本形 ます     し      き     み     き     連用形 て      し      き     み     い     連用形 体言    する   くる   みる   く    連体形  その教科書は文法にうるさいので、当時わからなかったまま勉強してしまって難しいと思います。不思議なことに、何年後急に納得できたところも多いです。古文の文法の本を先日何ページか捲ってみましたが、古文の文法よりずっとましです。      * 1.もう一度私の質問文を読んでみました。私は最初から「過去形、現在形」という言い方をしていないと思います。「過去形、現在形」を使ったのは「過去のことを表す、現在のことを表す」という意味を簡潔に表現するためです。       2.なぜ過去のことでも、「ている」を使えるのかはいま次のように理解しております。事実として存在していますから。おかしくはないと納得できました。 3.外国人に、「日本語は進行を表すことができるか。普通どのように表現するか」、「日本語は過去を表すことができるか。普通どのように表現するか」と聞かれた時、どのようにお答えになりますか。 「日本語は時制がないから、どうでもいいよ。勝手に使え」ですか。それだと、外国人は困りますよ(少なくとも私が)。『日本語は進行を表すことができる。一般的に「ている」を使う』、「日本語は過去を表すことができる。一般的に「た」を使う」のような答えが望ましいと私は思います。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.26

awayuki_chさん、ちょっと横レス失礼致します。 kiwifruitさん、お気遣いありがとうございます。 (kiwifruit様、というのは何か他人行儀な気がするので「さん付け」で失礼します。) 全く気になさらなくて結構です。 kiwifruitさんの熱意は私も良く存じております。 国語への理解が深まるよう、また、誤った情報が伝わらないよう気遣っていらっしゃるのですよね。 私も大変勉強になっています。 私は、どうも記述の仕方が乱雑なので、自分でも何を書いたのかわからなくなることがあるんですよね。(^^;) 色々ご迷惑をおかけしていると思います。もう少し整理して記述するよう留意するつもりです。 以前からお世話になっているような気がしますが、今後ともよろしくお願いいたします。 また、この件に関しましては以後コメント不要です。  

  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.25

hakobulu様 私がhakobuluさんの揚げ足を取るようなことを書いて、ご気分を害されたとしたらお詫びします。 私が指摘したことも、一生懸命、どうしてawayukiさんがそう感じたのかをくみ取ろうとして筆が滑った(ネットだと変ですね^^ キーボードが滑ったと書くべき?)結果だろうと察し、とてもお優しい方だと想像しております。 ただ、語句の用法については、ご留意ください。 >その現場を客観的で冷静的に眺めながら 「冷静に眺めながら」ですね。日本人どうしなら、多少の語句の間違いは構わないのですが、日本語学習者にはお気の毒です。

  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.24

awayuki様 #23のメッセージを読んで、もし私が怒っていると誤解させてしまったら申し訳ありません。決して、怒っているのではありません。 awayukiさんが次から次へと新しい疑問を書くのは、私たち回答者に対して丁寧な返事を書こうとして、つい書いてしまうのでしょうね。あるいは、awayukiさんは、同じ「が」の機能について質問しているつもりでも、実は別の問題で、そのために回答者が「が」の別の機能の説明を書かなくてはならないということになっているのだと思います。 「は」と「が」の問題については、私が持っている日本語文法の本(英語で書かれているものです)でも、「は」と「が」の説明に4ページも費やしているほど、機能がたくさんあるんです。 だから、具体的な例やシチュエーション(=文脈)を挙げて、「どうして、ここでは『は』になるのか?」、「ここで『が』を使うとどんなニュアンスになるのか?」というご質問にはお答えするのは簡単ですが、4ページに渡る説明を全て書くのは難しいのです。 hakobuluさんや私が使った「確認」とか「経験」とかいう言葉が分かりにくいということは理解できました。 最後に、別の言葉での説明を試みてみます。「アポロ11号は(または「が」)1969年に月に着陸している。」は「『アポロ11号の月面着陸』ということが1969年に起きて、それが事実として存在している」ということを言っています。これを、「「歴史的なことがら・経歴・経験などを“記録”として述べる言い方」という表現をしているのです。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruit先生、たびたびありがとうございます。1はすでに理解できました。大変参考になりました。「は」と「が」は外国人にとってとても難しいです。私はいま少しわかるようになりましたが、まだわからないところが多いです。kiwifruit先生にその説明の4ページにわたってぜんぶ書かせるつもりはなかったと思います。大学時代からずっと持っている、ある「が」の判断基準(もしかしてそれは間違っている)がとても心配なので、伺ったのです。kiwifruit先生はNo.14で「発見」だと説明してくださいましたが、私の補足の書き方が下手なので、補足に書いたシチュエーションは回答してくださいませんでした。シチュエーションについて補足したので、もう少しご意見を伺うことができれば大変ありがたく思います。よろしくお願いいたします。

  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.23

awayuki様 このスレッドはとても長くなってしまいましたね。回答を読んで、あらたな疑問が出てくるのはしかたがないのですが、一つの問題が解決しないのに、次から次へと別の質問をすると、収集がつかなくなってしまうと思います。特に、「『は』と『が』の問題」は、文脈がないと答えるのは難しく、例文だけを単体で提示されても説明に苦労します。 もう一度、ご自分がお持ちの本などで、「は」と「が」の機能を確認して、整理されてはいかがでしょうか。 私は、ここで一旦、このスレッドから抜けることにします。もし必要でしたら、別々のスレッドを立てて、あらたに質問をしてください。 日本語の勉強がんばってくださいね。心から応援しています。

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruit先生、いつもお世話になっております。日本語の勉強を応援していただき心より感謝しております。論点が絞れない質問になったことをお詫びいたします。今回は、kiwifruit先生に大変なご迷惑をおかけしたと思います。本当に申し訳ありませんm(_ _)m。kiwifruit先生はとても親切な方で実社会でも信頼できるすばらしい方だと感じております。私はとても尊敬しております。これからも引き続きkiwifruit先生のご意見を伺うことができれば大変嬉しく思います。これまで、美しい日本語をいろいろ教えてくださり本当にありがとうございました。美しい日本語を習得したいので、これからもよろしくお願い致しますm(_ _)m。

awayuki_ch
質問者

補足

このスレッドをもう一度整理してみました。主に次の問題に触れたと思います。 1.「している」 2.「が」と「は」 3.「だ」と「である」 4.日本語の時制の有無 1はすでに納得できました。2、3、4はぜんぶ1から生じた疑問です。私の質問文は2について触れましたが、まだ解決できていないと思います。私の本に挙げた三つの例文は現象を表わす単独文として「が」のほうが適しているのではないか、と考えたわけなので、いま2についてもう少し皆さんのご意見をいただければ大変ありがたく思います。今回私が聞いた「が」と「は」(特に「が」)は大学時代からずっと持っている「が」の判断基準と関係があるので、とても心配です。ちなみに、3と4は今回伺いたかったことではありません。

  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.22

#18様 私には、#18で、なぜ、下のような説明をするのか理解できません。 >e.「富士山は日本の一番高い山だ」に関して、 『>話者の判断なども混入されている感じで、極端的な感覚にしたら、「~だ」は「富士山は日本の一番高い山なんだよ!!!知らないのか!!!」のような熱血系の叫びになってしまうでしょう。』 とおっしゃっているのは同感です。 なぜ、わざわざ「!!」を使って、興奮したような口調を示さなければならないのでしょうか?「誰がなんと言おうが、富士山は日本の一番高い山である!!!」と書けば、同じような口調になりませんか?単に文体の違いを説明をするのに、口調まで変える必要はないと思うのですが。 なお、「極端的な感覚にしたら」などという表現はありません。「極端に感情を込めて発言したら」ではないでしょうか?

  • kiwifruit
  • ベストアンサー率40% (14/35)
回答No.21

#14の「美しい風景が/は忘れられない」について >上の三つのシチュエーションで作文するなら、後ろの(自然)現象のところで「が」であっているのでしょうか。また3の「美しい景色」の後ろに「が」と「は」のどちらを使うべきなのか教えてください。 私には『後ろの(自然)現象のところで「が」であっているのでしょうか。』の文の意味が分かりません。「後ろの」とは「3番目の(文)の」という意味でしょうか?そのように解釈すると、「3の「美しい景色」の後ろに「が」と「は」のどちらを使うべきなのか」とほとんど同じ質問だと思います。   取りあえず、そのように解釈して回答しますが、「美しい風景が」でも「美しい風景は」でも、どちらでも構いません。 この「が」や「は」は主語を示すものではありません。「私はあそこの美しい風景【を】忘れられない。」の「を」を「が」や「は」で書き換えたものですね。 この「が」を敢えて説明するとしたら、このように答えます。 「何が(忘れられないのか?)」ということに主眼をおけば、「あそこの美しい風景が」になります。 しかし、3の場合、「が」「は」「を」のどれを使っても、自然な文章になります。

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruit先生、たびたびありがとうございます。3の場合の「が」「は」「を」のどれを使っても、自然な文章になるのですね。「を」を「が」や「は」で書き換えたというご説明は大変参考になりました。  本当にありがとうございました。

awayuki_ch
質問者

補足

>私には『後ろの(自然)現象のところで「が」であっているのでしょうか。』の文の意味が分かりません。「後ろの」とは「3番目の(文)の」という意味でしょうか?そのように解釈すると、「3の「美しい景色」の後ろに「が」と「は」のどちらを使うべきなのか」とほとんど同じ質問だと思います。 書き方が下手で、申し訳ありません。「後ろの」とは「3番目の(文)の」という意味ではありません。三つのシチュエーションの「……」に入れる私が挙げた自然現象です。「海が青い。山が高い。水が流れている。雪が降っている。風が吹いた。花が咲いている。月が出た。車が走っている。ベルが鳴っている」という文を指します。

  • kiwifruit
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回答No.20

#14の「である」と「だ」について >「だ」に比べると、「である」のほうが冷静的な感じがします。 私はなぜ、awayukiさんがそのように感じるのか、また、「冷静的」(※)が何を意味しているのか理解できません。「だ」と「である」は、単に「文体、あるいはスタイルの違い」です。「です」と比べると、この2つは『論文』や『新聞などの記事』、『報告書』などで使われる、やや堅い文体です。 しかし、このスレッド(トピック)は長くなりすぎています。「だ」と「である」の質問は別のスレッドをたてることをお勧めします。 (※)「理性的」や「論理的」とは言いますが、「冷静的」とは言いません。 「冷静」は「(人や動物が)興奮していない/感情的ではない/落ち着いている」という意味ですが、正しく理解されているでしょうか?

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruit先生、たびたびありがとうございます。「だ」と「である」の違いを聞いたわけではありません。ただ、「だ」と「である」の違いから受けた雰囲気に近い(だいたいのでもいい)のではないかと考えたわけです。抽象的な概念がとても苦手なので、つい似ている感覚のものを探してしまいました。「だ」と「である」についてここで論じるつもりはありません。「だ」と「である」についてわからなかったら、また別の質問を立てさせていただきます。何度も本当にありがとうございました。

  • kiwifruit
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回答No.19

#14の「地球が/は回っている」について >事実や真理を客観的に述べる時に、次の二つの文のどちらが正しいのでしょうか。私は1だと思いました。 >1.地球が回っている。 >2.地球は回っている。   1の文は、普通次のような場合に発せられます。 (1)言外に「太陽は回っていない」というとき 「回っているのは太陽ではない。地球が回っているのだ。」 (2)「何が回っているのか?」あるいは、「自転しているのは太陽か?それとも地球か?」と聞かれたとき。 これは、「私が東京に行きます。」の「が」と同じです。 つまり「(東京に行くのは陳さんでも林さんでもない。)私だ。」と言う場合や「誰が東京に行くのか?」と質問されたときに「私が行く。」と答えるときの「が」と同じということです。 どうやら、「事実や真理を客観的に述べる時」という説明は、うまくawayukiさんに伝わらなかったようですね。 awayukiさんだったら、次のような文を何と説明しますか? ・犬【は】哺乳類だ。 ・人間【は】いつかは死ぬものだ。 ・水【は】水素と酸素からできている。 ・地球【は】自転している。 ・富士山【は】日本で一番高い山だ。 私はこれらの文を「真理や定理を述べる文」と説明するのですが...。

awayuki_ch
質問者

お礼

 kiwifruit先生、たびたびありがとうございいます。頭が悪い生徒なので、申し訳ありません。ぜひ怒らないでくださいm(_ _)m。            * 補足にkiwifruit先生の質問に対する回答を書き忘れてしまいました。補足させていただきます。 >awayukiさんだったら、次のような文を何と説明しますか? ・犬【は】哺乳類だ。 ・人間【は】いつかは死ぬものだ。 ・水【は】水素と酸素からできている。 ・地球【は】自転している。 ・富士山【は】日本で一番高い山だ。 私はこれらの文を「真理や定理を述べる文」と説明するのですが...。 まず、上の文は(自然)現象(事実)だと思ったので、「~が~」の両側の「~」を同じ地位だと認識してしまい、自分で書くなら「が」と決めてしまいました。ですから、私の先生のあのルールがとても心配です。でも、いま「は」を拝見して自分に納得できる説明もできます。それは、上の文は「犬、人間、水、地球、富士山」について何か言おうという意図を話し手が持っているわけです。「犬、人間、水、地球、富士山」は誰でも知っている概念になっているので、「は~」の「~」の部分に注目するべきです。ですから、「真理や定理を述べる文」になりました。

awayuki_ch
質問者

補足

> ・犬【は】哺乳類だ。 ・人間【は】いつかは死ぬものだ。 ・水【は】水素と酸素からできている。 ・地球【は】自転している。 ・富士山【は】日本で一番高い山だ。 私はこれらの文を「真理や定理を述べる文」と説明するのですが...。 確かに間違っていました。「が」だと思ってしまいました。 >>1.地球が回っている。 >>2.地球は回っている。 > (1)言外に「太陽は回っていない」というとき「回っているのは太陽ではない。地球が回っているのだ。」 (2)「何が回っているのか?」あるいは、「自転しているのは太陽か?それとも地球か?」と聞かれたとき。 上の(1)(2)のニュアンスは理解できます。でも、次のようなシチュエーションはどちらを使うのかよくわかりません。たとえば、天文台の中で、宇宙の環境を真似した劇場があるとします。暗くなってから、星がたくさん見えます。劇場自身もゆっくり回るし、座っている椅子も動くので、人間はまるで宇宙にいる気分になりました。 その劇場に座っていて、シーンを見ながら、自分の頭の中でどのように「が」と「は」を使うのでしょうか。次の話は私の頭に言いたいです。よろしくお願いいたします。 「きれい! とても幸せ! 地球が(は?)回っている。木星が(は?)回っている。土星が(は?)回っている。みんな回っている。私はいま宇宙にいるんだ。」