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幼い頃の間違った性体験による屈辱感といじめについての質問です
幼い頃の間違った性体験による屈辱感といじめについての質問です。 3歳くらいの時、母親とその親戚3人に囲まれて、足を広げて上に上げられ、恥ずかしい格好でおばあちゃんにクリに何かを塗られました。その時に、親戚の一人が私に顔を近づけて、笑いました。 その後泣き止みながら母にパンツをはかされました。赤ん坊ながら、屈辱感と無力感が漂っていました。 その後物心つくまで、それを思い出しては、一人でやって、当時の屈辱感を再体験していました。 きっとその感覚が私の潜在意識に組み込まれたのでしょう、学校内で、家の中で、何かと泣かされた記憶があります。 皆、私が無力で泣くものだとして見ていました。 それが、いじめにつながったこともあると思います。 大人になった今も、何かに負けた時や小さなふとした瞬間、当時に似た感覚が頭をよぎることがあります。 この感覚を払いのけるにはどうしたら良いでしょうか? このままでは一生敗北者になります。
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クリトリスに何か塗られたという体験が一度だけだとしたら、それは何かしらの理由があってのこと(病気・怪我など)のことだと考えられます。 今は大人になったわけですから、まずはそのときの親たちの行為は必要なものだったのだ、というように割り切ることも必要かと思います。 もしそれをしてなかったなら、重大な病気にかかっていたのかもしれない、と。 とはいえ、大人に押さえつけられ自分の意思の自由が利かない時に、クリトリスという自分の感情という内面に直結する部分を触られるということは、3歳の女の子にとっては相当の恐怖だとうろ想像できます。 自分の意思が利かない時に、そんなクリトリスを触られたのですから自分の内面が他人によって支配されたという感覚に陥ったのではないでしょうか? なので、他人から攻撃されたときでも、自分の意思を自覚することができず、結局泣くという自分自身だけで解決する方法しか取れなくなってしまったのだと、思います。 しかし「その後物心つくまで、それを思い出しては、一人でやって、当時の屈辱感を再体験していました。」ということは、その支配される感覚に無意識のうちにある種の(性的な)快感を感じていたのではないでしょうか? それに「似た感覚が頭をよぎることがある」とのことですが、それは刻一刻と変化する自分の心のバロメーターです。 「負けた瞬間」やストレスなどで心が不安定になれば、誰でも性的な欲求が意識しても意識しなくとも溜まってくるものだと思います。 おそらく、そのような欲求と当時の感覚がリンクしているのでは、と考えられます。 詳しいことは分からないのであくまで推測に過ぎないのですが、払いのけるのではなく、正面から向き合うことが必要なのではと思います。 やはりそれを解消するためには、払いのけることではできないと思います。 その感覚がどういうものかを感じ、もし仮に性的な欲求が溜まってきたのであれば、マスターベーションで解決するなりの方法があります。 また、そのような感情を自分は嫌っているのか、ということまで含めて考えることです。 そのようにしても一回では解決できなく、もしかしたら死ぬまで付き合うことになるかもしれませんが、正面から向き合うことで上手い付き合い方を見出せると思います。 そのような感覚が襲ってきても体を固めて構えずに楽に付き合う、ということが大切ではないでしょうか?
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- yokihito005
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とくにオムツがとれるころの幼児は,濡れたおむつを長々はいていることが多いので,かぶれや尿道炎などをしょっちゅう起こします。うちの女の子も男の子も,陰部に塗り薬をぬらなければならないこともけっこうありましたよ。 ということで,質問者さんが本当に3歳の記憶をもっているのかどうかはともかくとして,質問中にあるようなシチュエーションはどこの家庭でも日常茶飯事だということです。 記憶というのは事実とは違います。のちの経験が過去の事実をもとに糊塗してしまいます。質問者さんのトラウマが自慰にあることは間違いないでしょうが,3歳の記憶が「恥ずかしい格好でおばあちゃんに」とあるところが引っかかるところです。小さい頃,自慰をおばあちゃんに厳しくとがめられた中りが妥当な解釈だとは思うのですが,こうした憶測はお役に立ちませんよね。 いじめを含め,「この感覚」がすべてこのトラウマに起因するとはかぎりません。問題は質問者さん自身が自分の原点を無理やりこの「記憶の体験」に持っていっていることではないでしょうか? すべてを同時に解決できる方法ではないかもしれませんが,少なくともご自身の性は肯定すべきですよ。だれでもトラウマや抑圧された欲求はあるんです。心の中で無理に「整理」しないで,こころのおもむくまま素直に「応じれば」いいのではないでしょうか? ここのコーナーを丹念に見てみればわかると思いますが,自分は変態じゃないか?,悪いことをしているのでは?という質問で一杯です(笑)
お礼
アドバイスありがとうございます。
- yskm
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やはり、気持ちが不安定な時、自慰行為に走りがちになると思います。 やはり、唯一の楽しみが自慰行為のよる快楽ということになると思うからです。 それだけ、日常生活が漠然とではあれ辛いものだったのだと察しられます。 しかし、それに苦しんでいる人はijiraremasさんだけではありません。 おそらく、そのときの自慰行為というのは、自慰行為の最中は楽しくてもやり終わった後に残る虚無感、罪悪感に苦しめられていたのでは? 不安感から自慰行為の快楽を求めるのですが、やはりしかし自慰行為では解決しないのです。 今はしていないとのことですが、それでも当時の自慰行為のことを親友が察していることが怖いというのは、それが思い出したくない過去ということなのでは? つまり、その自慰行為そのものと自慰行為に伴うさまざまな苦しみが親友の存在とともに思い出される、ということなのでしょうか? つまり、自分の嫌な過去の時期に時間を共にした親友が、自分の思い出したくない苦しみを知っている、ということが怖いのでは? 写真を捨てた、ということも、そういうことではないでしょうか? 詳しいことは分からないので的確にいえてるかどうか自信はありませんが、思い出したくないのなら無理に親友と付き合わなくても良いのかもしれません。 そうだとしたらその代わり、それに変わるこれからの自分を同時に創るべきです。 自分と向き合え、と言いましたが、確かに現在の確固たる自分がないときに、嫌な過去と正面から向き合うということは酷かもしれません。 何か夢中になれるもの、夢などに向かって自分を作り上げることです。 あるいは、現在の仕事なり勉強なりを真剣に打ち込むことです。 でなければ、その過去は一生現在と直接引きずって乗り越えることは出来ないと思います。 何か真剣に打ち込めば新しい自分を発見したり作り出したりすることが出来るはずですし、そのような過程で自分は変わっていくものです。 その結果自分が変われば、嫌な過去も冷静に見れるようになれるかもしれません。 とにかく、口では簡単に言えることですが、何か夢中になれるものがあればよいですよね。 仕事でもスポーツでも読書でも音楽でも。 的確なアドバイスではないかもしれませんが、参考までにどうぞ。
お礼
アドバイスありがとうございます。
- leo926
- ベストアンサー率52% (56/106)
3歳の記憶があるということは、あなたのとってものすごい出来事だったのでしょうね。 民俗学的には、世界中でペニス・クリトリスに傷つけるという儀式があります。 あなたの生まれた地域が、地方であれば、あなたの家が旧家であれば、ありえないことではないと思います。 大切なことは、あなたへの行為があなたを傷つけるための行為ではない事ことです。 あなたは家族に愛されていますか。大切にされていますか。完全ではなくとも、大枠で大切にされていると感じるのなら、あなたの生きている意味は十分あるのです。 友達は、あなたを気に掛けてくれますか。十分でなくとも、あなたを気使ってくれるのなら、友達はあなたを大切と思っているのです。 1番じゃなくとも、3番か4番目にはあなたを思ってくれていませんか。 もう少し、あなた自身の素晴らしさに気づいてください。
補足
>友達は、あなたを気に掛けてくれますか。十分でなくとも、あなたを気使ってくれるのなら、友達はあなたを大切と思っているのです。 19歳の時に親友と呼べる人がいました。そして、二人で写真を沢山撮りました。 時が経って、大人になった今、その親友からメールが来たのですが、自分のこの性癖に気づかれているのではないかという不安から、親友を遠ざけてしまいました。 親友の家に泊まった時もいつもの習慣で夜寝る前にしてしまったからです。親友の母親もこの私の性癖に気がついていたと思います。 当時、親友は私のことを口を開けて寝ていると表現していました。 過去の写真を見ても、明らかに、自慰行為をしていない現在の私と表情が違うので、当時の写真の大部分を捨ててしまいました。 親友は、私にとても良いことをいっぱい書いてきましたが、いざという時、何を言われるかが怖かったので、自分から泣く泣く喧嘩を仕掛けて友情を壊してしまいました。
お礼
アドバイスありがとうございました。 今日、私の投稿とアドバイスを母に見せ、当時の事を語った所、母はびっくりしていました。 おばあちゃんがクリを刺激した事に気がつかなかったようです。 母に当時の事を聞いてみた所、もしそれをしてなかったなら、重大な病気にかかっていたのかもしれない、と言う様な事はなかったそうです。 私が日々うっすらと感じていたことを察してくださりありがとうございました。